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アレクサンドロスのリーダー論

古代マケドニアの王、アレクサンドロス。

その名は、いまなお世界史に燦然と輝き、彼の生涯は人類の想像力をかき立てます。

プルタルコスの『英雄伝』は、彼の壮大な生涯を伝えるだけでなく、その類まれなリーダーシップと人間性を描写する重要な記録として、後世の多くの読者に影響を与えてきました。

「古典に学ぶリーダーシップ」第三回は、『英雄伝』の記述をもとに、アレクサンドロスがリーダーとしていかに人々を導き、歴史を変えたのかを洞察し、現代のリーダー像に通じる叡智を探ります。

(以下、文中の引用は同書より)



青少年期

強い名誉欲

少年の頃、克己心の強さはすでに隠れようもなく、他の事柄へは嵐のような激しさで突き進みながら、肉体的な快楽にかんしてはなかなか動かず、手を出すときもいたって穏やかであることからも、それは見て取れた。

p.11

プルタルコスは、アレクサンドロスには強烈な名誉欲があって、それが彼の志を荘重で高邁なものにしていたと語ります。

足が速かったのでオリュンピア祭典の競争に出てみては、と勧められたときにはこれを断り、運動競技に対しては、特に拳闘や格闘技は評価せず、冷淡であったとされます。

これは名誉であれば何でも良いから手当たり次第に欲しがるのではなく、王としての名誉のみを切実に求めていたことを示しており、自分の中にブレないビジョンがあったと言えるでしょう。

王としての名誉とは、戦争で勝利し支配域を拡大する武勲と名声です。

父であるピリッポスが都市を攻略したり、勝利を収めたりすると、彼は同年輩の少年たちに向かってこうこぼしたそうです。

「すべてを父が先取りしてしまう。僕がおまえたちと世に出る頃には、天下に名をとどろかせるような偉業は何ひとつ残っていないだろう」

p.12

富と快楽ではなく、武勲と名声に一途な憧れを抱くアレクサンドロスには、父から受け継ぐものが多いほど、自分の成し遂げるものが少なくなってしまうと思えたのです。

この少年時代以降、生涯を通して、彼の名誉欲が失われることはありませんでした。

学問好き

ピリッポスの見るところ、息子は力ずくの指導には激しく抗い、けっして譲ろうとしないけれども、理の説くところにはおとなしく従い、正しい方向に進む性質であった

p.15

そこで父ピリッポスは、当時の哲学者のうちで最高の学識をうたわれるアリストテレスを呼び寄せ、アレクサンドロスは彼の講義を受けて倫理や政治、形而上学を学びました。

敬慕を抱いたアリストテレスとは後に離反するようにみえますが、この少年時代を通じて保ち続けた哲学への関心は、後々の行動からも垣間見えるように、消え去ることはありませんでした。

さらに生まれついての文芸好き、学修好き、読書好きでもあったとも記されており、特に『イリアス』を戦いの指南書として好んで、短剣と一緒に常に枕元に置いていたといいます。

それ以外の書物も、遠征中には送ってよこすように命じて、『オイディプス王』で有名なソポクレスやアイスキュロス等の悲劇作品を多数読んでいたとされます。

アレクサンドロスの語ったことには、度々こうした文学作品からの引用が登場します。

彼が知識欲のある教養人であったことは確かであり、当然ながら頭の良さも持ち合わせていたと言えるでしょう。

アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス

勇猛果敢な王

アレクサンドロスの戦い方について目を引くのは、王であるみずからが勇敢に戦うところです。

一六歳のときにはカイロネイアでのギリシア人との戦いに参加し、これまで不敗を誇った神聖部隊と呼ばれる精鋭部隊に向かって先頭に立って斬り込み、勝利しています。

このように戦士として戦う姿は、東征の終盤にまで見出すことができ、これがアレクサンドロスの強烈なリーダーシップの所以になっていることは間違いなく、彼には若い頃からみずからが先頭に立って戦うという勇敢さが備わっていたのです。

