#13 神様が見とーけん
満員電車の中、後ろに立っていた若い男性に、肘で思いっきり押された。
いまでも思い出すと泣きそうになる、今朝のこと。
いつも通り混んでいる東京の地下鉄で、私はつり革を持てない真ん中の列にいた。
目の前の女子大生はつり革を持っている。電車が揺れ、前に抱えている私のリュックが少しでもぶつかるたびに彼女は振り返る。迷惑です、といった顔をしてくる。
あまりにも振り返られるもんだから、少し後ずさってしまった。
ただでさえ狭い車内、そうやって後ずさると自分の背後の人との距離が近いな、少しいやだな、なんて思っていた矢先。
私の後ろにいた男性は、あからさまに、暴力的に、肘で強く私を押した。
寄りかかるな、触るな、と言わんばかりに。
バランスを崩した私は、その場でこけそうになって前のめりになった。
また前の女子大生にぶつかった。振り向かれた。嫌そうな顔をしていた。
肘で押された背中がしばらく痛かった。
嫌悪感と敵意を持った二人に至近距離で挟まれた私は、怖くて、逃げ場がなくて、泣きそうだった。
どうして、どうして。
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公共空間での私は、「そこそこ気を遣う」、「優しい」人間じゃないかと思う。
お年寄りや体の不自由な人、妊娠中の方がいると気づいたら、声をかけて席を譲る。少し勇気のいることだけど、その方々が座ることで少しでも楽になるのならと。
スーパーやコンビニ、飲食店で横柄な態度をとらない。ありがとうございます、ごちそうさまでしたはキチンと言う。ちょっと大げさかもしれないけれど、目の前で働く方々を少しでもいたわることができるのならと。
寮の洗面所で、ドライヤーで床や洗面台に落ちた誰かの髪の毛をティッシュで拭いて捨てる。ちょっと抵抗があるけど、私のあとにいやな思いをする人がいなくなるならと。
席を譲ったおばあさんに、ありがとうと言われる。
ごちそうさまでしたと言ったら、店員さんが笑顔で見送ってくれたりする。
髪の毛落ちてなくて助かる、なんてことはさすがに言われたことないのだけれど、次の人は心地よく使えているんだろうか、と想像する。
文章にしちゃうと何だかわざとらしいのだけれど、そういう「優しい」私は無理して作り出してるわけではない。見知らぬ人がひしめく公共空間で暮らすようになってから、ずっとそうやって生きている。
「優しさ」は、何らかの素敵な形で還元されることを経験則で知っているから、ちょっとした心理的ハードルを乗り越えてでも、できることなら実践していきたいと思うのだ。
でも、自分の「優しさ」が想像していたより冷たく突き返されることもある。
今朝もそうだった。前の人に「優しく」しようとしたら、前後で敵意のサンドイッチを食らった。
たまたまなのかもしれない。人生でこんな経験、もう二度としないのかもしれない。
だけど、私は思ってしまった。
「普段、優しく生きているのになぁ」と。どうして、どうして。
誰かの優しさにいつか触れたいから、優しくする。
そういう理由で優しくするなんて、だめなんでしょうか。
こんなに冷たくされるなんて思ってもみなかったの。
私が普段良い人でいることに意味なんてあるのかな、
いつか他人の善意が自分に向けられる保証なんてどこにもないのに、知らない人に気配りなんてする必要あんのかな、…
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なんてことを、遠くに住む母に電話で話した。
「まぁ、神様が見とーけん、あんたはそうやって生きりぃ」
母が言った。
クリスチャンでも仏教徒でもなんでもないくせに、
そういうときだけ「神様」なんてワードが出てくるのが母らしい。
でも何だかすごく救われた。
神様が見てるなら、これからも優しい人でいようかな、なんて思えた。
自分の善意が無碍に扱われることなんて、これからもきっとたくさん経験する。
他人から優しさを向けられて労わられることなんて、実はほとんどないのかもしれない。
逆に、他人に優しくなんてできないくらい自分に余裕のないときだって、きっとたくさんある。
でも、神様が見とーけん、周りの人に無関心でいることをできるだけやめて、できるだけ優しい心遣いをしていけたらいいな、
なんて思った日なのでした。