【超訳】 『六韜』 虎韜
最近、世界最古の兵法書『孫子』を投稿しました。
読んだことがない人でも、ほとんどの方が『孫子』の名前は知っていると思います。
しかし『六韜』はどうでしょうか。
兵法書の重要文献は、武経七書と呼ばれます。
この武経七書には、『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『六韜』『三略』『李衛公問対』が含まれていますが、『六韜』はそのうちの一冊として知られています。
『六韜』は、主に戦略、戦術、軍隊の組織化、兵士の訓練、戦場での指揮などに関する知識と方法をまとめたものです。
かの有名な太公望が、周の文王に軍事の秘訣を教えた内容とされており、『孫子』とは違って対話形式で話が進みます。
韜とは、弓や剣を入れておく袋が転じて、宝庫、秘蔵という意味をもちます。
すなわち、この書物の題名は、戦いに関する6つの秘伝の知識を示しているのであり、やはり6つの巻にわかれています。
ところで一般的に、大事な秘伝書のことを「虎の巻」と言ったりしますが、この「虎の巻」という言葉は、『六韜』の第4巻である「虎韜」が転じたものだとされています。
つまり、この巻には兵法書の中でも特に重要な奥義が書かれているということなのです。
そこで今回は、「虎韜」の一部分のみを抜粋し、超訳してご紹介しようと思います。
これを読めば、「私は虎の巻を読んだ!」と本当の意味で言えるようになるでしょう😆
六韜
虎韜
1 三陣
武王が太公望に尋ねた。
「兵を用いるには天陣、地陣、人陣の3つがあると言われているが、どういう意味なのか」
太公望はいった。
「太陽や月、北極星など、日当たりや方角を示す重要な星に従って布陣するのを天陣といいます。
丘陵や水辺など、その地形によって有利な位置に布陣するのを地陣といいます。
さらに、戦車を用いるか馬を用いるか、あるいはまた、兵に対して仁恩を用いるか軍法を用いるかを考慮するのを人陣といいます」
「なるほど」
と、武王はいった。
解説
武王は軍隊を動かす際の3つの重要事項について質問します。
それに対する太公望の答えは、
①天体の位置を読むことで、自軍に有利な地点に布陣すること(天陣)
②地形を確認し、自軍が有利な地点に布陣すること(地陣)
③軍隊の統率にあたり、臨機応変に適切な処置を取ること(人陣)
となります。
これらは君主や将軍の責務として、最低限の項目として考えられています。
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2 疾戦
武王が太公望に尋ねた。
「敵軍が自軍を包囲して進退きわまり、食糧輸送の道さえも絶たれてしまったとき、どんな戦法をとればよいだろうか」
太公望が答えた。
「それは最悪の状態というものです。
迅速果敢に反撃に出れば勝つかもしれませんが、慎重に備えて、いたずらに時を費やすのであれば必ず負けます。
このような場合には、まず前後左右に4隊の突撃隊を編成し、戦車や騎兵による猛攻撃で敵軍を混乱させます。
そして、その混乱に乗じて、本隊による疾風迅雷の攻撃を加えたなら、包囲を突破し、自在に軍を動かすことができるでしょう」
武王がいった。
「敵の包囲を脱出した後、その戦いに勝つにはどんな策があるだろうか」
太公望が答えた。
「左翼の軍はすぐに敵の左側に撃って出て、右翼の軍は一直線に敵の右側を撃ちます。
中央の隊は、左右両軍の隊の状況に合わせながら前進、後退し、敵に誘われて深追いしてはなりません。
このとき、兵力を分散させることなく、互いに連絡を取りながら行動するなら、敵軍がいかに多勢でも、敗走させることができるでしょう」
解説
ここでは速攻戦術の大切さが説かれています。
武王は、自軍が四方を敵軍に包囲された場合の対処法を尋ねます。
太公望は「まずそのような状況に陥るな」と念を押し、包囲を突破する可能性を示唆します。
敵に包囲された場合には、好機を待つのではなく、みずから好機を作り出すことが肝要です。
その際には、素早く動くのがとても大切だと太公望はいいます。
四方に自軍の攻撃兵器を惜しみなく使う部隊を用意し、一斉に猛攻撃を加えると、包囲が完成し一時的に敵に気がゆるんだ敵は、不意を突かれ混乱します。
その隙を見計らって、中央にいる本隊が素早くそこに攻撃を仕掛けることによって、包囲を崩すことができるというわけです。
そして包囲を突破した後は、突破口からすぐに四方の軍を結集させ、未だ混乱状態にある敵軍の左右を衝きます。
混乱するなかで敵が左右の対処にまわりはじめ、中央に対する意識が弱くなったなら、本隊がそこを攻撃し、敵を敗走せしめるという具合でしょう。
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3 必出
武王がいった。
「前に大きな川や深い坑があって、自軍は渡れず、しかも敵はすでに布陣して自軍の退路を塞いでしまった。