さて、アレクサンドロスが二〇歳で王位を継承したとき、マケドニア王国は敵に取り囲まれていました。

この情況に不安を覚えたマケドニア人たちは、新王の取るべき方針として、ギリシアのことはギリシア人にまかせ、力づくの介入をしないこと、また離反しようとする蛮族には穏やかに自重を呼びかけ、反乱の早い段階で慰撫を試みることを進言した。しかしアレクサンドロス自身はそれとは逆の考え方をとり、もしわずかでも気の緩みを見せれば、四方から攻め込まれるという懸念から、むしろ決然たる行動によって国の安全と安寧をまっとうしようと意気込んだ。

p.24

決断についてアレクサンドロスによく見られる点として、周囲の意見に流されることがなく、よく自分の意見を通すことです。

しかもこの自分の意見というものは、常道からは外れたようなものがしばしばあり、それが彼の大胆さを物語ります。

アレクサンドロスには強い実行力も備わっていました。

彼は反抗する王や都市をすばやく攻撃し、逆らう者には容赦せず、そうした相手には徹底的な破壊や略奪を行います。

これは軍の兵站を維持するためにも必要な行為でしたが、惨劇を目にした他の敵を震え上がらせ、おとなしくさせるという狙いもあったようです。

殺戮や破壊といった行動をとる決断をし、それを実行することは、強力な精神力がなければ不可能であり、ある種の人間性に打ち克つ必要があります。

とはいえ、彼もまたひとりの人間として、自分がもたらした惨状に対する意識に苛まれます。

テバイの惨禍についても、伝えによれば、後年のアレクサンドロスは幾度となく思い出しては心を痛め、それがために人々に温情を見せることも多かったという。

p.28

アレクサンドロスが示すリーダーシップには、こうした人間性の克服も含まれているでしょう。


東方遠征期(対ペルシア王国)

気前のよさ

遠征出発の前に、アレクサンドロスは朋友たちの財産を調べたうえで、農地や村、地域や港からの収入を彼らに分け与えました。

この結果、王家の財はほとんど割り与えられて底を突くまでになったので、ペルディッカスは「すると、陛下、ご自分のところには何を残しておかれるのです」と尋ねた。アレクサンドロスが「希望を」と答えると、ペルディッカスは「それでは、遠征のお供をするわれわれにも、その希望を分けていただきましょう」と言って、自分に割り与えられた財産を返上し、他の朋友たちの中にもそれに倣う者が現れた。

p.32

この気前のよさについては遠征の途中にも見られ、彼の特徴のひとつとして数えても良いでしょう。

支配地を拡大していき莫大な財産を手に入れるアレクサンドロスでしたが、そのつど褒賞としてかなりの財産を分け与えてしまいます。

このときも、施与を受け取る者や乞い求める者に与えるので、結局マケドニア領内の手元の資産はほとんど空になってしまったとか。

グラニコス河畔の合戦

アレクサンドロスはヘレスポントス海峡を越え、小アジアに進軍します。

アレクサンドロスの進軍路(前三三四年)

その際に起こったのがグラニコス川の戦いでした。

敵のダレイオス臣下の将軍たちは、この川の渡河地点に大軍を集結させ、布陣を完了させていましたが、そこはアジアに侵入して覇権を握るためには、どうしても突破しなければならない場所でした。

しかし川が深いのに加え、向こう岸が険しい崖になっており、そこへ戦いを交えながら上陸せねばならないことから、マケドニア将兵のほとんどは二の足を踏んでいたし、中には暦の決まりを守るべきだと─ダイオシス月にはマケドニア国王は軍隊を動かさないのが慣例だった─意見する者もあったが、アレクサンドロスは、もう一度アルテミシオス月をやれと言い渡して、この意見を封じた。またパルメニオンからは、時間も遅くなったから今日は合戦を挑むべきではないと引き止められながらも、ヘレスポントス海峡を越えた者がグラニコス渡河を怖れるのは、ヘレスポントスへの侮辱であると言い返し、みずから騎兵隊十三個を率いて川の流れに躍り込んだ。

p.34

ここでも周囲の意見を自分の意見で圧倒して大胆な作戦を実行に移しており、彼が従来の規範に限定されない、革新的な思考の持ち主であったことがわかります。

この戦いにおいてもアレクサンドロス自身の奮闘ぶりが語られます。

渡河の際に真正面から矢を受けつつ、足を取られ押し流されそうになりながら突き進むアレクサンドロスは、分別よりも妄念に動かされる狂った将軍とも見えたといわれます。

グラニコス川の戦いにおける両軍の布陣
マケドニア軍はアレクサンドロスが指揮する右翼が中央に回りこむような形で攻撃を開始している

それでもなんとか川を渡り終えると、目立つアレクサンドロスに殺到する敵を相手にみずからが槍と剣で戦いました。

このとき彼は兜に強烈な一撃を叩き込まれましたが、間一髪味方が駆けつけ助かり、戦いにも勝利しています。

イッソスの合戦

着実に小アジアを征服していくアレクサンドロスに対して、ペルシア王のダレイオスはみずから大軍を率いてこれを迎え撃つべく進軍します。

ところが同じく進軍してきたアレクサンドロス軍と夜のうちに行き違いになり、双方が急ぎ取って返すことになりました。

そこで起こったのがアレクサンドロスとダレイオスの直接対決となったイッソスの戦いです。

アレクサンドロスの進軍路(前三三三年)

