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カエサルのリーダー論
歴史に名を刻む指導者たちは、数多の逆境や課題を乗り越える中で、何が本当のリーダーシップであるかを示してきました。
ガイウス・ユリウス・カエサルは、古代ローマの政治的、軍事的、そして社会的な変革を主導した象徴的な人物として輝きを放っています。
その生涯には、リーダーとしての決断力、戦略性、そして信頼を築く力が凝縮されており、彼が示したこれらの資質は、困難な状況においても周囲を巻き込み、新たな時代を切り開く力となりました。
「古典に学ぶリーダーシップ」第四回は、プルタルコスの『英雄伝』を手がかりに、カエサルの行動や思想に迫り、そのリーダーとしての真髄を探ります。
(以下、文中の引用は同書より)
政界登場期
海賊を捕らえる
青年期のカエサルについての逸話として有名なのが、海賊とのエピソードでしょう。
これはカエサルは船で移動している途中、大規模な集団を作っていた海賊の手に落ちてしまったときの話です。
捕縛後、海賊から身代金二〇タラントンの要求を受けたとき、カエサルは嘲るような笑い声を上げ、おまえたちは捕まえた相手を知らないようだと返して、逆に自分の方から五〇タラントンの支払いを申し出た。
そして身代金が届くまでの間、彼は海賊たちと暮らすことになるのですが、獰猛な海賊相手に見下すような態度をとり、寝床に就くときにはいつも従僕を海賊のもとに遣って、静かにしろと命じるほどでした。
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このようにしながら、怖れるようすなどみじんもなく、一緒に運動したり、詩や演説を草しては海賊たちに読んで聞かせて、教養のないやつらだとか、野蛮な連中だ、と面罵していたそうです。
そのあげくに笑いながら、吊るし上げてやるぞと脅すこともたびたびあったのだが、海賊たちの方は、そんな言いたい放題も間の抜けた冗談と受け止めて面白がっていた。
ところが身代金が届き、それを支払って解放されるやいなや、カエサルはただちに幾艘もの船を仕立てて港から出撃し、海賊たちをめがけて突き進みました。
そしてまだ島に停泊している船団を見つけると、そのほとんどを拿捕してしまったのです。
カエサルは捕らえた海賊たちは全員処刑しました。
島にいたときたびたび口にしながら冗談としか思われていなかったことを、実行したのである。
これは若き日のカエサルを示すエピソードですが、彼はこの頃から高い実行力をもっていた人物だったようで、すでにその非凡さを感じさせます。
雄弁の才
カエサルは若くして元老院議員や公職者としてのキャリアを志しており、その基盤として卓越した弁論術を習得する必要がありました。
古代ローマでは、政治家として成功するためには優れた弁論術が不可欠であり、弁論術は議会や法廷での討論、民衆を説得するための演説で活用され、政治的影響力を高める主要な手段でした。
そこでカエサルは、当時、弁論術教育の中心地のひとつであるロドスに渡って弁論術を磨いておこうと考えたのです。
伝えによれば、カエサルは政治弁論にかんしてたぐいまれな天分を持って生まれ、しかもその才能の練磨に誰にも負けないほどに努力したおかげで、この分野の第二位は間違いなくカエサルだと言われるまでになった。
カエサルは軍事力によって第一人者になろうと遠征と政争に明け暮れ、実際にそうして覇者の地位を手に入れるのですが、それに加えて雄弁の才も有していたとされます。
ちなみに第一位はというと、当時の大物政治家であるキケロであり、カエサルは、戦場を走り回る男の演説を、才能に加えて十分な閑暇にも恵まれた人物の雄弁と同列に並べて評価してくれるな、と請うています。
カエサルの弁論術は後に、彼が軍の指揮官として兵士たちを鼓舞し、政治的ライバルや元老院で説得力のある演説を行う際に大いに役立ちました。
彼は才能と努力の結果、優れた弁論術を習得したのです。
政界登場
ローマにおいて、応援演説で見せる弁舌の力量により、カエサルはしだいに世間の耳目を集めるようになり、加えて人との付き合いや語らいの場で見せる心遣いの細やかさから、年齢に似合わず腰の低い男と目されて、民衆の人気もうなぎ登りだった。さらに政治への影響力も、饗応と歓待を重ねるなど何かにつけ派手なふるまいを続けるうちに、少しずつ大きくなっていった。
カエサルは世間の人気を重要視しました。
彼が民衆からの支持の大きさを世に示す最初の機会を得たのは、軍団将官の地位を他と争い、相手より先に選出されたときでしたが、みずからの叔母にあたる人物が亡くなったときは、いっそう晴れがましい舞台となりました。
カエサルは、中央広場で個人を称えるみごとな演説を披露したばかりか、葬送のさいにはマリウス家の人々の肖像を堂々と行列に並べ、スラの政権掌握以来、国家の敵と宣言されたために絶えて見られなかったこの人たちの像を、陽の当たる場所に持ち出した。
カエサルの叔母ユリアはガイウス・マリウスの妻であり、かつてマリウスはルキウス・コルネリウス・スラとローマの軍事指導権や政治権力を巡って激しく対立しました。
政権を掌握したスラはマリウス派を粛清し排除したため、ここでカエサルがマリウス家の人々の肖像を並べたのはタブーを打ち破るような大胆な行動だったのです。
この行動に一部の市民から糾弾が浴びせられたとき、民衆はそれに抗して声を上げ、カエサルを盛大な拍手で迎えたうえ、長い時をへてマリウスの名誉を都に連れ戻してくれたと喝采したといわれます。
また同時期にカエサルの妻のコルネリアもなくなりました。
高齢の婦人が死んだときに葬礼演説を行なうのはローマ人の古来の伝統であるが、若い女性の場合にはそのような習慣がなかったところ、カエサルが初めてみずからの妻の死にさいして弁舌を振るった。そしてこれもまたカエサルの人気を高める効果をもたらし、情に厚く心根のやさしい人物という印象を強めて、民衆の共感を集めるのに一役買った。
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このように民衆からの人気を高めていったカエサルは、そのための費用も惜しみませんでした。
私財から驚くほどの巨額を提供し、演劇や行列や饗宴を催すにあたっては、これまでにないほどの豪勢なものをこしらえたとされます。
こうして民衆に取り入り、誰もがカエサルの恩義に報いようと、次々に新しい官位、そして新しい名誉を持参してくれるように仕向けたのである。
また官位争いについても同様でした。
ローマには最高神祇官という名誉ある終身職がありましたが、このポストが空いたところ、この官位をめぐって有力者が名乗りを上げるなか、カエサルも立候補しました。
カエサルは票の買収のために巨額の金を使い、そのほとんどを借り入れでまかなったとされます。
選挙の当日になり、母が戸口まで出てきて涙を流しながら息子を送り出そうとするのを抱き寄せたあと、カエサルは言った「母上、今日こそ御覧になれましょう、息子が最高神祇官になるか、それとも亡命者になるかを」。
投票が実施されて接戦になりましたが、カエサルがそれを制し、異例の若さでこの職に就任しました。
このようにカエサルは、弁舌の力と民衆の意にかなった行動、そして金の力によって世間の人気を得て、その政治基盤を固めるために大いに役立てたのです。
ヒスパニア属州総督
カエサルは二年間の外ヒスパニア属州総督の任を得ました。
しかし債権者たちとの交渉にてこずり、当地に出発しようとする段になって、声高に迫られて足止めされるはめになりました。
そこでローマ随一の富豪クラッススに助けを求めたところ、クラッススの方もポンペイユスとの権勢争いのためにカエサルの血気と活力を必要としていたので、債権者たちのうちでもとりわけ頑固で手強いのを引き受け、八三〇タラントンを保証してくれた。こうしてカエサルは属州へ向けて旅立つことになった。
後にカエサルと私的な協力関係を築く二人の名前があがっています。
さて、カエサルは道中のアルプス越えのさいに、ある小さな村のそばを通りかかりました。
