母の日の懺悔

5月12日。
今日はカーネーションを買うのにぴったりな日。

今は日本とフランスと、国境を越えて離れた場所に住んでいるので今年はラインでメッセージを送った。離れていても自分の思いをその思いが過去になる前に誰かに伝えることができるのだから、やっぱりインターネットとやらには感謝しなきゃいけないなと思う。

「母の日」というものがどうしてつくられたのかは知らないけれど、こんなふうに大切な人に感謝を伝える絶好の機会を与えてくれたこの日は素晴らしい日だ。
そんな今日この日に、私はすこしだけ、思い出話をしたいと思う。
思い出だなんて幸せな表現を使っているけれど、これは私の懺悔だ。


これまでの人生の中で1番喧嘩してきた人は、弟でも友達でもなく、お母さんだと思う。あれが喧嘩だったのかはなんとも言えない境目ではあるのだけれど。私が1番感情をさらけ出せる人が、お母さんだった。
私は人に怒りの感情を出すのが嫌いだ。というよりは、できない。
声を荒げるだとか、何かに八つ当たりをするだとか、暴言を吐くだとか、そういうことは全て自分への嫌悪として返ってくるから。私は人に対して怒りというものを見せることがほとんどないし、自分でも怒りという感情に制御をかけている。だからといって、私が優しい人間かと言えば、そういうことではない。私はただ、自分の怒りの感情が周りに回って自分のところへ返ってくるのが怖いだけだ。自分から出た悪意の渦が、回り回って自分を取り囲んで自分が苦しくなるのが嫌なだけなのだ。
そんな私が、唯一怒りを露わにできるのが、両親だった。
お母さんに怒りをぶつけてしまった回数は、もう数え切れないと思う。毎回怒りの感情が湧き上がってしまうたびに、その怒りの行き場が見つからずにお母さんに当たってしまうことへの申し訳なさと悔しさ、やるせなさで涙が止まらなかった。本当にごめんなさいと心の底から思っている。だけど、どんな時でもお母さんが受け止めてくれたから、私は捻くれることも道を踏み外すこともせず、こうして今を生きていられるのだと思う。こんなこと、恥ずかしくて直接伝えることなんてできないけれど。

これまで何度もお母さんに心ない言葉をかけてきてしまった。その中にひとつだけ、今でもとても後悔している言葉がある。


「こんな家族のもとになんて生まれなきゃよかった」


この言葉をどうしてその言葉を発するに至ったのか、その経緯はもう覚えていない。
だけれど、家族に対して、生まれた環境に対して、すごくコンプレックスを抱いていたことは覚えている。先に記しておくが、私は本当に恵まれた環境で育ってきたと今は確信して言える。それは他人と比較してどうだとか、そういうことではなくて、ただ自分の中の、自分だけの価値基準で判断したことだ。愛情を存分に受けて、挑戦したいことに挑戦するチャンスもくれて、家族だけはなにがあっても絶対的な味方でいてくれるという確信がある、やっぱり私は幸せ者だと思う。だけど当時の私(高校生の時だったと思う)は自分に無いものばかりに焦点を当てすぎてしまっていた。もっと都会の家に生まれていたら、もっと裕福な家に生まれていたら、もっと可愛い顔で生まれられたら、、、。今思い返せば「なんて事を言っているんだ自分」と当時の自分の頭をひっぱたいてやりたいくらいの親不孝発言である。

その言葉を口にした時のお母さんの表情を、今でも鮮明に覚えている。
驚いて開いたその瞳に、ショックと哀しさが満ちていって涙に変わる。お母さんは、私の前で涙を流すことはなかったけれど、後になっておばあちゃんの前で涙を流しているのをドアの影からみていた。あの時のお母さんの涙は、私の心に流れ込んできて感情というやつをごちゃごちゃにしていった。波が渦巻くように、水に溺れたときに感じるあの焦りと恐怖感を私の心は感じていた。あの時、口にしてしまった一言が、泥みたいにへばりついて私の心から剥がれてくれない。多分私はこの先一生、この言葉を悔やんで生きていくんだろう。



言葉は誰かの救いにもなれば、凶器にもなり得る。

月並みな表現だけれど、きっと私たち、この事を忘れていきていくのは恐ろしい。
過去は変わらないし、発した言葉は誰かに届いてしまったらもはや私が扱えるところのものではなくなる。私が、あなたが口にしたその言葉が誰かの耳に心に届いた時点で、私たちはその言葉について釈明することもできなければ取り消すこともできない。言葉は取り消し可能な便利グッズではないから。

言葉は美しい。言葉って素晴らしい。
そう思うからこそ私はここに自分の言葉を記しているし、誰かに届いてほしいと思うからこそこうやってnoteというツールを使っている。
だけれど、その行為には「誰かを傷つけるかもしれない」という危険をはらんでいることを忘れてはやっぱりいけないと思う。私にはこんなありきたりな表現しかできないけれど、文章に魅せられた者として、文章を扱っていく者として、この事実を忘れてしまってはいけないと常に自分に言い聞かせている。この覚悟というか、決意というか、そういうもののうえに言葉は成り立つべきであって、この事実を放り出して言葉を乱雑に扱ってはいけない。口から発せられて自分のもとを離れてしまった言葉は、受け取った側の解釈で意味も想いも簡単に変化してしまう。だからこそ、はじめから悪意のこもった感情を簡単に口にしてはいけない。善意で発した言葉も受けての解釈によって意図しない悪意に変わってその人を傷つける。況んや、悪意の言葉をや。大切なあなたに、幸せに生きてほしいから。あなたを傷つけたくはないから。まず私は私の言葉を大切に扱う必要がある。あなたを大切にしたいなら、あなたに贈る私の言葉も同じくらい大切にしないといけない。

話が少し大きくなってしまったけれど。


拝啓お母さん。私は、あなたの子どもとしてこの世界に生まれることができて本当に幸せです。

これから先、命が尽きるまで、この言葉を伝えていきたいと思う。
そんな言葉を幾つ並べてもあの言葉が決して消えることはないとわかっていても。それ以上の愛を、私は一生かけてあなたに伝えていきます。










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