このときダレイオスは、狭隘な地に入り込んでしまっていたので、数的不利にあったアレクサンドロスはこの好運を喜びました。

アレクサンドロスが地の利を得たのは好運のおかげであったが、勝利を収めるにあたって、好運によって与えられたもの以上に大きな役割を果たしたのは、アレクサンドロス自身の将帥としての力量であった。ペルシア側の大軍に兵力では劣勢にありながら、敵に包囲の隙を与えず、それどころかみずから右翼部隊を指揮して敵陣左翼の外に出て側面に回ると、先頭に立って攻めかかり、眼の前のペルシア軍部隊を壊走に追い込んだのである。

p.44

このときには腿に剣の傷を受けることになりましたが、続けてダレイオスに向けて突進し、ペルシア王を戦場から逃走させました。

左の騎馬の人物がアレクサンドロス、右で戦車に搭乗しているのがダレイオス3世

王が逃走したペルシア軍は敗走し、アレクサンドロスは赫々たる勝利を収めたのでした。

この勝利は、戦況をみる洞察力、作戦立案の知力、臨機応変な実行力、大軍を前にした決断力、先頭に立って突撃を敢行する勇気、戦士としての優秀さ等、プルタルコスが言うように、アレクサンドロスの将帥としての力量が発揮された結果でした。

女性に対する配慮と自制

アレクサンドロスの自制心の強さを示す出来事として、彼が女性に寛容であり、紳士的だったことも挙げられます。

イッソスの戦いの後のこと、捕虜として連れてこられた中に、ダレイオスの母と妃、それに娘がふたりいました。

自分たちの運命を思って泣き叫ぶ彼女たちに心を揺さぶられたアレクサンドロスは、ダレイオスは死んでいないと彼女たちを宥め、これまでの待遇を少しも減らさず、むしろ以前より多くの給金を恵んだといわれます。

しかし捕虜となった名家の貞淑な女たちに授けた恩恵のうちで、アレクサンドロスの王としての器量を何よりもよく表わしているのは、女たちが無礼な口をたたかれたり、侮辱の影をわずかでも感じたりせず、あたかも敵の陣営ではなく男子禁制の潔斎の部屋にかくまわれているかのように、誰の目にも触れず耳にも入らない生活を送れるようにしてやったことである。

p.46

このダレイオスの妻はどの国の王妃にもまさる麗しい容姿の持ち主であり、娘たちも両親に似た美女でした。

アレクサンドロスは後に、このとき捕虜になったダレイオスの長女スタテイラと結婚する

プルタルコスは、「アレクサンドロスは敵に勝つことよりも己に克つことを王たる者の資質と考え、この女たちに指一本触れなかった」と語っています。

他のペルシアの女捕虜についても、彼女たちは並外れて美しい容貌とりっぱな体躯をしていました。

しかしそんな女たちの艶姿に対して、アレクサンドロスはみずからの自制と克己の美しさを誇示しながら、それらがまるで命を持たない彫像であるかのごとく、その前を通り過ぎたのである。

p.47

ところが、遠征中に厚遇されていたものの、ダレイオスの妃は命を落としてしまいます。

これによりアレクサンドロスは心を痛め、葬儀は費用を惜しまない豪華なものにしました。

王妃の死を知ったダレイオスは頭をたたいて悲嘆にくれましたが、この葬儀を含む、アレクサンドロスの克己と寛容についての話を聞くと、もしペルシアが敗れたなら、王座に着くのは他の何者でもなくアレクサンドロスでありますようにと祈りを捧げたといいます。

自律心

プルタルコスは女に対するアレクサンドロスの自制についての後に、彼の自律心の強さの諸例をあげています。

ある日、配下の長官ピロクセノスからアレクサンドロスに、商人が見目麗しい少年ふたりを売りに出しているが、買うつもりはないかという書簡がとどきました。

これを読んだアレクサンドロスは怒りに震え、朋友たちの前で声を荒げて、いったいピロクセノスはおれのどこにどんな下種の性を見つけて、こんな醜行の斡旋にかまけているのか、と繰り返した。