そこがほんのわずかの住民しかいない、みすぼらしい村であるのを見て、同行の者たちが冗談のつもりで笑いながら「いったいこんな所でも、支配者の座をめぐる争いがあるんだろうか、頂点をめざして有力者どうしが競ったり張り合ったりすることが」と口にしました。
するとカエサルはまじめな面持ちで「おれならローマ人の間で第二位の人間になるよりも、ここで第一位の人間になる方を選ぶ」と返したという。
この言葉は単なる誇張ではなく、カエサルの自己認識をよく反映しており、彼はどのような状況においてもトップを目指す強い意志を持っていたことを示しているように思えます。
同じような逸話がもうひとつ、ヒスパニアにいたときのことです。
暇があったのでアレクサンドロスについての書物を読んでいたとき、ずいぶん長い間物思いに沈んでいたが、やがて涙を流し始めた。友人たちが驚いてわけを尋ねると、こう答えたという「おまえたちはこれを憂うべきことだと思わないのか。アレクサンドロスは今のおれの年齢のとき、すでにあれだけの国を統べる王であったというのに、おれはまだ何ひとつ大きなことを成していないのだ」。
このエピソードは、若き日のカエサルの内面的な葛藤や野心を示しています。
ともあれヒスパニア到着後、カエサルはすぐさま仕事に取りかかり、数日のうちに軍勢を集めると、それまでローマに帰順していなかった民族を制圧しながら前進し、大西洋にまで到達しました。
また戦争を首尾よく終えたあとは、それに劣らない精力を平時の問題解決のために傾け、都市間の融和の確立や、債務者と債権者の調停に努めたとされます。
こうして得た上々の評判に包まれながら属州を後にしたとき、カエサルは自身の財産を増やしていたのみならず、征討のおかげで兵士たちの懐も暖かくしてやり、兵士たちから最高司令官(インペラトル)の称号を献じられるまでになっていた。
カエサルは、軍事も内政もよく行ない、兵士たちからの信頼も勝ち得たようですが、それにはアレクサンドロスから刺激を受けた野心が背景にあるとも考えられます。
特に軍をすばやく動かして夷狄を平らげていくさまや、兵士たちへの気前のよさはアレクサンドロスを想起させ、もしかするとカエサルは、アレクサンドロスから学んでいたのかもと、想像してしまします。
執政官就任
イスパニアで活躍したカエサルは、執政官の選挙に立候補するべく急いで帰国しました。
執政官は共和政ローマにおける最高官職であり、常に二名が同時に選出され、任期は一年の最も重要な行政・軍事の職位です。
カエサルは執政官に選ばれるためにある計略に手を着けました。
その計略というのは、国内で他に並ぶ者のないふたりの実力者ポンペイユスとクラッススの仲を取り持つことであった。この両者を対立から和解へ導き、ふたりの力を自分の一身に引き寄せることに成功したカエサルは、善意の見かけを持つ行為によって、人々の知らないうちに国家を作り変えてしまったのである。
カエサル、ポンペイユス、クラッススによる三頭体制の成立です。
これは公式な制度ではなく三人の私的な同盟関係にもとづくもので、それぞれが持つ資源や影響力を結集することで元老院を抑え、互いの目標を達成するために協力し、事実上ローマの政治を支配しました。
こうしてカエサルは、クラッススとポンペイユスの友好に両脇を護られながら執政官指名に名乗りを上げ、カルプルニウス・ビブルスとともに見事に当選を果たした。
この任に就くやいなや、民衆を喜ばせようと、土地の割り当てと分与を狙いとする法案を提出し、イタリア国内の公有地を、すべてポンペイユスの退役兵とローマ市の貧民に分け与える、といった政策に取り組みました。
これはポンペイユスの協力の約束にもとづいて提出された法案であると同時に、カエサルの民衆への影響力を増すことが期待されました。
カエサルはポンペイユスの勢威をもっとしっかりとつかんでおくため、自分の娘ユリアをポンペイユスと婚約させました。
ポンペイユスは結婚するとさっそく、中央広場いっぱいに武装兵士を配し、民衆を助けて例の法案を可決させたばかりか、カエサルにアルプスの内側と外側の両ガリア全土を、イリュリクムと合わせて、四個軍団とともに五年間統治する権限を与えた。
このように、カエサルは自らの政治的野心を実現するために、協力者たちを巧みに利用し、その影響力を拡大していきました。
カエサルは他者との協力関係を戦略的に構築し、みずからの目的を着実に達成していったのです。
しかし、カエサルの野望は最高官職就任にはとどまりません。
執政官としての一年の任期を終えた後、ガリアに向けて出発するのでした。
ガリア遠征
将軍カエサルの資質
以上がガリア遠征以前のカエサルについて語られていることである。ところがこの後、数々の戦争を戦い抜き、ガリア平定を果たした遠征の時代は、この人があたかも第二の出発点に立ち、それまでとは異なる種類の事績をめざして新たな人生の道を歩み始めたかのように、カエサルという人物が、それ以前に稀代の名将と称えられた人たちのいずれにも劣らぬすぐれた将帥であり戦略家であることを証し立てた。
ガリア遠征は、カエサルの野望を大きく前進させた出来事でした。
この遠征を通じて、彼は莫大な戦利品と富を得るとともに、自らの軍事的才能を広く知らしめ、ローマ市民や兵士たちの圧倒的な支持を獲得したのです。
プルタルコスは、戦った場所の難しさ、征服した土地の広さ、破った敵の数の多さと力の強さ、手なずけた民族の非道と不実、さらに捕虜に対する寛容と仁愛、従軍兵士に対する褒賞と恩顧、そのすべてにおいてカエサルは他の有名な将軍をしのぐといいます。
カエサルは兵士たちからたいへん慕われ、熱烈な信服を集める人物であったから、それまでの遠征ではなんら秀でたところのなかった兵士が、カエサルの栄誉のためとあれば勇猛果敢な戦士となり、どんな危険にも立ち向かっていくことがたびたびあった。
カエサルは兵士からの信望が厚い将軍だといわれていますが、なぜそのようになったのかについては次のように説明されています。
部下たちが示すこの種の気概と名誉心を、カエサルはみずからの手で産み出し育て上げたのであり、そのための手立てとして第一に、褒美と報酬を惜しまず与えた。
それによって、戦争を続けてそこから富を集めるのはカエサルひとりの贅沢や逸楽のためではない、それらは勲功への報奨に当てるために共有の資金として取り置くのであり、したがってその富のうちからカエサルが分け前を得る場合も、兵士たちが功に応じて賞品を与えられるのと同じ配分のひとつにすぎない、と軍内に示したのです。
第二は、自身がどんな危険にもすすんで身をさらし、どんな労苦からも逃げようとしなかったことである。このうち危険を省みなかったことについては、この人の名誉心の強さを思えば、誰も驚きはしなかったけれども、労苦の耐え方には、本来の体力を超える辛抱をしているのが分かり、誰もが感嘆せざるをえなかった。
というのもカエサルは体つきがきゃしゃで、肌は白くて柔らかく、頭痛持ちのうえにてんかんの病を抱えていたのですが、それにもかかわらず体の弱さを安楽な生き方のための口実にせず、むしろ軍隊生活によって体の弱さを克服しようとしたのです。
またカエサルは、休息の時間も何らかの行動に当てようと、睡眠はたいてい台車か輿に乗って移動しながらとり、日中は方々の砦や城市や陣地に出向きました。
こうしてせいいっぱいの速さで行軍するのがカエサルの習慣であったとされます。
次のような逸話もあります。
旅の途中で嵐に遭い、ある貧しい農民の小屋に難を避けたときのこと、そこには人ひとりがかろうじて横になれるだけの部屋がただひとつあるだけだった。そこで同行の者たちに向かい、栄誉の賞品はもっとも強い者に、生活の必需品はもっとも弱い者に譲るべきである、と宣してオッピウスにそこで休むよう指示し、自分は他の者たちとともに戸口の軒下で眠りに就いた。
ここではカエサルは、将軍としての資質において兵士たちからの絶大な信望を得ていた点が特筆され、それが戦闘における士気を高める要因となり、彼の数々の成功の原動力となったのでした。
そしてそれは惜しみない報奨とカエサル自身の姿によって育まれたものだったのです。
遠征中のカエサル
ガリア戦争中のカエサルは、将軍としての非凡な才能と政治家としての野心を余すところなく発揮し、ローマ史にその名を刻む偉業を成し遂げました。
カエサルはこの遠征中、ゲルマン人の王アリオウィストゥスと戦いました。
