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毎日note #04 だから私は森田ひかるに全幅の信頼を寄せるー今だからこそNobody's faultという楽曲を深掘りする
楽曲の深掘りをしてみたい。それが毎日noteの土曜日のミッション。
櫻坂、日向坂、そして漢字欅にひらがなけやき。楽曲という意味では本当に多種多様ではあるけれど、第1回に選んだのはこの曲であった。
Nobody's Fault。
今でも私が最も知りたいのは、この曲はいったいいつ制作されたのだろう、ということ。
2020年、改名発表が7月に行われ、10月の欅坂LAST LIVEの最後の最後で披露されたのがこの曲で。
ということはそこから逆算しても、少なくともその期間である3か月の間であることは間違いない。
いや、もっといえば、楽曲の仮歌の形ができあがったのは…メロがあがり、秋元康が歌詞をつけたのはいったいいつ頃なのだろうということであり。
何故そこにこだわるかというと、この曲は欅坂が新しい名前のグループに生まれ変わることを見越して作られたものなのか、それとも以前からあったストックから引っ張ってきたものなのか、そのどちらかで意味合いが大きく変わってくるからだ。
歌詞の内容から考えれば、前者の可能性が高い。
メロそのものはもっと以前に完成していたかもしれないが、歌詞に関しては、例えば2番の
やるか?やらないのか? それだけだ
もう一度生まれ変わるなら
ここなどは改名後の彼女たちに向けたメッセージにしか聞こえない。
これは初めて言うけれど、欅坂46は平手友梨奈が「脱退」したときにその歴史は終わっていた、と私は考えている。
それがいいとか悪いとかではない。
ずっと彼女を前面に立たせて世界を構築していたので、誰かがその代わりをするということが結果的に許されないグループとなってしまった。
許されない、というと語弊があるが、要は誰かが代わってセンターに立ったとしても、「何かが違う」のだ。
たとえそれが、菅井友香であろうとも、小林由依であろうとも、渡邉理佐であろうとも、鈴本美愉であろうとも、小池美波であろうとも。
違うのだ。
そう思わせてしまったところが欅坂46の「完成」であり、逆に言えば「完成」してしまったのであると。
そうなると、つまり柔軟性がなくなってしまう。
負担が、センターの平手にばかり行ってしまう。
硬直性。
そんな平手が2020年1月の「1.23事変」で脱退してしまった。そこからの欅坂は、その違和感との戦いだったのだ。
敵は、あまりにも強大だった。
平手がセンターに立つことが前提で作られたのではないかと思われる曲がほとんどの欅坂で、平手がいなくなってどう世界観を構築するのか。構築したとして、それは違和感なく受け入れられるのか。
ずっと彼女たちを、その軌跡を追ってきた私だからこそはっきり言うと、
勝てなかった。
誰が矢面に立っても、違和感を払拭することはできなかった。
もちろん、彼女たちのせいではない。それこそNobody's faultだ。
2020年1月のあの事件から、7月の改名発表まで、メンバーは本当に大変だったと思う。いや、彼女たちだけではない。周囲のスタッフの皆様、すべての関係者の皆様にとって軽々しく口にできない日々だったと想像する。
こういうとき、人は誰かのせいにしたがる。自分に責任が0だということを確認したいためだ。そうすることで重荷を背負わなくてもいいことになるからだ。ただし、それが根本的に何かの解決になるのかと言われればそうとは限らない、としか言いようがない。
Nobody's fault
彼女たちは、誰のせいでもないと言い切った。
自分のせいにもするな、とも歌った。
いや、正確には、周りの大人がそう言わせた。
誰のせいでもない、ということは、誰にも責任の所在がない、ということを意味しているのではないと私は考える。
たとえ微々たる数字ずつであるにせよ、そこにいる全員で責任を分け合うという意味ではないのか。
もちろん彼女たちだけではない。
関係者全て、である。
そこには、私たちファンも含まれる。
MVを観たときの彼女たちの、覚悟を決めた表情というのは、責任から逃れられた者たちのそれではない。むしろ逆である。
そうでなければ、なぜあんな悲壮感が生まれるのか。
前を向かなければならない、前に進まなければならない、その悲壮感の根底にあるのは当然、こうなってしまった自分たちに対する悔しさであり、そうなってしまったものを見せなければならないという申し訳なさであり。
たとえ「誰のせいでもない」といったところで、自分たちに苦難の道が始まるのは間違いないわけで。
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で、そうであるならば。
私達の側も本当は覚悟を決めなければならなかった。
推すならば。
そんな彼女たちをこれからも推すならば。
そのことに気づかなければならなかった。
あの頃、まだBuddiesというファンネームもなかった頃。
そんなことに思いを馳せる余裕のある人は、おそらく皆無だったに違いない。
かくいう私も、もちろんそうだった。
初披露は、2020年10月13日。欅坂46 THE LAST LIVE。
欅坂の活動休止の余韻に浸る暇もなく、披露されたのが櫻坂の1stシングルであるこの曲だった。
いったいどんな思いだったのかと今でも思うことがある。