p.47

当時のギリシア世界では、男性が美しい少年を性的な目的で側に置いておくことがありましたが、彼はそういったものを蔑んでいたようであり、厳しく叱責しています。

食事についても己を厳しく律し、珍しい食べ物を見つけても、朋友のひとりひとりにもれなく分け与えて、自分には残らないこともあったようです。

実は酒にかんしても節度にかけていたわけではなく、宴席が長引くのは十分な間暇のあるときだけだったとされます。

逆に行動すべき時には、他の将軍たちとは異なり、酒も眠りも娯楽も情事も見世物も、アレクサンドロスを引き止められなかった。短い年月に、数えきれないほどの偉大な事績が詰め込まれたこの人の生涯が、その証拠である。

p.49

一方、とくにするべきことがない日には、狩猟をしたり、戦いの訓練をしたり、読書をしたりして過ごしていたそうです。

また、急がない行軍のさいには、移動しながら弓を射る稽古や、疾走中の戦車に跳び乗ったり、跳び降りたりする練習に励んでいました。

こうした語りからは、アレクサンドロスは日常的にみずからの武力と知力を鍛えていたことがわかります。

ガウガメラの合戦

イッソスの戦いの後の二年間に、地中海沿岸地方とエジプトを制圧したアレクサンドロスは、いよいよペルシア王国の心臓部に向かって前進しました。

アレクサンドロスの進軍路(前三三二年 - 前三三一年)

対するダレイオスも国中から軍勢を集め、アレクサンドロスの軍を大きく上回る大軍で一大決戦に臨みます。

こうしてガウガメラの戦いが起こりました。

数で圧倒するペルシア軍は、猛然と攻撃を開始します。

アレクサンドロス軍の左翼を指揮する将軍パルメニオンは、二方面からの攻撃に浮足立ち、伝令を遣って、応援部隊を送ってくれなければ陣営も輜重も奪われてしまうと伝えました。

この要請を聞いたアレクサンドロスは、こう吐き捨てました。

「あの男は正気を失って、頭が回らなくなったらしい。混乱のあまりに忘れてしまったのだ、この戦いに勝てば敵の物資が手に入るし、負ければ手持ちの物や人のことを気にかけるどころか、どうやって戦場で名誉あるりっぱな死を遂げるかを考えるだけだというのを」

p.70

彼は一貫して名誉のことを考え、しかも自軍が劣勢であるとの報告を聞きながらも冷静さを保ち、確かな判断にもとづく悠揚迫らぬ姿を見せています。

アレクサンドロスは自軍の兵たちを鼓舞すると、一匹の鷲が彼の頭上で高く舞い上がってから、敵軍めがけて真っ直ぐに降下しました。

これを見た人々はますます勇気が湧き、互いに声をかけ合い励まし合ってから、敵陣列に向けてまず騎兵隊が駆け出したのに続いて、密集歩兵隊列が波のように押し寄せていった。すると先頭の部隊が打ち当たるより先に、夷狄軍は背中を向けてしまい、ここに激しい追撃が始まったが、その間にもアレクサンドロスは、敗走する敵軍をダレイオスのいる陣列中央に追い込んだ。

p.72

イッソスの戦いと同じように、アレクサンドロスはダレイオスに向かって突進し、戦車の上に立つその姿をはっきりと見て取りました。

ダレイオスに突進するアレクサンドロスの騎兵

戦車の周囲には数多くの麗々たる騎兵が護衛に付き、緊密な隊形を作って敵を迎え撃つ態勢をとっていた。しかしアレクサンドロスの恐ろしい姿が間近に現われたとたんに、逃げ出そうとする兵士が踏みとどまろうとする兵士とぶつかり、隊列のほとんどは砕け散った。

p.72

ここでアレクサンドロスにまたもや伝令の騎兵が入ったため、ダレイオスはなんとか逃げ出しました。

合戦の結果、ペルシアの派遣は跡形もなく崩れ去ったと言ってよく、代わってアレクサンドロスがアジアの王と宣言されたのでした。

この戦いにおけるアレクサンドロスの戦術は、まず彼自身が率いる部隊がペルシア軍の騎兵をできるだけ多く引き付けることで、敵戦線に裂け目を作り出し、そこから中央のダレイオスを直接攻撃するというものでした。

アレクサンドロスは右翼を指揮し、敵の前線と並行してに移動することで敵をそちらに引き付けた。

この戦術には完璧なタイミングと機動が要求され、アレクサンドロスみずからが先頭に立って動く必要がありましたが、結果としては見事にこの作戦が功を奏したわけです。

ガウガメラの戦いでは、大胆な作戦を立て、戦いの最中も冷静さを失わず、自分自身が率先し、好機を捉えて果敢に動くなど、アレクサンドロスの名将ぶりが鮮烈に発揮されているのがわかります。