ところが、ゲルマン人の勇猛さを聞かされたローマ将兵たちの間に怯えが広がり、とくに遠征を蓄財と栄耀のための手段として付いてきた者たちに臆する気配が強いと見て取れました。
カエサルはその者たちを呼び集めて、それほどに骨なしの腰抜けなら、強いて危険に立ち向かうには及ばない、すぐに帰国せよ、と命じた。そして、私は第十軍団だけを率いて夷狄の軍勢と戦う、敵がキンブリ族より強いわけでもなければ、私が将軍としてマリウスより劣っているわけでもないのだから、と言い放った。
カエサルはこのとき、元老院決議による四個軍団を超えて六個軍団を指揮していましたが、第十軍団はそのうちでカエサルの信頼がもっとも厚かった軍団です。
軍団一個の兵員数は通例六〇〇〇人です。
また、スラと対立した人物として先に言及されたマリウスは、かつてアルプスの南側でゲルマン人のキンブリ族を破ったので、ここで比較対象にされています。
これを聞き知った第十軍団はカエサルに感謝を伝える一方、他の軍団もみずからに喝をいれ、この結果、全軍が戦闘への意欲をみなぎらせたとされます。
かたやアリオウィストゥスにとって、カエサルが攻め寄せてきたということ自体が、士気の幾分かを打ち砕くものであった。というのもローマ軍はゲルマン兵の突進を受ければ、踏みとどまることさえできないだろうと高をくくっていたので、逆にローマ軍の方から攻めかかってくるとは予想もせず、ただカエサルの豪胆に驚くばかりであり、味方の軍内にも動揺が広がっているのにアリオウィストゥスは気づいていた。
そのうえにゲルマン人の気勢をそいでいたのが、巫女たちの託宣であり、このときは新月が輝き出すまで戦いに入ってはならないという予言がされていたのでした。
カエサルはこの情報を得て、実際にゲルマン人の動きが止まっているのを確かめると、何もせずに敵の望みの時が来るまで待っているよりも、敵の戦意が落ちている間に雌雄を決するべきだと考えた。
そこで敵が陣取る丘の上の防塁に部隊を差し向けて挑発を繰り返し、敵が苛立ちのあまりに丘から降りてきて決戦を挑むように仕向けたのです。
その結果、ゲルマン人は大敗し、カエサルはいたるところに遺体と戦利品の山を築いたとされます。
この戦いが終わると、カエサルは市民への働きかけに精を出しました。
大勢の市民が訪ねてくるなか、各人がそれぞれの求めるものをカエサルから受け取り、誰もが望みをかなえてもらったり、いずれかなえてもらう期待を抱いたりしてその場を後にした。このとき以外にもカエサルは、遠征の全期間を通じて、ポンペイユスの目に入らないところで、ローマ市民の武器を使って敵を征服することと、敵から奪った資金を使って市民を絡め取り手なずけることを交互に繰り返していたのである。
ガリア遠征中のカエサルは、単に軍事的勝利を追求するだけでなく、巧妙な政治的戦略を実践していました。
訪ねてくる市民の望みをかなえるか、将来に期待させることで、幅広い支持基盤を構築し、市民が彼のために動く意志を強めるようにさせたのです。
果敢に戦う姿をみせる
戦場でのカエサルは、勇猛果敢な姿もみせます。
大西洋沿いに居住する民族のうち極めて獰猛で蛮勇といわれたネルウィイ族との戦いのときの話です。
カエサルがまだ陣地の構築中で、戦いを予期していなかったところへ、ネルウィイ族が総勢六万の大軍で突如として襲いかかると、騎兵隊を蹴散らし、第十二軍団と第七軍団を包囲して、その中の百人隊長をひとり残らず討ち取ってしまいました。
このときもしカエサルが盾をひとつ取り上げ、前方の隊列の間を抜けて、夷狄の軍勢に切り込んでいかなければ、そして司令官が命をかけて戦うのを第十軍団が高台の上から見つけて駆け下り、敵の隊列を打ち破らなければ、誰ひとり生き残らなかったであろう。
カエサルの果敢な行動のおかげで、いわば実力を超える戦いぶりを見せたローマ軍は、敵をことごとく打ち倒し、勝利したのでした。
さらにカエサルはゲルマニア遠征、ブリタンニア遠征を行いましたが、軍勢を率いてレヌス(ライン)川を渡ったのも、艦隊の長として西方の外海に乗り出してアトラス海を渡ったのも、カエサルが最初だったとされています。
戦術の巧みさ
あるときローマ軍に危険が迫りました。
カエサルは手元の軍勢が今や大きく膨れ上がってきたため、やむなくいくつかに分割して別々の土地で冬越えに入らせ、自分はいったんイタリアに向かいました。
ところがそのときガリア全土で反乱の火の手が上がり、大勢力からなる複数の集団がローマ軍の冬営地を襲撃し始めたのです。
カエサルの副官二名が麾下の部隊ともども殲滅されたほか、キケロ(マルクス・キケロの弟)の指揮する軍団一個が六万の戦士で取り囲まれ攻め立てられました。
カエサルは遠く離れた所でこの知らせを受けると、すぐに引き返し、総勢で七〇〇〇人の軍勢を集めたうえ、キケロを包囲から救い出そうと道を急いだ。しかし包囲軍側はいちはやくこれに気づき、寡勢の敵を侮って、ひとひねりでつぶしてやろうと迎え撃ってきた。するとカエサルは敵の眼を欺くように身をかわし続けた末に、少数で多数を相手に戦うのに適した場所を見つけ、そこに防御陣を築いたまま、麾下の兵士たちをいっさい戦いに出そうとしなかった。そしてあたかも怯えているかのように、防柵を高くして門を固めることに専念させたのだが、これが実は油断を誘うための策略で、やがて敵が不用意に隊列も作らないまま近づいてきたところで一気に攻めて出ると、敵を蹴散らして多数を討ち取った。
ここではカエサルの戦術面における卓越した指揮能力が示されていますが、ガリア戦争の各場面において、カエサルの優れた戦術が随所に発揮されているのをみることができます。
彼は状況を瞬時に把握し、戦場の地形や敵軍の動きを的確に読み取った上で、柔軟かつ大胆な戦術を展開することができたのです。
アレシアの戦い
しかし遠方の地域では、獰猛きわまりない部族の住む地に、ずっと以前から反乱の種が首領たちの手でひそかに蒔かれ育てられていて、今やこの戦争の中でも最大の規模と脅威をもつ戦いとなって、姿を現わしつつあった。
多数の部族が蜂起に加わったなかで、選ばれて全ガリア連合軍の総大将になったのがウェルキンゲトリクスという人物でした。
ウェルキンゲトリクスは、周辺をアラル川に至るまでの全域にわたって同志に引きずり込もうとしたとき、ローマ市内で反カエサル派の勢力がようやく結集しつつあるのに乗じて、ガリア全土を戦争に立ち上がらせようという狙いをもっていました。
しかし戦争にかかわる行動全般、とくに機を逃さないことに無類の才能を持つカエサルは、反乱の報告を受けるやいなや進軍を開始し、これほどの冬の厳しさのなか、たどった道のありようによって、そして行程の速さと力強さによって、攻め込んでくるのが不屈かつ無敵の軍隊であることを夷狄に思い知らせた。
ところがここで、カエサルの遠征に協力していたハエドゥイ族が反乱に加わるという出来事が生じました。
この民族は自分たちをローマ人の兄弟と公言するような人々であっただけに、カエサルの兵士たちの意気が挫かれてしまったのです。
そこでカエサルはこの方面から転じて、セクァニ族という、ローマに友好的でしかも地勢の良いある民族の領地に入ろうとしました。
ところがそこで敵の攻め手に捕まり、数万の軍勢に取り囲まれたため、すかさず決戦に打って出ると、長時間にわたる死闘を繰り広げながら夷狄を寄せ付けず、最後には敵を屈服させて勝利を収めた。
このとき戦場から落ち延びた者たちがいて、そのほとんどはウェルキンゲトリクスとともにアレシアという城市に逃げ込みました。
高い城壁と多数の兵士に守られたこの城市をカエサルは包囲しましたが、そのとき重大な危機が外側から彼に襲いかかってきたのです。
方々の民族から集められ、ガリアでは他に例のないほどの規模になった軍勢、数にして三〇万人が、武器を手にアレシアに迫ってきたのである。一方でアレシアに立てこもる守備兵も一七万を下らなかったから、カエサルはこれほどの大軍に前後を挟まれ封じ込められるかたちになって、城市の側と援軍の側の両面に防壁を築くことを余儀なくされた。
もしこの両軍が合流するような事態になれば、その時点ですべてが終わってしまうのは明らかでした。
そのためカエサルはウェルキンゲトリクスを囲む包囲線を築いた後、外からやってくる解囲軍の攻撃を防ぐために、外周部にも包囲線を築いたのです。