余韻に浸りたいとすれば、当事者である彼女たちのほうに決まっている。でも、それすら許されず、下を向くな、過去を振り返るな、前を見据えろとこの曲の披露へ繋げられて。
私が彼女たちから離れなかったのは、このときの思いがあるからだ。
この瞬間を乗り越えてでも、絶対に櫻坂を成功させてやるんだ、今は先が見えなくても、やるしかないんだ、という悲壮な決意で進み始めていた彼女たちを、見捨てるなんて人の道にもとる、とさえ思った。
2020年10月に「そこ曲がったら、櫻坂?」で放送された、フォーメーション発表。
森田ひかるがセンターに選ばれた瞬間が流された。
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ここから3年半経っても、このシーンは忘れられない。
欅坂から櫻坂に改名して最初のシングルのセンターという、誰も経験したことのないポジションの重積がどれほどのものであったのか。
でも、その逆に。
ここから一丸となって櫻坂46として、森田ひかるを前に打ち出しながらグループを進ませていくと決意し、そして時間をかけて熟成して熟成して、今に至るわけで。
このときの産みの苦しみがあったから、今がある。
そしてこのときの苦悩を目の当たりにしているから、心から信じられるのだ。
Nobody's faultは、育つ。
Buddies感謝祭での、TAKAHIRO先生の楽曲解説。
センター森田ひかるに、ラストでの手の三角の振り付けで、どちらの目を抜くかという質問をしたとき。
古代エジプトでは、右の目は「破壊」、左の目は「再生」を意味する、とのことだったが、そのことについては下のブログがわかりやすい。
私のnoteをお読みになっているBuddiesの皆様なら、ご存知の方も多いと思うけれど、このTAKAHIRO先生の問いかけに、森田ひかるは「左目」を選択した。
ところが、これはどれだけの方がご存知かわからないけれど、実は欅坂LAST LIVEの最後におけるノバフォ初披露のときは、彼女は「右目」でこの曲を終えていたのである。
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2ヶ月後。
櫻坂46デビューカウントダウンライブ。
そこで披露したノバフォでは、ちゃんと左目であった。
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もちろんそれは、ミスなどではなく、意図的だと私は思っている。
それは、「再生」という言葉の持つ意味。
形あるものを再生しようと思うならば、まずは破壊しないとダメだ。
もちろんそれは、存在を無に帰する、という意味ではない。
そこに存在したことには敬意を表しつつ、そして記憶からは絶対に消すこともなく。
ましてや、自分たちに流れる緑の血を入れ替えることなどあるはずもない、それは言うまでもなく。
ただ新しいものを構築するためには、過去を残しておくことがよしとはされない。
破壊なくして、創造なし。
破壊なくして、再生などあり得ない。
Buddies感謝祭でその話を聴いたときから、意図的な破壊→再生のシナリオだと信じているし、それは今でもだ。
だからこそ、と言うべきなのだろうか。毎公演Nobody's faultの披露を見ていると、毎回違う曲に思えてならない。
森田ひかるセンターは変わらずとも、確かにメンバーの卒業等で歌唱メンバーの入れ替わりはある。でもそれが原因とは私は思っていない。
Nobody's faultは、生きている。
だから、Nobody's faultは、育つのだ。
少なくとも、ノバフォのMVのときに感じられたような、メンバーの悲壮感は今は消えた。精神的余裕が生まれているのは間違いない。その余裕は、ここまでやってこれたこと、乗り越えてきたこと、結果を出してきたことに起因する自信であろうとは容易に想像がつく。
そんな余裕が、彼女たち自身を、そして私たちをも新たなフェーズへ連れて行ってくれたことも、事実だ。
でも、それだけではない何か、も感じる…
ノバフォを深掘りするうえで、実はここが最大のキーポイントなのではないだろうか、と。
そして、その正体は一体…
櫻坂46としての歴史が、今年のNobody's fault発売日である12月9日で丸4年を迎える。
卒業生も出し、逆に三期生も加わって少しずつ様変わりしてきた。
さらに、あのときとは違って、LIVEで披露できる曲数が本当に増えた。
そのためか、直近のLIVEではセトリから外れることも出てきた。
でも、思うのだ。
Nobody's faultが披露されようがされまいが、あのとき感じた、まるで心が泣き叫ぶような感覚を、そこにいた誰もが忘れたわけではない。
だからあのイントロが流れれば、披露する側である彼女たちはもちろん、その転生の瞬間を目撃した人たちはみんな、あの頃の思いに浸らせられると。
その想いが燃えたぎっている間は、絶対に負けない。
2024年5月4日現在。
Nobody's faultの再生回数は、780万回超。
800万回の節目が少しずつ見えてきている。
初めて披露されたタイミングは、あれでよかったのか。
今でも議論を呼ぶところではあるけれど、どうも櫻坂46というグループの評価と比例するように、この曲の評価が上がってきているように私には感じられる。
この曲のマインドが受け継がれていく限り、櫻坂の櫻坂たるアイデンティティが崩れることはない。
そう、この曲こそ、櫻坂のアイデンティティなのだ。
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