アレクサンドロスの人柄

プルタルコスは、アレクサンドロスの人柄についていくつかのエピソード交えて語ります。

先に述べたように、人並みはずれた気前のよさはアレクサンドロスの生まれ持った特質でしたが、財産の増えるにつれ、人柄の温かさを伴って、その性向はますます強まりました。

あるマケドニア人兵卒が騾馬の背に王の黄金を載せて運んでいたところ、騾馬が疲労で弱ってきたので、自分で荷物を担いで運び始めた。王は兵卒が重荷に押しつぶされそうになっているのを見かけ、事情を知ると、荷物を降ろしそうになっているその男に声をかけた「がんばれ、道はあと少しだ。背負っていけ、おまえの天幕まで」。

p.82

アレクサンドロスの羽振りのよさはかなりのもので、母オリュンピアスは彼への手紙で「今のやり方では誰もかれもが王のよう」であり、そのうち彼自身はひとりぼっちになってしまうと注意しています。

この母についてですが、アレクサンドロスは彼女には弱い一面をもっています。

母にもたくさんの贈り物を選んで本国に運ばせたけれども、政治や軍事のあれこれには口出しさせなかった。そのことで不満をぶつけられても、母の癇癪をおとなしく耐え忍ぶのがアレクサンドロスの流儀だった。ただし一度、アンティパトロスがオリュンピアスを非難する長文を送ってきたとき、それを一読した王が、一万通の手紙も母の一粒の涙が流し去ってしまうのをアンティパトロスは知らない、と語ったことがある。

p.84
オリュンピアス
アレクサンドロスの東征中、マケドニアとギリシアの代理統治者となったアンティパトロスと反目を続けていた。

アレクサンドロスは遠征中に母と手紙のやりとりをしており、攻略によって得た品々の多くを送ったり、神殿に行ったときにある予言を受けたが、これは帰国後に自分の口から母にだけ教える、と書き送ったりと、母親思いなのがうかがえます。

この母の注意の通り、側近たちの暮らしぶりに奢侈と逸楽と成金趣味が広がっているのも、彼の眼に入るようになりました。

そこでアレクサンドロスはこの者たちを穏やかにたしなめようと、教え諭すようにこう語りかけました。

「不思議だ、あれほどに激しい戦いを幾度となく戦ってきた人間が、辛苦を為す者は辛苦を避ける者よりも安らかに眠れるのを忘れてしまったとは。そして、ペルシア人の生活と自分たちの生活を比べて、逸楽にもまして奴隷にふさわしいものはなく、艱難にもまして王にふさわしいものはないと気づかないとは」「それにしても、いちばん身近な自分の体に手を触れなくなった者に、いったいどうして自分の馬の世話や槍と兜の手入れができるだろう」「勝利の仕上げは、われわれが勝利した相手と同じ事をしないことだと、おまえたちは知らないのか」。

p.84  - p.85

それでは、このように言う彼自身はどうだったのでしょうか。

一方アレクサンドロス自身は以前にもまして身体の鍛錬に精を出し、行軍のときも狩猟のときも、苦難を厭わず危険を怖れずという生活ぶりであった。スパルタから来たある使者は、王が大きな獅子を倒すのに立ち合い、「アレクサンドロス殿、王の座をかけた獅子との戦い、お見事です」と感嘆したものである。

p.85

このようにアレクサンドロスは自己の鍛錬に励みながら、同時に他者に対しても叱咤しているのがわかります。

彼の克己心の強さと臣下を統べる王としての器の大きさがよく示されているエピソードです。

そして、そのようなアレクサンドロスの人柄の根幹にあったのもは何かといえば、それは名誉でした。

自身への批判にかかわる裁判では、正しい判断力を失い、冷酷で無慈悲な人間になったが、それは名誉というものを生命や王権にもまして大事にしていたからである。

p.88

ダレイオスの最期

アレクサンドロスはダレイオスの追跡を開始しますが、その途中、水不足にたたられる苦しい行軍になりました。

そんなとき、革袋に容れた水を運ぶマケドニア兵に遭遇しました。

兵士たちは王が真昼の日差しの中で渇きに苦しんでいるのを見ると、急いで兜に水を満たして持ってきました。

王から誰のために運んでいる水かと問われ、兵士たちは「息子たちのために。ですが陛下がご無事であれば、たとえあの子たちを失っても、あらたに子は作れますから」と答えた。それを聞いたアレクサンドロスは、兜を両手で受け取ったものの、すぐにまわりを見渡し、周囲の騎兵たちが誰もかれも首を伸ばしてこちらを見つめているのに気づくと、飲まないで返した。そして礼を口にしてから、「おれだけが飲めば、あの者たちが気を落とすだろうから」と言った。アレクサンドロスの克己心の強さと器量の大きさを目の当たりにした騎兵たちは、即時の進軍命令を求めて雄叫びをあげ、馬の腹をたたいた。こういう人を王に戴いているかぎり、自分たちには疲れも渇きも起こらない、およそ死とも無縁だ、と信じたのである。