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カエサルは城市の側と援軍の側の両面に防壁を築いた
アレシアでの危機にさいしてカエサルのとった作戦が称賛を集めたのには、当然ながらいくつかの理由があり、このとき以外には見たこともない大胆かつ巧妙な戦いぶりが随所に展開された。
二重の包囲線によって敵の合流を阻んだカエサルは、みずからも部隊を率いて出撃し外側の軍勢との激戦を繰り広げた結果、ローマ軍は勝ちを収めたのでした。
友軍の敗北を悟って、アレシアに籠城していた人々は、とうとう降伏を申し入れました。
戦争の総指揮を執ったウェルキンゲトリクスは、ある限りのりっぱな武具を身にまとい、騎馬にもせいいっぱいの飾りを施して、城門から駆け出した。そして腰を降ろしたカエサルのまわりを回ったあと、馬から跳び下りると、武具一式を投げ捨て、カエサルの足元にひざまずいたまましばらく身動きせずにいたが、やがて番兵に引き渡されて凱旋式を待つ身となった。
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ウェルキンゲトリクスとの戦いは、カエサルの戦略的洞察力や実行力、そしてその大胆さといった統率者としての能力が歴史に刻まれた象徴的な出来事といえるでしょう。
アレシアの勝利によって、カエサルはガリア全域をローマの支配下に置くことに成功し、ガリア戦争は終焉を迎えました。
この遠征の結果、ローマの領土は西ヨーロッパ全域に広がり、カエサルの名声は不動のものとなります。
同時に、この偉業は彼の政治的地位を高め、のちにローマ内戦と独裁への道を歩む重要な契機ともなったのでした。
ローマ内戦
ポンペイユスとの対立
カエサルは、かつては協力者として手を組んでいたものの、いずれポンペイユスを追い落とさなければならないと心に決めていましたが、それはポンペイユスにしても同じことでした。
クラッススがパルティア人との戦争で命を落としたことで、残されたふたりの抗争が呼び起こされたのです。
もっとも、ポンペイユスの場合、そんな危機感が心中に生じたのは最近のことであり、それまではカエサルを見くびって、あれは自分が引き上げてやった男なのだから、一転して蹴落とすことなど造作もないと高をくくっていた。しかしカエサルの方は初めからそういう狙いを持っていて、格闘士がするようにまず対戦相手から遠く離れた場所に退いたあと、ガリア人との戦争で訓練を積み戦功を重ねることによって、兵士の力量を増すと同時に自身の名声を高め、とうとうポンペイユスの栄達に比肩しうる高みにまで押し上げた。
事を起こすための理由付けには、当時の情勢や国政の腐敗に起因する部分もありました。
その頃のローマでは、選挙のための大掛かりな買収工作が横行し、官位立候補者は悪びれるようすもなく選挙民に金をばらまき、買収された民衆は票ではなく剣を持ち、有力政治家が武装集団をかかえて抗争を繰り返す事態になっていました。
このため執政官が選出されず、統治者不在の状態にあったローマを治療するには独裁しかないと考えられるようになったのです。
そこでカエサルは、いつものように味方集めを開始します。
カエサルはガリアで蓄えた資産を堰を切ったように流し始め、国政にかかわる人たちすべてに惜しげもなく注ぎ込んだ。
もはや敵対関係が明らかになったポンペイユスは、カエサルから軍事指揮権を取り上げようとし、まずカエサルに使いを送って、ガリア人との戦争のためにポンペイユスが貸し与えていた兵士たちの返還を求めました。
カエサルは兵士ひとりひとりに金を与えたうえで、要求どおりに送り返しました。
ところがその軍隊をポンペイユスのもとに連れ帰ってきた士官たちは、民衆の間にカエサルについての不実で不当な評判をばらまいたのです。
彼らが言うには、カエサルの軍隊はポンペイユスを慕っている、ポンペイユスはこちらローマでは腐敗した国民の嫉妬に災いされて難儀しているけれども、あちらガリアでは軍隊がポンペイユスの指令を心待ちにしている、あの軍隊は山を越えてイタリアに入りさえすれば、まっすぐにポンペイユスのもとに駆けつけるだろう、遠征を強いてばかりのカエサルに対して兵士たちの不満はそれほどまでに高まっていて、しかも独裁者の座を狙っているのではないかという不安も大きい。
しかしこれはカエサルの策でした。
実際にはガリアのローマ兵はカエサルを支持していましたが、カエサルはポンペイユスが遣わしてきた士官たちに虚偽の情報を伝えさせて、ポンペイユスを籠絡したのです。
このようなおだて文句を聞かされ、すっかりうぬぼれてしまったポンペイユスは、怖いものなどないと、軍勢の準備をなおざりに、むしろ演説や元老院決議により政略でカエサルを押さえ込もうとしました。
元老院はカエサルの司令権を取り上げようとするのに対して、カエサルは自分だけではなくポンペイユスも軍隊司令権を手放すことを要求し、いったん双方が一介の私人となってから、国民に何らかの利得を見つけてもらうことを提案しました。
しかし反カエサルの政治家たちは、カエサルから軍隊を取り上げることを頑として譲らず、元老院はカエサルの司令権放棄を求める決議を可決し、さらには彼の仲間を侮辱して元老院から追い出してしまったのです。
結局、この強硬策は、カエサルのために絶好の宣伝の材料を提供することになりました。
というのもカエサルは、りっぱな官位に就く高名な市民が奴僕の衣を身にまとい、借りた荷車に乗って脱出してきたさまを指し示しながら、それを兵士たちの怒りをかきたてるための手段としておおいに活用したのである。
ポンペイウスとの対立を見越していたカエサルは、ガリア遠征で得た高い名声を活用し、自軍の兵士を鍛え上げ、蓄えた財産を放出して支持者を増やしていきました。
また、巧妙な策略で相手を油断させたり、兵士たちの士気を鼓舞することで、状況をみずからの手で整えていきました。
カエサルは、その周到さと状況掌握力によって決戦のための態勢を丹念に準備し、自らの勝利に向けた盤石な土台を築き上げていったのです。
ルビコン川越え
このときカエサルの手元にはまだ全軍が結集していませんでした。
しかしカエサルの見るところ、これから取りかかる企ての初めの一歩は、さしあたり大きな兵力を必要とするものではなく、むしろ好機を逃がさない俊敏で果敢な行動によって敵の不意を突くことが肝要であり、また実際、準備を整えてから進み出て力で挑むよりも、警戒していないところを襲って浮き足立たせる方が容易だと思われた。
そして暗くなってきた頃にイタリア本土へ向けて移動を開始しました。
やがてアルプスの内側のガリアとイタリア本土との境界をなす一本の川が見えてきました。
ルビコンと呼ばれるこの川を前にして、カエサルはある想念にとらわれ、近づいていこうとしているものの恐ろしさと、これから決行しようとする事柄の重大さに心の震えを覚えつつ、荷車に停止を命じた。
彼は長い間黙り込んだまま、その場で何度となく意思を変転させたといわれます。
側近たちにも迷いを口にして、この渡河がすべての人間にどれだけの禍を引き起こすか、また後世にどれほどの名を残すかを推し量りながら、長い間話し合いました。
しかしとうとう思案を払いのけて未来に身を投げ出すかのように、一種の気迫を込め、「賽を投げよ」という、定かならぬ運命と決断に踏み込もうとする人がしばしば使うあの成句を発すると、川に向かって駆け出した。
こうしてカエサルはイタリア本土に進撃を開始し、ローマ内戦の幕が上がりました。
都市を占領しつつ進軍してきたカエサルによって、イタリア中は大混乱に陥りました。
ローマには周辺から住民が逃げ込んできたために、市中はいっぱいになり、高官の命令も届かず、市内のあらゆる所で激情がぶつかり合うというありさまだったとされます。
ポンペイユス自身も、この混乱の中でさまざまな人から非難を受け、心を乱していました。
しかし実は、このときでも兵員の数はポンペイユスの方がカエサルを上回っていたとされます。
ところがポンペイユスは、もはや誰からも己の判断力を働かせる余裕を与えてもらえず、次々に飛び込んでくる誤った報告と怯えきった人の口から、戦争はすぐそこまで来てすべてをすべてを呑み込もうとしていると聞かされるうちに、周囲の勢いに負けて引きずられてしまい、あげくに動乱勃発を宣言して都を後にした。
