ひとりぼっちのひとりごと
好きなバンドのライブのチケットをまたしても手に入れられなかった。
明日はテストだけれどなぜか今アイロンで髪をストレートにしている。どうせ今寝てしまえば翌朝には芸術的な寝グセが完成しているだろうというのに。
時刻は23時、23時00分。今日はひとりごと。つらつらと。連ねていく。
独り占めしたいじゃない。好きなんだもん。
今年に入って3度目。大好きなバンドのライブに申し込んだ。
3度目の正直。2度あることは3度ある。矛盾した2つのことわざがあるって不思議だよなとぼんやり考えていた。
私の願いも儚く、塵。結果は後者だった。惨敗である。
好きなバンドほど、売れて大きくなっていってほしいという気持ちとは裏腹に自分だけが知っていたいと思ってしまう。独占欲。そんなこと言ったって不可能なことはわかっているんだけれど。
私は何かと独占欲が強いほうで、恋人はもちろん、友達とか好きなものとかそういうものにまでこんな気持ちを抱いてしまう。好きになってしまえば、同時に心の中にもやもやとした黒い感情が湧き上がってきてしまう。澄んだ透明な水に真っ黒な絵の具を垂らしたときのように、ゆるやかに黒に染まっていく。そんな気持ちと向き合うことに疲れてしまった。
独占欲を持つことは悪いことではない。と思う。
好きな人には私だけを好きでいてほしいのと同じことで、私が好きなものの魅力は私だけが知っていたらいい。そう思うことは、思うことだけは悪いことではないと信じたい。だけどそんなことはこの商業的なこの世界では不可能で、悲しいけれど「売れる」ことが彼らの道を切り開くための一つの手段のとなっているのは確かなのだ。
私以外の愛を受けて彼らは大きくなるし、私以外の愛を受けながら彼らはより輝きを増していく。
そんなことは分かっていて、それでもやっぱり黒い私が顔を出す。
大好きなあのバンドは、大好きなあの人にしか教えたくない。
「どんな音楽を聴くの?」と聞かれたとき、思わず誰でも知っているようなアニメの主題歌を歌う歌手の名前を挙げてしまったりする。あの子には知られてほしくないと心のどこかで願う自分がいる。誰かが彼らのバンドについて話したりしていると、むすっと頬が膨れてしまう。私のほうが、昔から好きだし。彼らについてもっともっと知っているのに。
なんだ、恋じゃないか。とふと思った。
どうやら私は恋をするかのように彼らの音楽を聴いているようだ。
音楽を聴いているときだけは、彼らは私を見てくれる。
私に語りかけるように歌ってくれる。弾いてくれる。叫んでくれる。
音楽を聴いているときだけは、私と彼らなのだ。
他に誰も入り込むことのできない、私たちだけの世界。
独り占めしたっていいよね、音楽を聴いているときだけは。
彼らの曲が大好きなんだ!!!って心から叫んで、共に歌って。
イヤホンから彼らの音が流れてくるこの瞬間だけは、彼らの音楽は私だけのものだ!