p.89 - p.90

以上の逸話は、アレクサンドロスの自制心と統率力を示す好例としてよく知られています。

こうして士気の高さを回復し、ついにダレイオスの一行に襲いかかりました。

しかし、このときすでにダレイオスは臣下に裏切られ身柄を拘束されており、全身にいくつもの刃傷を受けて馬車の中に横渡って、今にも息絶えようとしていたのでした。

それでも水を所望し、マケドニア人兵士が差し出した水を飲み終えると、次のように言ったとされます。

「ありがとう。おまえのこの親切に報いてやれないのが、わが一生の最後の不運だ。だがおまえへの返礼は、いずれアレクサンドロスがしてくれよう。そして私の母と妻と子供たちを丁重に扱ってくれたアレクサンドロスへの返礼は、神々がしてくれよう。ここに差し出す右手を、あの男に伝えてくれ」

p.90

こうしてダレイオスは事切れました。

まもなくしてその場に到着したアレクサンドロスは、この横死のさまを見て悲しみをあらわにし、着ていた外套を脱ぐと、遺体に掛けてやったといいます。

この後その遺体は、王にふさわしい装いをまとわせたうえで、歴代の王の墓廟に葬られました。

アレクサンドロスの高潔さは、敵をも魅了するのでした。

東方遠征期(さらに東へ)

兵士たちからの信頼

ついにダレイオスは倒し、ペルシア王国を下したアレクサンドロスですが、これまでの激闘ぶりは物語る一文があります。

アレクサンドロスは過去の数々の戦傷に加え、最近では脛に矢を受け、その衝撃で脛骨が折れてはみ出ていたし、さらには首に石弾を当てられ、そのせいで視界が霞んで長い間晴れないでいた。

p.93

それでも彼はその眼をさらに東に向けます。

しかし、ペルシア征討を果たした今、兵士たちがしばらく戻っていない故郷に帰ることを希望して、これ以上の遠征続行を拒むのではないかとの懸念がありました。

そこで彼は次のような呼びかけを行いました。

夷狄たちは今われわれを眼の前にしておとなしくしているけれども、もしわれわれがアジアをかき乱しただけで出ていこうとすれば、たちまちわれわれを女も同然と侮って襲いかかってくるであろう。立ち去りたい者は立ち去るがよい。だがそのときは断言する、アレクサンドロスはマケドニア人のために世界を征服しようとしていた最中に、友人ら遠征を続けようとする者たちとともに見捨てられたのだと。

p.96

この言葉のあとには、兵士たちがこぞって、世界中どこへなりと望む所にわれわれを連れていってほしいと叫んだそうです。

彼がみずから先頭に立って戦いそして実績をあげてきたからこそ、兵士たちは感動し、帰郷がさらに遠のく世界征服という大事業についても、王に厚い信頼を寄せていたために運命をともにしようと決意したのでしょう。

こうして軍勢全体がアレクサンドロスの掌握するところとなり、誰もが先を争うように遠征に付き従いました。

アレクサンドロスの進軍路(前三三一年 - 前三二三年)

生活習慣の同化

ペルシア国を倒して以来アレクサンドロスは、現地の衣装に身を包むことがありました。

これは異民族を手なずけるためには習慣をともにするのが肝要と心得て、現地の風習に同化しようとする狙いがあったのかもしれないと語られています。

こうしたなかでアレクサンドロスは、自身の生活習慣の現地への同化をますます深めていったが、それと同時に、現地の人々にマケドニアの文化を取り入れさせることにも意を注いだ。こうして力の行使ではなく、親愛の醸成によって融和と協同を実現すれば、たとえ自分が遠くに離れていても、安定した統治が続くはずだと期待したのである。

p.96

アレクサンドロスは方針は、従属を申し出てくる相手は拒まず、敵対する相手は武力で制圧するというもので、前者については手厚く扱いました。

これは自分が通り過ぎた後での当地の支配を磐石にしておくためでしたが、加えてマケドニアの文化を取り入れさせることによって、当地の人々をマケドニアに慣らせるという政策もとっていた様子がうかがえます。