好機を逃さず、俊敏かつ果敢に行動することで敵の不意を突き混乱させるというカエサルの狙いがあたりました。
カエサルは、このような事態を予測し見極める戦略眼と、内戦を引き起こすという重責を前にしても揺るがない決断力を駆使し、ポンペイウスをローマから追い払うことに成功したのです。
ギリシアへ
ローマ制圧後、ヒスパニアのポンペイウス・元老院派を平定して背後の敵を取り除いたカエサルは、ギリシアへ逃げたポンペイユス追撃に出ました。
カエサルは道を急ぎ、途中で他の軍勢を追い越すと、海に乗り出し、上陸してからは、遅れた兵士たちを乗せるために船団を送り返しました。
このとき、道行きの遅れた兵士たちは、もはや体力の盛りを過ぎていたので、苦労の連続に音を上げて、移動の途中、しきりにカエサルに不満を鳴らしていました。
「いったいあの人は、おれたちをどこの果てまで連れていくつもりだ。おれたちをまるで疲れも知らず心も持たない物のように、あちこち引きずり回すばかり。剣でも撃つうちに鈍くなり、盾も鎧もこんなに長く使っていれば少しは休ませるものなのに。カエサルはこの傷を見てもわからないんだろうか、自分の指揮しているのが生身の人間で、おれたちが痛みも苦しみもする命ある身だということを。風の吹き荒れる冬の海を押さえ込もうなんて、神様でさえできるはずがない。それなのにあの人ときたら、敵を追いかけているというより、敵から逃げているみたいに、危険に飛び込もうとする」。
このような愚痴をこぼしながら進んでいた兵士たちでしたが、カエサルがすでに港を出たと知るやいなや、態度を一変させました。
自分たちを司令官に対する裏切り者と呼んで、みずからを責め、さらに隊長たちを行軍を急がせなかったといって責めたのです。
そして海のかなたを見やりながら、自分たちを渡してくれる船団の帰ってくるのを待ち続けたといわれます。
この逸話は、カエサルが部下たちの忠誠心と厚い信任を勝ち得た人物だったことを示しています。
その後、軍勢が渡航してきたので、カエサルはポンペイユスに戦いを挑みました。
デュラキオン包囲戦と呼ばれるこの戦いでは、制海権をを握って海岸付近に位置を占めるポンペイユスの陣地と、それを陸上から取り囲むカエサルの陣地の間で戦闘が行なわれました。
このとき、包囲中のカエサル軍には問題がありました。
ポンペイユス側は海上からの食料補給が可能でしたが、カエサル側は周辺の穀物をすべて消費し尽くしてしまったのです。
さらに戦闘においても危険な場面がありました。
ポンペイユスが攻め寄せてきたとき、踏みとどまる兵士はひとりもなく、雪崩を打つような敗走に追い込まれたのです。
カエサルは立ちはだかって、逃げ戻ってくる兵士たちを向き直らせようとしましたが、そのかいもありませんでした。
そして何より、カエサル自身があやうく命を落とすところだったのである。というのも大柄で屈強なひとりの兵士がかたわらを逃げていこうとしたとき、カエサルはその男に手をかけて、止まれ、敵の方へ向き直れと命じた。ところが恐怖のために錯乱していたその男は、カエサルに向けて剣をふりかざし、刃先が触れようとしたせつなに、カエサルの盾持ち兵がその男の腕を斬り落としたのである。
しかしこのような危機的状況のなか、意外なことが生じました。
ここにいたってカエサルは負けを覚悟した。だからポンペイユスが用心のあまりかそれとも運命の気まぐれか、偉大な事績に仕上げの一手を怠り、敗走兵を敵陣内に封じ込めたあとで引き揚げたとき、カエサルは立ち去りながら幕僚たちにこうつぶやいたものである「もし敵方に勝利のすべを知る将がいれば、今日、勝利は敵の手に落ちていたであろう」。
カエサルは、みずからの敗北を覚悟する状況にあっても、敵の用心深さという偶然によって救われたのでした。
運命の力がカエサルに味方した瞬間であったのです。
その後カエサルは、ポンペイユスにとって好位置にあるこの場所から、他の場所へと戦争の部隊を持ち越すことを決意し、陣営の撤収を命じたのでした。
パルサロスの戦い
カエサルは移動の間、先頃の敗戦のせいで行く先々で軽侮の扱いを受け、食糧の取り引きに応じてくれる者がひとりも現われないまま、苦しい行軍が続いていましたが、ポンペイユス側に付いたある都市を攻め落として、ようやく兵士たちに栄養を取らせることができました。
カエサルと、戦いを求めて彼を追尾してきたポンペイユスの両軍は、パルサロス近郊に入って陣営を置きました。
このときポンペイユスの軍では、すでに戦いに勝利したかのように、カエサルの後継をめぐって早くも争いを始めるしまつでした。
全軍の中でもとりわけ戦いに向けて血気に逸っていたのは騎兵たちで、武具の輝きと馬の育ちぐあいと乗り手の美しさによって、驚くべき壮観を作り出していたばかりか、カエサル側の一〇〇〇騎に対して、こちらは七〇〇〇騎という数の多さによってもおおいに意気上がっていた。歩兵の数でもポンペイユス側が優位に立ち、敵の二万二〇〇〇に対してこちらは四万五〇〇〇であった。
カエサルの方は兵士たちの集会を開くと、まず他の地方にいた味方の軍勢が近くにきていることを告げたのち、兵士たちの意志を尋ねて、これらの増援軍が来るのを待つか、それとも自分たちだけで雌雄を決する戦いに出るかと問いかけました。
すると兵士たちは大声で、待つには及ばない、むしろ少しでも早く敵と会して刃を交えられるように作戦を立て、指揮を執ってもらいたいと叫んだ。
戦いの前夜のこと、ちょうど真夜中の頃にカエサルが哨戒拠点を見回っていたとき、天空で一点の光が輝き出したかと思うと、炎のように明るく燃え上がってカエサル陣の上空を通り過ぎ、ポンペイユス陣に落ちてゆくのが見えました。
しかしその日に戦いが始まるとは予期していなかったので、カエサルはパルサロスからさらに東方へ移動を続けるつもりで、野営陣を解く準備に入りました。
ところが幕舎の解体もすでに終わった頃、馬に乗った斥候が駆け込んできて、敵が丘から降りてきて戦いに入ろうとしているという報告をもってきたのです。
それを聞いたカエサルは跳び上がらんばかりに喜び、神々に祈りを捧げたあと、戦列の構築に取りかかると、部隊を三つに分けて配置した。まず中央部にドミティウス・カルウィヌスを置き、両翼の一方にアントニウスを配したうえで、カエサル自身は右翼に位置を占め、第十軍団に伍して戦う構えだった。ところがこの右翼方面に敵の騎兵隊が対峙しているのが見えたとき、その武具の輝きと数の多さに不安を感じたので、最後列から大隊六個をひそかに呼び寄せると、これを右翼の後方に配置すると同時に、敵の騎兵が押し寄せてきたときに為すべきことを指示した。
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ポンペイユス側の騎兵全軍が左翼にその重量を集中させたのは、敵の右翼を包囲して、司令官自身を取り巻く部隊をことごとく壊走に追い込もうという狙いでした。
いよいよ両軍が攻撃の合図を出そうとしたとき、ポンペイユスは歩兵に指示して、槍を突き出したまま動きを止め、敵が投槍の射程内に入るまで今の位置に留まって敵の突進を受け止めよ、と命令しました。
しかしカエサルに言わせれば、これもまたポンペイユスの戦術の誤りであり、つまり軍勢が最初に出会うときは、勢いよく走って打ち当たってこそ、衝突にいっそう圧力が増し、接触によって火のついた気迫も大きく燃え上がるものなのに、ポンペイユスはそれを心得ていない、というのである。
中央部では歩兵どうしがぶつかって戦いを始めました。
このときポンペイユス側の騎兵は左翼から勢いよく跳び出すと、敵の右翼を包囲しようと隊列を展開しました。
ところが騎兵が攻め込もうとしたとき、カエサルの用意していた大隊が前に走り出てきて、投槍を通常のように投げるのではなく、また手に持って敵騎兵の腿や脛に突き出すのでもなく、眼に狙いをつけて槍で相手の顔を傷付けようとした。
実はこれが、あらかじめカエサルの指示していた戦術でした。
つまりカエサルは敵騎兵の心理を読んで、まだ戦場や負傷というものに不慣れで、みずみずしい美貌が自慢の青年たちは、こういう傷を何より嫌がり、現在の命の危険と同時に将来の醜い容貌にも恐れを感じて、とうてい踏みとどまれないだろう、と予想したのです。