敵はたえず警戒を怠らず、険しい地を利用して備えた敵陣には少しの隙もないように守備している。
さて、そのような中で、前面からは戦車と騎兵が、後方からは回り込んだ歩兵が突撃してくる。
このような場合、どんな方策があるのだろうか」
太公望は答えた。
「大河や深い坑などの要害の地は、地の利を過信して敵が油断して守らないところです。
仮に守っていたとしても、その兵は必ず少ないでしょう。
このようなときには、即席の橋や筏とを使って、あえてその険しい地に自軍を進ませ、勇猛で腕の立つ兵士を選抜し、彼らに先鋒を任せるようにします。
この際、自軍の荷物を焼き捨て、食糧も焼却して、はっきりと兵士たちに宣告します。
『勇敢に戦えば生きられるであろうが、少しでもひるむようなことがあれば死ぬであろう』と。
すでに脱出に成功したなら、しんがり(追撃してくる敵に対処する後衛)部隊のために雲火を用意して目印とし、必ず自軍が突破した険阻な地に伏兵を用意しておきます。
すると敵はこれを警戒して、きっと深追いしてこないでしょう。
そこで、烽火を合図にして、先に脱出した部隊を結集させ、陣形を整え敵に備えるのです。
このように、全軍の精鋭が勇闘奮戦すれば、敵は自軍の進撃を防ぎ止めることができないでしょう」
「なるほど、そのとおりだ」
と、武王はいった。
解説
ここでも困難な状況下にあっての方策が尋ねられています。
ふつう、険しい地を頼みとして布陣している敵を破るのは容易ではありません。
太公望は、敵もそれを承知していることを逆手に取り、あえて攻めにくいところを攻めるように説きます。
というのも、そもそも自軍にとって攻めにくいところには、敵は兵をまわさないと踏んでいるからです。
西楚の覇王・項羽は、この戦法によって彭城の戦いに勝利したとされています。
彭城は項羽の本拠地でしたが、項羽が留守の間に、漢の劉邦が連合軍を率いて陥落させました。
知らせをうけた項羽は、精鋭部隊を編成すると急いで奪還に向かいます。
彭城付近に到着した項羽率いる楚軍は、あえて険阻な地形である城の西側に猛攻撃を加えると、そこに十分な守備兵を配置していなかった連合軍は簡単に城への侵入を許してしまいます。
こうして勢いにのる楚軍は城内の漢軍10万人余りを討ち取り、あわてて城外に逃げ出した漢軍を追撃、さらに10万人余りを討ち取りました。
結果的に、この戦いにおいて項羽はわずか3万の軍勢で、劉邦率いる56万の漢連合軍を撃ち破ったとされています。
本拠地を陥された楚軍の兵士たちは、それこそ必死の覚悟で戦ったはずです。
それに対し、宿敵の本拠地を陥した漢軍は、毎日酒宴をひらいて浮かれに浮かれていたとか。
彭城の戦いでは、あえて険しい地を選んだ項羽の判断、兵士たちの必死さの度合い(士気の差)という要因によって、圧倒的な兵力差にもかかわらず楚軍が勝利をおさめたのでした。
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4 臨境
武王が太公望に尋ねた。
「国境で敵と対峙し、敵軍が攻めようにも、自軍が攻めようにも、両軍の陣営とも堅固で、どちらからも手出しができない。
こちらから攻撃をしかけようとすれば、向こうからも反撃してくるだろう。
このような場合、どうすればよいだろうか」
太公望は答えた。
「軍を3つに分けます。
前衛軍は塹壕を深く掘り、土塁を築いて出撃させず、旗を並べて太鼓を打ち、守備を万全にさせます。
後衛軍には食糧を多量に備蓄させ、これらの様子を敵に見せることで持久戦を行うと偽装させます。
そこで自軍の真意を察知させないようにしておいて、ひそかに精鋭の兵士を発進させ、敵の中央軍を不意に襲い、その備えがないところを攻撃させます。
敵軍は自軍の真意を知らないので、誘い出しの策かと疑って、反撃してくることはないでしょう」
武王が尋ねた。
「敵が自軍の実情をよく知り、自軍の計略にも通じ、兵を動かして自軍の事情を察知しているとする。
そのために精鋭の兵士を深い草の中に伏せさせ、自軍を隘路で要撃し、さらに自軍の要所を攻撃してくるとしたら、どうすればよいのだろうか」
太公望は答えた。
「自軍の前衛部隊を毎日繰り出させ、敵を疲労させます。
一方で自軍の老兵や弱兵には、木をひきまわして土煙をあげさせ、大軍が行動しているかのように見せかけます。
太鼓を打ち鳴らし、雄叫びの声をあげ、行ったり来たりします。
前衛部隊は、敵軍の左に出たり右に出たりして、敵軍から百歩ばかりのところで動き回ります。
すると敵の将軍は必ず疲れ果て、敵の兵士は不安をおぼえるようになります。
こうなれば、もう敵軍に戦いの主導権はありません。
これに対し、自軍の攻撃部隊は常にどこかに攻撃をしかけることができ、機をみて全軍がいっせいに急襲するならば、敵は必ず敗れるでしょう」
解説
ここは比較的具体的に説明されています。