彼自身もここで初めて結婚します。

結婚相手であるロクサネはバクトリア貴族の娘で、今後の統治方針に合致するという思惑もありました。

実際、夷狄たちは婚姻による結び付きが生まれたことに安堵を覚え、しかもアレクサンドロスが持ち前のたぐいまれな自制心を発揮して、心を奪われたこの唯一の女にも掟に反する接触を控えたのを知るにつけ、この王への敬慕をつのらせたのである。

p.97

ロクサネは後にアレクサンドロスの子を産むことになります。

このように彼が文化を用いることで、さらには彼自身の素行の良さによって、征服した地における統治の安定をはかっていたことがわかります。

側近の叱り方

アレクサンドロスには、ヘパイスティオンとクラテロスというふたりの主要な側近がいました。

何かにつけて、ヘパイスティオンには最大の愛情を注ぎ、クラテロスには最大の名誉を与えて、ヘパイスティオンをアレクサンドロスの友、クラテロスを王の友と見なし、常々それを口に出してもいた。

p.98

しかしこの2人はというと、普段から反りが合わず、言い争いも一度や二度にとどまりませんでした。

インド遠征のおりには、とうとう双方とも剣を抜いて振り回すまでになり、アレクサンドロスが馬で駆け付けるほどの騒ぎになりました。

このとき王は、人前ではヘパイスティオンを罵倒し、おまえはアレクサンドロスがいなければ一文の値打ちもない男だと自分で分かっていないのか、だとすればおまえは間抜けの大馬鹿者だと声を荒げる一方、クラテロスに対しては、ほかに人のいない所で厳しく叱責した。

p.98

そして双方を引き合わせて仲直りさせてから、自分は誰よりもこのふたりを愛するが、もし再びふたりが喧嘩するのを見聞きしたなら、双方あるいは喧嘩をしかけた方を、死刑に処すると宣言しました。

それからというもの、ふたりは相手に向かってそのたぐいの言葉を発したり行動をとったりすることはなかったそうです。

ヘパイスティオンは、アレクサンドロスとほぼ同年齢で、彼の学友として育てられ、同性愛の関係にあったらしいとされる人物です。

そのため、人前で叱ったのはその絆の深さに自信があったからかもしれません。

一方でクラテロスは、マケドニア兵からの人気が高かった人物だったので、兵の士気が低下しないように人のいない所で叱ったとも考えられます。

いずれにせよ、アレクサンドロスは両者に対しての適切な叱り方を心得ていたのであり、実際にそれが功を奏して、ふたりを仲直りさせることができたのでした。

敵を投降させる術

遠征を続けるなかで、数々の危険がアレクサンドロスに襲いかかるも、彼はその果断さと勇気によって打ち勝ってきました。

勇者に奪取不可能な砦はなく、臆病者に安全な城はないと確信していたと言われます。

それを示すこんなエピソードがあります。

シシミトレスの立てこもる岩山の砦を包囲していたとき、近づくのさえ難しい切り立った崖の上にあるこの砦を見て意気阻喪する兵士たちのかたわらで、王はオクシュアルテスに、シシミトレスというのはどんな性格の男かと尋ねた。オクシュアルテスが、たいへん肝の小さい男だと答えると、王は「するとおまえは、この砦は攻略できると言ってくれたわけだ。中心が堅固でないのだから」と返した。

p.117 - p.118

アレクサンドロスは、難攻不落と見えた岩山の砦に軍勢が接近するための道を造る大工事に着手しました。

工事が進むにつれて不安を覚えたシシミトレスのもとに、ロクサネの父であるオクシュアルテスを遣わして砦の明け渡しを要求したところ、シシミトレスはこれを承諾し、砦の占領に成功したのでした。

また、ニュサという都市を包囲し、包囲されている人々のもとから講和を乞うためにやって来た使者たちに面会したときのこと。

使者たちは、まず王が武具を着けたまま体裁もかまわずにいるのを見て驚いた。続いて王のために座布団が運んでこられると、王は使者たちのうちで最年長のアクピスという人物に、それを受け取ってその上に座れと勧めた。アクピスがこの親切と心遣いに感銘を受けて、自分たちはどうすれば友人として迎え入れてもらえるかと尋ねた。

p.118

さらに、インダス川を渡りタクシラという都に着いたとき、この地の王であるタクシレスに次のように言われました。

「アレクサンドロス、もしあなたがここに来られた目的が、この国から水を奪うことでも食糧を掠めることでもないなら、われわれの間で戦ったり争ったりする必要がどこにあろう。思慮をわきまえた人間にとって、戦いを交えねばならぬ理由は、つまるところこのふたつだけなのだから。それ以外のいわゆる宝物や財産については、もし私の方が多ければ、喜んで恵んで差し上げよう。もし私の方が少なければ、ありがたく恵んでもらう覚悟だ」