果たしてそのとおりのことが現実になった。騎兵たちは突き上げられる槍を受け止められず、刃先が眼に入って反撃もできず、ただ美貌を惜しんで顔をそむけたり覆ったりするばかりだった。そしてどうにも収拾がつかなくなり、とうとう背を向けて遁走に転じた結果、すべてをひっくり返すという不名誉を演じてしまった。というのもここで敵陣を破った大隊の兵士たちは、ポンペイユス軍の歩兵隊列の側面を迂回することに成功し、背後から攻めかかって、次々に刃にかけたのである。
ポンペイユスは騎兵が算を乱して逃げていく光景を目にし、味方がことごとく敗走に陥って、敵が陣地に迫ってくると、ひそかに陣を抜け出しました。
その後、ポンペイユスは、エジプト宮廷の庇護を求めて、迎えの小舟で上陸しようとしたとたん、廷臣のたくらみにより殺害されます。
カエサルはポンペイユスの陣地に入り、敵兵のすでに息絶えて横たわっているもの、そして今まさに殺されようとしているものを眼にしたとき、嘆息を洩らしてつぶやいた「これはやつらの望んだこと。やつらが有無を言わせずおれをここまで引っ張ってきたのだ。数々の戦争に勝利を収めたこのガイウス・カエサルも、もし軍隊を手離していれば、きっと裁判で有罪を宣告されていたはずだ」。
生きて捕虜になった兵士については、そのほとんどをカエサルは自身の軍団に編入し、名門市民の多くについても安全を保障しました。
その中には後にカエサルを暗殺するブルトゥスも含まれていました。
パルサロスの戦いは、カエサル率いる軍勢とポンペイウス率いる元老院派との間で繰り広げられた一大決戦となりました。
カエサル軍は人数で劣るにもかかわらず、卓越した戦術と士気の高さでポンペイウス軍を打ち破り、大勝利を収めたのです。
この勝利により、カエサルはローマの覇権確立へ大きく前進したのでした。
この戦いにおけるカエサルの成功は、兵士たちからの絶大な信頼にもとづく士気鼓舞能力、敵騎兵に対する戦術的な工夫、そして全軍の意志をまとめて導く統率力に裏打ちされたものであり、このような多面的な能力によって、彼は数的不利を覆す勝利をつかむことができたのです。
エジプトで
カエサルはポンペイユスの追跡を開始しました。
しかし彼が到着したときには、すでにポンペイユスは殺害されていたのでした。
アレクサンドリアに上陸したのはポンペイユスの死の直後のことで、テオドトスがポンペイユスの首を持ってきたときには顔を背け、故人の指環を受け取って涙を流した。ポンペイユスの仲間や僚友で、近辺をさまよっているうちにエジプト王に捕縛された者がいたので、彼らをすべて手厚い配慮で迎え入れて自分の麾下に加えた。このことについてカエサルは、ローマにいる親しい人たちに宛てた書簡の中で、勝利の喜びのうちでもっとも大きくもっともうれしいのは、自分に対して武器を取った市民を次々に救ってやったことだ、と書き記している。
ところで、現エジプト王の父は、ローマに頼って王権を維持しようとして、ときの執政官カエサルに王位を承認してもらう代わりに、多額の資金提供を約束していました。
そこでカエサルは、息子である現王に、軍隊の維持のために今返済してもらいたいと要求したのです。
しかしポテイノスが、今はむしろエジプトを出て偉大な事業に取りかかるべきときである、貸付金については後日に感謝とともに受け取ればよい、と答えたので、カエサルは、エジプト人に忠告してもらう必要はないと言い捨て、ひそかにクレオパトラを辺境から迎え入れるべく使者を遣った。
ポテイノスはポンペイユスの殺害にも関与した、エジプト王の宦官で、ことあるごとにカエサルへの侮蔑と嫌味を言葉と行動ににじませ、反感を買っていたようです。
またエジプトでは、前王が死去し、そのさいに子のクレオパトラとプトレマイオス十三世の姉弟を共同王位に定めましたが、まもなくしてクレオパトラは弟とその側近たちによって追放されたのでした。
クレオパトラは巻き返しを図り、王位奪回をめざして軍勢とともにエジプト東部に戻っていましたが、カエサルはこの宮廷内の争いに巻き込まれたというわけです。
そこでクレオパトラは、侍従の中からシキリア出身のアポロドロスひとりを伴に従え、小さな舟に乗り込むと、すでに暗くなりかけた頃、王宮のかたわらに着岸した。そして他に人目を避ける手立てがなかったので、寝具袋の中にもぐり込んで体をいっぱいに伸ばし、アポロドロスがその袋を紐で縛ったうえで、戸口を抜けてカエサルのもとに運び込んだ。いきなり見せられたこの奇策に驚き、クレオパトラの妖しい魅力に憑りつかれたカエサルは、その後も彼女の艶美な物腰にすっかり負かされてしまい、それゆえに弟との和解と共同王位の実現に尽力してやったのだと伝えられる。
ところがその後、国中が和解を祝って宴を張るなか、カエサルは、将軍アキラスとポテイノスによる自身の暗殺の企みが進められているのを聞き、事実を確かめると、ポテイノスを殺害しました。
しかしアキラスが自身の陣営の中に逃げ込んだため、カエサルはエジプトの軍隊を相手に応戦するはめになり、危難続きの戦争に引きずり込まれてしまったのです。
第一の危難は、敵に疏水を堰き止められて、水の補給を断たれたときである。第二は、艦隊から切り離されそうになったために、やむなく火を放って危機をかわしたときで、このときは火が船渠の外に燃え広がって大図書館まで焼き尽くしてしまった。第三に、パロス島近辺の海域で戦いが起こったとき、カエサルは突堤から小舟に跳び乗って応援に向かおうとしたが、四方からエジプト軍の船が漕ぎ寄せてきたので、海に飛び込んで懸命に泳ぎ出し、かろうじて難を逃れた。
第一の危難では、ナイル川からアレクサンドリア市内に水を供給する地下水路をふさがれ、代わりに海水を流し込まれたのでした。
第二の危機では、アキラスの軍勢がアレクサンドリア港に停泊中の艦隊を奪おうとしたので、兵力で劣勢のカエサルは窮余の策として艦隊に火を放ったのでした。
第三の危機では、港への出入りを制するこの島をカエサル軍はいったん占領しましたが、エジプト軍の反抗を受けて苦戦に陥ったのでした。
海に飛び込んだカエサルでしたが、このときたくさんの文書を携えていたので、敵に射かけられまた溺れそうになりながらも、それを放り捨てようとせず、片手で海面上に持ち上げたまま、片手で泳いだといいます。
しかし最後には、王が去って敵側に移ったのを機に、攻め込んで戦いに勝利を収め、多くの敵を倒し、それと同時に王は姿を消した。
カエサルのもとにいたプトレマイオス十三世は、エジプト軍の求めにより、そちらに身を移しました。
その後、ナイル川付近で行なわれた決戦でカエサルは勝利を収め、プトレマイオス王は船とともに川に沈んだとされます。
カエサルはクレオパトラをエジプトの女王に据えたあと、シリアに向けて出発した。クレオパトラはそれからまもなくしてカエサルの種になる男の子を産み、アレクサンドリアの人々はその子をカエサリオンと呼ぶようになる。
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エジプトにおいてカエサルは、ポンペイユスの死に涙を流し、その仲間であった者に対しても寛容な態度を示して、迎え入れることで、対立を緩和する包容力を発揮しました。
そしてエジプト軍との戦いにおけるカエサルは、危険な状況下でも冷静さを失わず、対応策を実行する能力を如実に示しており、彼が単なる戦略家ではなく、危機的現場での対処力においても優れた指導者であったことを物語っています。
ポントス戦役とアフリカ戦役
カエサルがシリアからアジアに進んでいるときに報告が入り、ローマ内戦に乗じたパルナケスという黒海の地方の王に、味方が敗れたことを知らされました。
そこで軍団を率いてただちにパルナケス征討に向かい、ポントス地方のゼラ市の付近で一大会戦に打って出ると、パルナケスを遁走させて、敵軍を跡形もなく滅ぼしたとされます。
この戦いの迅く速やかであったことを、カエサルはローマにいる友人のひとりマティウスに宛てた書簡の中で、「来た、見た、勝った」という三語を使って表現した。この三つの単語はラテン語では末尾が同じ形になっていて、驚くほど簡潔明瞭な文を作り出している。
カエサルの有名なラテン語文「veni vidi vici.(来た、見た、勝った)」はここで生まれたのでした。