要点は敵を欺くことにあり、『孫子』との共通点がよく見出せますね。
膠着状態になってしまった場合には、自軍の意図を敵に悟られないように偽装します。
土煙を偽装に使うことについては奇妙に思われるかもしれませんが、土煙は古代中国ではふつうに、敵軍の行動を知るための目安とされています。
敵陣に攻撃を加え、それに対し敵が出撃してきたら逃げる。
また敵が引いたら反転して攻撃し、敵が反撃してきたら逃げる。
こうした戦法は敵兵を疲れさせる策として、日本の戦国時代においても使用されています。
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5 動静
武王が太公望に尋ねた。
「兵を統率して深く敵地に侵入し、敵軍に遭遇してにらみあいになった。
兵数と強弱はほぼ等しく、互いに自分の方から先にしかけようとしない。
このようなとき、私は、敵の武将を恐れさせ、敵の兵士たちを不安にさせる。
敵の陣営内は動揺し、後軍は逃げることばかり考え、前軍は後方が不安で何度も振り返るようになる。
その機に乗じて、太鼓を打ち喊声をあげて敵の同様につけ入り、敗走させたいと思うのだが、それにはどうしたらよいだろうか」
太公望が答えた。
「そのような場合、自軍の兵を繰り出して敵の陣地からある程度離れた地点の両側に伏せておき、戦車隊、騎馬隊は、敵の前後に展開します。
旗や鐘、太鼓を特に多くして、開戦とともに、いっせいに音を鳴らし喊声をあげて攻撃します。
そうすれば敵将は必ず恐れおののき、敵軍はあわてふためき、部隊はばらばらになって連携できず、将も兵もわれさきに逃げまどい、敵は必ず敗れるでしょう」
武王がいった。
「敵が布陣している場所は、地形的にその両側に伏兵を置くことができず、戦車、騎兵隊も、敵軍の前後に配置することができない。
そのうえ、敵は自軍の謀略を察知し、先手を打って堅固な陣地を築いてしまった。
そのため自軍の兵士は意気消沈し、将軍も戦意を失ってしまい、戦っても勝てなくなってしまった。
こういう場合は、どうしたらよいだろうか」
太公望は答えた。
「主君のご質問は、まことに理にかなっています。
このような場合、開戦の5日前に、遠く自軍の斥候を出して敵の動静をさぐらせます。
そうしてはっきりと敵の来襲を予知し、その行く手に自軍の伏兵を配置して待つのです。
自軍の旗は、この伏兵のところより遠く離して立て、自軍の部隊がまばらで手薄であるように見せかけ敵を誘います。
敵が戦場に出てきたら、敵前に出て、しかし戦うと思いきや、偽って退却します。
敵を戦場にひきこんだら、ほどよい地点で停止の合図を出して止まり、自軍を反転させます。
これと同時に自軍の伏兵も決起し、追撃してきた敵軍の両側から攻撃したり、前後から攻撃したりして、全軍が力を合わせて速戦します。
このようにすれば、敵は必ず敗走するでしょう」
武王はいった。
「まったくそのとおりだ」
解説
ここでは、音や兵士があげる声によって敵軍を混乱させる戦法が説かれています。
日本では、源平合戦のおりに、源義仲(木曾義仲)が平家軍を破った倶利伽羅峠の戦いが想起されますね。
義仲軍は平家軍と対峙したものの、特に動きを見せない体を偽装し、ひそかに別働隊を平家軍の退路にまわらせました。
そして平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けました。
合戦がなく油断していた平家軍は浮き足立ち、撤退しようとしますが、退路はすでに義仲軍に押さえられていました。
大混乱に陥った平家軍7万余は、唯一敵が攻め寄せてこない方向へとわれさきに脱出ようとしますが、そこは倶利伽羅峠の断崖でした。
夜中だったのもあって、平家軍はそれが分からず将兵が次々に谷底に転落して壊滅しました。
これにより平家は10万の軍勢の大半を失い、撤退することになったのです。
余談ですが、後にこの源義仲を破り、源氏最強の武将ともいわれる源義経は、17歳のとき『六韜』を読む機会に恵まれ、戦術の奥義をきわめたという説話があります。
その他にも『六韜』は、大化の改新の藤原鎌足(中臣鎌足)が暗記するほど読んだと伝えられ、日本への受容が比較的早かったことがわかります。
いかがでしたでしょうか。
今回ご紹介したのは、「虎韜」のおよそ半分ほどになります。
中には現代日本においては応用が効かないかな、というのがありましたので、そこは省略いたしました。
ところで、『六韜』は現代語訳がそこまで多くありません。
私が知っている限りでは以下の2冊です。
(今回参考文献として使用したのは、中公文庫のものになります)
興味がございましたら、ぜひ全文を読んでみてください!
『六韜』の魅力が伝わることを願っています☺️
お読みいただきありがとうございました🌸
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