愛は主観であれ。
インターネットの波が渦巻くこの時代、愛には証が必要となり、愛は主観から客観に成り下がってしまった。
どれほどその対象を好いているのか、私たちは示さなければいけなくて。それは例えば好きでいた期間の長さだったり、それにかけたお金の金額だったり、持っているグッズの多さだったり、何度現場に足を運んだかだったりする。インターネットとやらのせいで、それらを示す場所ができてしまって、どうしても自分の好きと誰かの好きを比較してしまうようになった。私はいつの間にか愛を可視しようとしすぎてしまっていた。愛を表す数字や量ばかりみて、飾られた愛を賞賛する。
愛は主観であってほしい。
他人に私の愛を評価される筋合いなんてさらされない。そう思いつつも、指摘されると凹んでしまう。勝手に比較して凹んでしまう。弱い心。鉄の心を私は持ちたい。
あなたの愛はあなた自身で育てていけばいいし、あなたの愛は誰かに評価されるものではない。そう心に唱え続けて、私自身も誰かの「好き」を否定することのないように、そんなふうでありたいよね。たとえCDを買っていなくたって、ライブに行ったことがなくたって、全曲知らなくたって、グッズを持っていなくたって、テレビ放送を見逃したって、それでも好きな気持ちは変わらないのだから。自分への戒めも込めて。
可愛くなりたい。
なんだか、みんな可愛いよね。やっぱりそうだよね。
なぜだかみんな当たり前のように目が大きくて、細くて、肌も髪も綺麗で、なんだ、なんなんだいったい。
スーパーで買った質より量のチョコレートを頬張りながら、インスタグラムに流れてくる千差万別で似通った女の子たちを見て頭を抱える。私の脳みそもチョコレートと一緒にデロデロに溶けていってしまいそう。
鏡と向き合う。1ヶ月ごとに決まって眉間と頬に姿を現すアイツがまたひょっこりと出てきている。ため息をつきながらさっき食べたチョコレートを思ってさらに大きなため息がでる。ため息をついて伏し目になった瞳から伸びる睫毛は下を向き、瞳の上にはあってほしい1本の線は今もかくれんぼしていて姿が見えない。気持ちを持ち直そうと思って笑ってみるけれど、頬いっぱいに詰まった幸せの権化たちがお餅のようにくっついていて笑顔もすんっと消えていく。
ああ、可愛くなりたい。
10代、20代の女の子でこの気持ちを一度も持ったことがない子なんて、この世の中に存在するのだろうか。
どうして人って比べたがってしまうんだろうか。
あの子より目が小さくたって、あの子より足が太くたって、あの子より髪が広がっていたって、私は私のままで可愛いんだよ!!と言ってしまっている自分もまた、人と比べているのだから、よろしくないです。お口チャック。
みんながみんな、もともと特別なオンリーワンだよって花屋屋の店先で呟く私の声はユーチューブから流れてくる脚痩せマッサージの音声でかき消される。
可愛いは正義なのだ。この世界では。
そう思ってしまっている自分が怖い。
だけどやっぱりそう思ってしまう。
ああ、可愛くなりたい。
今日を浪費していく。
今日もまた、今日が終わる。
何をしただろう、何を成し遂げられただろう。
12㎡の部屋に閉じこもり、太陽の光も見ないまま1日が終わった。
YouTubeでショート動画を延々と見続けて、日本に帰国してからのアルバイト先を探したりして、ベットの上で1日を終わらせてしまった。
こんなに中身がスカスカで骨粗相証になりそうな1日を過ごしてしまったことで後悔の念が押し寄せてくる、日が沈むのと一緒に苛まれる。
やらなければいけないことはたくさんあるのに、なにもやる気が起きない。
人は誰でもこんな気持ちを味わったことがあると信じたい。
多忙なスケジュールをこなした後の休日は、大体いつもこうなってしまう。
自分の中ではこんな日が来ても「心と体の休息日」って言い訳をする。だけれど、休息と怠惰の違いってなんなのだろうと今日を浪費するたびに思う。
私はよく予定を詰め込みすぎて体調を壊す。だけれどそれで休息日をとってみても、上手に休むことができない。ベットに寝転んでるだけで1日を終えたら謎の罪悪感が襲ってくるし、スマートフォンをずっと見ているだけで日が沈んだらすごく後悔してなぜかどっと疲れてしまう。休む=怠惰と自分の中で2つを結びつけてしまっているのかもしれない。
上手な休み方が知りたい。
アロマキャンドルとか焚いて、本とか映画とかを楽しんで、スクラップブックとかつくってみたい。
明日は綺麗な夕焼けがみたい。
こんな風に自分の頭の中の言葉をそのまま文字にして投稿するのははじめてかもしれない。
結局今も自分の投稿スタイルとか軸とかはブレブレなままだし、自分が何者なのかもわかりやしないし、この先部屋に花を飾れるような人間にはなれそうにないけれど、明日は綺麗な夕焼けをみられたらいいな、と思う。
できたらとびきりオレンジ色の。もっというならその前にはピンクと紫と青とのグラデーションがかかった空もセットで。
過去に納得できなくても、未来に期待ができなくても、明日夕焼けがみられるかもしれないと思ったら、この寂しくて孤独な夜も越えていけると思うから。
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