このあとカエサルはイタリアに帰航し、ローマへの道を上っていきました。
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帰国したカエサルでしたが、パルサロスの戦いのあとポンペイユスの義父スキピオや元老院派の人物たちがアフリカへ逃亡し、その地の王ユバの応援を受けて、かなりの大軍を結集させていたため、それを討つために遠征に出ることを決意しました。
そこでまず冬至の頃にシキリア島へ渡ったカエサルは、麾下の隊長たちがその島で足を止めて日待ちをしたがっているのを見ると、その望みをきっぱりと捨てさせるために自分の天幕を波打ち際に設け、やがて順風が吹いてくると同時に船に乗り込んで、三〇〇〇人の歩兵と少数の騎兵だけをともなって出帆した。そしてこの兵士たちを敵に察知されることなく上陸させたあと、本隊のことが気がかりで船を戻したところ、軍勢を乗せた船団がすでに海上にあるのに遭遇したので、それらをすべてまとめて陣営に収めた。
カエサルはシキリア島での停滞を防ぐため、みずから行動を率先することで、隊長たちの日待ちの望みを断ち切らせました。
自分が先に行くことで、味方に後を追いかけさせ、結果としてすばやく進軍させたのです。
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敵はカエサル軍を数で上回る軍勢を擁し、みずからの地盤でもあり兵站もカエサル軍に対して優位にありました。
あるとき、カエサルの騎兵たちが休息をとっていたところへ、ひとりのアフリカ人の男が現われ、踊りと笛を上手に演じてみせました。
それを騎兵たちが腰を降ろして見物している間に、敵の一隊がまわりを取り囲み、虚をついて襲いかかってきたのです。
敵は騎兵たちの一部を殺し、残りの兵が一目散に陣地内に駆け戻るのを追いながら、いっしょになだれ込もうとする勢いでした。
もしカエサルがアシニウス・ポリオとともに陣内から応戦に出て、騎兵たちの逃げ足を止めていなければ、このときに戦争は終焉を迎えていたであろう。またあるときは、両軍が衝突して力比べを繰り広げた末に敵が優勢に立ったことがあり、そのときカエサルは、逃げ戻ろうとする旗兵の首をつかまえて振り返らせ、「敵は向こうだ」と一喝したと伝えられる。
しかしこれらの戦いは、敵に過ぎた自信を与え、決戦敢行を決断させるはずみになりました。
スキピオは味方を、少し離れて位置する二つの陣地に別々に残したまま、タプススという市の付近に進むと、戦いにあたって拠点となるべき砦の構築を始めました。
ところがスキピオが砦の建設に精を出している間に、カエサルは森に覆われて接近の見つかりにくい地帯をとてつもない速さで駆け抜けると、スキピオの軍勢の一部を取り囲み、残りの部分に正面から攻めかかった。
カエサルはスキピオ軍を蹴散らしたあと、他の二つの敵軍にも攻撃し、わずか一日の間に三つの陣地を制圧しました。
戦いはカエサルの勝利で終わったのでした。
アフリカ戦役では、敵に有利な条件にありながら、カエサル自身が前に出ることで戦況を変えたり、兵士たちを鼓舞し行動を直接的に指導しようとしたりと、彼が兵士たちの精神面や意志に影響を与える力を持っていたことが示されています。
そして何より、この戦役は機動においても戦術においても、カエサルの行動の迅速さが勝利をもたらしたと言えるでしょう。
ヒスパニア遠征
カエサルはアフリカからローマへ戻ってくると、凱旋式を挙行して、ガリア、エジプト、ポントス、アフリカでの勝利を祝いました。
そしてポンペイユスの息子たちを掃討するため、一連のローマ内戦の仕上げとなるヒスパニア遠征の途に就きました。
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この息子たちは、まだ若いながら、すでに驚くべき規模の軍勢を集めることに成功し、しかも戦いになると司令官たるにふさわしい胆力を発揮して、カエサルを窮地に追い込んだとされます。
大会戦がムンダの近郊で起こったとき、カエサルは味方の兵士たちが敵の圧力を支えきれず押しつぶされそうになっているのを見て、歩兵の隊列の間を駆けめぐりながら大声を発し、おまえたちが恥というものを知らないなら、おれを捕まえてあの小僧どもの手に渡すがいい、と叫び続けた。
この戦いは激戦であったようで、のちにカエサルは、おれは勝利のために戦ったことはたびたびあるが、自分の命のために戦ったのはこれが初めてだ、と親しい者たちに洩らしたといわれます。
しかし結果としては、カエサル軍は気力をふりしぼって敵を押し返し、戦いに勝利しました。
ムンダの戦いでは、カエサルは第十軍団が配置された右翼を指揮していましたが、この第十軍団が敵軍を押し込んでいったことが勝利につながったとされています。
危機的な場面でみずからの存在感を示し、兵士たちを奮起させ、戦局を有利な方向へ導くカエサルの心理的影響力がみられます。
この戦争は、カエサルが戦った最後の戦争になりました。
しかし、カエサルがこの勝利を記念して挙行した凱旋式は、ローマの人々にとって、心の痛みをともなうものになりました。
なぜならこのたびの勝者は、異民族の将軍や夷狄の王を征服したわけではなく、悲運に落ちたローマ随一の実力者の息子たちを殺し、その一族を根絶やしにして帰ってきたのであり、そんな人物が祖国の不幸を祝うかのように、凱旋行列の栄に浴するというのは、実に醜悪なことであった。
先の凱旋式では、アフリカでの勝利は、ローマ市民に対する勝利を祝うかたちになるのをはばかって、ユバ王から得たものとして祝ったのでした。
カエサルは、これまで内戦での勝利にかんしては、公に使者を遣わしたり書簡を送ったりするのを控え、栄誉を受けるのも慎んでいたはずでしたが、今回は同胞たるローマ市民への勝利が堂々と祝われたのです。
ローマ内戦はカエサルの勝利で終結したものの、その約一年後にはローマ史の大きな転換点となる大事件が起こるのでした。
カエサルの最期
終身独裁官就任
人々はカエサルの盛運の前で頭を低くし、轡を甘んじて受けたうえで、唯一人による支配を内戦の惨禍からの救いと見なし、カエサルを終身の独裁官に指名した。しかしそれは、唯一人支配が無答責特権に加えて無制限任期まで手に入れたのだから、誰がどう見ても王を僭称する者の支配にほかならなかった。
カエサルへ授与された名誉の大きさはとてつもないものでした。
任期一〇年の執政官位の授与、「国家の父」の称号授与、神々の像と並ぶカエサル像の建立、神殿の奉納、自身の誕生月の改称(それまで「第五」と呼ばれていた月を「ユリウス」に改めた)など、いかに温厚な人でも嫌悪感を覚えずにはいられないような事態になったといわれます。
カエサルは、友人たちから護衛兵を付けるように勧められましたが、常に死を予期しながら生きるよりも、ひといきに死ぬ方が良い、と言って拒み続けました。
そして民衆からの人気こそが、身を守るためのもっとも固くもっとも確かな鎧だとばかりに、宴会と穀物給付によって民衆の機嫌を取り、入植地配分によって兵士たちを手なずけるという従来の方法を繰り返した。
また有力な市民たちに対しては、人によって将来の執政官や法務官の地位を約束してやったり、それ以外の官位や名誉で宥めたりしながらも、すべての人が何らかの望みを持てるようにはからった。
カエサルはこのようにして、自発的な服従を引き出したいと念じていたとされます。
のちにカエサル暗殺謀議の中心になるブルトゥスとカッシウスの両名も、彼が法務官に就任させました。
終身独裁官に就任したものの、カエサルの野望はとどまることを知りません。
カエサルにとって偉業への願望と名誉への執着は、持って生まれた性分であるから、これまでの数多くの功績も、この人を苦労の成果をゆっくり味わうような境地にいざなうことはなく、むしろそれが将来のための自身の源となり火をつける材料となって、あたかも従来の名声は使いきってしまったかのように、いっそう大きな事業への野心と新たな名声への情熱を産みつけていた。カエサルの胸中にあったのは、他者に対する嫉妬ならぬ自身に対する嫉妬としか言いようがなく、いわば将来の事績が過去の事績を相手にして競い合っていたのである。
このとき彼が準備していた計画は、まずパルティアに軍隊を進めて、この民族を征服したあと、カスピ海と黒海の間を北上し、黒海の北を回ったあと、ドナウ川を遡るようにしてゲルマニアに入り、イタリアに戻るという大遠征だったといわれます。
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しかし暦の改革と月日のずれの修正は、カエサルが細緻な研究の末に完成させたものであり、実際に使ってみてきわめて精巧かつ有益であることが分かった。
カエサルの時代においても、暦の知識は神官だけが独占していたため、政治的思惑も重なって、何の予告もないまま突然に閏月を差し挟まれる事態になっていました。
しかしカエサルはこの問題を自然学者と数学者にゆだね、独自の暦法を作り出しました。
一年を三六五日とし、四年に一度、閏日を加えるというユリウス歴です。
ところがそんな暦の改正もまた、カエサルの権力に妬みと恨みを抱く人たちに、中傷の材料を与えることになってしまいました。
とはいえ、ついには死を招くほどの、あからさまな憎悪を生み出したのは、何と言っても王位への願望であり、これこそが多くの者にとっては、カエサル指弾の初めての理由となり、積年の恨みを抱いている者にとっては、またとない口実となった。
それは、カエサルをこの地位に推そうとする人たちもいる一方、多くの市民にとっては受けいれがたいことでした。
ある祭礼が催されたときのこと、アントニウスが月桂樹の葉をめぐらせた王の頭飾りをカエサルに差し向けました。
喝采が起こったものの広がらず、あらかじめ用意しておいた少人数にとどまりました。
ところがカエサルが頭飾りを押し戻すと、民衆がこぞって大きな喝采を送りました。
もう一度繰り返したところ、同じ反応であり、この試みのうまくいかないことを悟ったカエサルは、冠を神殿に納めるよう命じたとされます。
一方、カエサルの彫像数体に王の頭飾りが巻き付けられているのが見つかり、フラウィウスとマルルスの護民官二名がそちらに出向いてそれを引き剥がしたうえ、最初にカエサルを王の称号で呼んだ者たちを見つけ出し、牢獄に引き立てた。民衆は喝采しながらその後を付いていき、護民官両名にブルトゥスと呼びかけたが、それはかつて王位の継承に終止符を打ち、権力を専制君主から元老院と民会に移し替えた人物の名がブルトゥスだったからである。
カエサルはこの一件に腹を立て、マルルスたちから官位を取り上げたばかりか、この両名に雑言を浴びせましたが、それによって民衆にも侮辱を加えることになってしまったのでした。
暗殺
こうして人々の眼は、王政を廃して共和制への変革を成し遂げ、初代の執政官に就任したブルトゥスの末裔とされる、マルクス・ブルトゥスに注がれることになりました。
しかしブルトゥス自身は、専制独裁の打倒という目標に向かって突き進もうとする勢いも、カエサルから受けた栄誉と恩義のために鈍りがちでした。
カエサルはとくにブルトゥスを気にかけていたようで、法務官の中でももっとも位の高いのを与えたほか、執政官就任も約束し、厚い信頼を寄せていたとされます。
すでに暗殺の陰謀が進行していたときのこと、ある人たちがブルトゥスの邪心を訴えても、カエサルはそれに耳を貸さず、自分の体に手を当てて、その人たちに「ブルトゥスはこの身が果てるのを待つはずだ」と答えた。つまり、ブルトゥスはその徳ゆえに支配者たるにふさわしいが、またその徳ゆえに恩知らずの悪人にはならないだろう、と言いたかったのである。
しかし変革を求め、その実行者としてブルトゥスに望みをかけていた者たちは、ますます焚きつけ煽りたてるようになったのでした。
さて、運命の日に元老院議会の場として指定されたのは、ポンペイユスが完成されたポンペイユス議事堂でした。
カエサルが中に入ってきて、元老院議員の面々が表敬のために立ち上がったとき、ブルトゥスの仲間たちのうち、まず数人がカエサルの椅子を後ろから取り囲むようにして立った。そしてそれ以外の者は、ティリウス・キンベルが兄弟の国外追放の解除を願い出るのに力を貸そうとするかのように、進み出てカエサルを迎え、さらに椅子のそばまで付いていきながら、皆で懇請を繰り返した。カエサルは腰を降ろしたあと、嘆願者たちを追い払おうとしたが、なおもしつこく迫られて、相手に怒声を浴びせ始めた。するとそのときティリウスが両手でカエサルの上着をつかみ、喉元から引き降ろした。これが襲撃開始の合図であった。
最初に手を出したのはカスカで、短剣で首を狙ったものの、大事に踏み込むときにありがちな震えに襲われ、死にいたらしめるほどの深い傷を負わせられなかったため、カエサルは振り向いてその剣をつかみ、握って離さなかった。両者が同時に声を上げ、襲われた方がラテン語で「狼藉者、カスカ、何をする」と叫べば、襲った方は兄弟に向かってギリシア語で「兄弟、手を貸せ」と呼ばわった。
こうして事が始まったあと、謀議にあずかっていなかった者たちは震え上がり、眼前の光景に立ちすくむばかりで、逃げ出すことも助けに駆け寄ることもできず、それどころか声を発することさえできないでいました。
一方、計画に加わっていた者たちは、カエサルを隙間なく取り囲み、いっせいに抜き身の短剣を振りかざしたので、カエサルはどこに顔を向けても、眼の前から真っ直ぐに襲いかかってくる刃の一撃を次々に受けるかっこうになり、まるで狩りの獲物のように追い立てられながら、暗殺者全員の手から手へ転がされていった。すべての者が暗殺の実行者となり、犠牲の屠殺に手を下すことが必要だったからであり、それゆえブルトゥスもカエサルの腿の付け根にひと突きを浴びせた。
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死後
カエサルが息絶えた翌日、ブルトゥスが演説をすると、民衆は今回の決起について憤るのでもなく称えるのでもなく、ただ深く沈黙していたといいます。
元老院は全員の大赦と和解を成し遂げるべく、カエサルを敬う一方、ブルトゥスたちにも相応の名誉の授与をもって応じ、最善の縫合策を見つけて情勢は落ち着いたかにみえました。
ところがカエサルの遺言書が開封され、ローマ全市民のひとりひとりにかなりの額の遺産が分与されることが判明し、加えて、葬列が中央広場を通るさい、多くの傷を受けてむごたらしい姿に変わり果てた故人の遺体が衆人の眼にさらされたとき、人々は感情を抑えることも律することもできなくなり、中央広場一帯から腰掛けと柵と机を集めてきて、遺体の周囲に積み上げると、その場で火をつけて荼毘に付した。
興奮を抑えられなくなった民衆は、暗殺者たちの屋敷に火をつけようとしたり、下手人を捕まえて八つ裂きにするつもりで、市中をくまなく探し回りまわったため、ブルトゥスたちは胸中に不安を覚えて、幾日も経たないうちに都を離れました。
結局カエサルの死にもかかわらず、暗殺に関与した者たちは共和政の制度を回復させることは出来ず、事実上帝政ローマの礎を築いた彼の名「カエサル」は、帝政初期にローマ皇帝が帯びる称号のひとつとなりました。
カエサルについてプルタルコスは次のように述べています。
全生涯を通じて、数多くの危機をくぐり抜けながら支配と権力を追い求め、それをほぼ掌中に収めたけれども、そこから得た果実はといえば、市民の妬みの的になった栄光と名声のほかには何もなかった。
まとめ
カエサルはその生涯において、卓越した戦術・戦略眼や決断力、危機への対処力、人心掌握など、数多くの模範を示しました。
彼は大きな野心を抱き、常に未来を見据え、人々の信頼を得て進むことで、数々の偉業を成し遂げました。
『英雄伝』のカエサルは、リーダーシップとは単に戦略を練り、命令を下すだけではなく、部下の信頼を勝ち取り、彼らを鼓舞し、目標に向けて一致団結させる力であり、予測不能な状況や困難に冷静かつ柔軟に対応し、みずから先頭に立ち勇気や大胆さを発揮する、といった総合的な能力であることを物語っています。
こうしたカエサルのリーダーシップは、古代ローマという舞台を超えて、時代や文化を問わず普遍的な価値をもつものであり、現代においても多くの示唆を与えてくれます。
彼の生き様は、単なる歴史的な記述を超えて、私たちが未来を切り拓くための叡智を与えてくれるでしょう。
参考文献
プルタルコス、城江良和訳『英雄伝5』、京都大学学術出版会、2019