p.119

するとアレクサンドロスは気に入ったとばかりに相手の右手を取り、こう応えました。

「あなたはまさか、そのような慇懃な申し出をしておいて、この会見が争いなしに済むと思っておられるのかな。ともかく、あなたに勝ち目はない。私はあなたを相手に、恩恵の遣り取りの競争を最後まで戦い抜くぞ。度量の大きさで負けるわけにはいかないからな」

p.119 - p.120

そして多くの贈り物を受け取りながらも、それを上回る贈り物を施し与え、側近たちを憤慨させる一方で、夷狄の中に忠実な臣下を数多く作り出したとされます。

このようにアレクサンドロスは敵を従属させるにあたり、相手をよく観察して、その人物に合わせた対応をする能力を発揮しています。

こうした対応力は彼にそなわる能力のひとつであり、異民族を統治する上で欠かせない要素であったと考えられます。

ポロスとの戦い

インダス川を渡ってついにインドに対する侵攻作戦を開始したアレクサンドロスは、ポロス率いるインド諸侯の連合軍との決戦に挑みます。

両陣営の間をヒュダスペス川が流れ、ポロスは象部隊を正面に据えたまま、マケドニア軍の渡河をたえず警戒していました。

そこでアレクサンドロスは、まず連日陣営内から大きな騒音と喧騒を響かせ、ポロス軍がそれに慣れて気に留めなくなるようにしておきました。

そしてある月のない嵐模様の夜、歩兵の一部と騎兵の精鋭部隊を率い、敵陣から十分に離れた所まで岸辺を移動して、川中の小さな島へ渡りました。

アレクサンドロスによるヒュダスペス渡河

ところがそこで土砂降りの豪雨になり、川は大雨のために盛り上がって激流となりました。

それでもアレクサンドロスは川の対岸へ渡ろうと試み、鎧を着けたまま胸まで水に浸かりながら流れを渡ることに成功し、さらに駆けつけてきた敵を跳ね返して、敵の本隊を目指して進みます。

一方でアレクサンドロスの渡河を知ったポロスも、軍勢をもってアレクサンドロスに向かって来ました。

両軍の布陣図

アレクサンドロスは[敵陣の前列中央に配された]象部隊と巨大兵力への警戒から、自身は敵の左翼に突進し、コイノスに右翼への攻撃を命じた。ポロスの軍勢はこらえ切れず、両翼とも押し込められるように次々と象部隊の方へ退却を始めて、一箇所にひしめき合う状態になった。

p.122

そこからは両軍入り乱れての戦いになりましたが、ついにポロスは降伏し、アレクサンドロス軍が勝利しました。

その後、捕虜になったポロスにアレクサンドロスが、どんな処遇をしてほしいかと問いかけたとき、ポロスは「王にふさわしく」と答えた。それ以外に何かないかと重ねて尋ねられても、「王にふさわしく。それがすべてだ」と返した。それを聞いてアレクサンドロスは、それまでポロスが支配していた王国を総督(サトラペス)の呼称で統治することを許したばかりか、みずからが征服した自治地域を新たな領土として付け加えてやった。

p.123

ここでもアレクサンドロスの器の大きさを示すエピソードが見られますが、この戦いにおいてはやはり彼の軍事の天才ぶりがよく発揮されているのがわかります。

戦いの要となったのはアレクサンドロス自身であり、渡河の部隊を率いたのも、決戦の際に左翼への突撃を敢行したのも彼です。

重要な場面は自分が率先して引き受けるのがアレクサンドロスのやり方であり、この主導力こそは、その全生涯においてみられる決定的な力であると思います。

帰還と最期

帰還の決断

ポロスに勝利したアレクサンドロスでしたが、この戦いはマケドニア兵の士気を鈍らせ、インドの奥地へのさらなる前進に歯止めをかける結果になりました。

兵士たちは、アレクサンドロスが続いてガンジス渡河を強行しようとするのに頑強に反対したのです。

アレクサンドロスは初めのうち悲憤と落胆のため、幕舎の奥に引きこもって伏したまま起き上がろうともせず、もしガンジス渡河ができないなら兵士たちのこれまでの功績への感謝も消えてしまう、退却は敗北を認めるのと同じだ、と考えていた。しかし朋友たちから理を尽くして諌められ、兵士たちも戸口に立って泣き叫びながら懇願した結果、ようやく折れて撤退を決断した。

p.125

そこからアレクサンドロスは外側の海(オケアノス)を見たいという欲望に駆られ、インダス川本流へ下っていきました。

ただし川下りの間のも戦いをやめて休んでいたわけではなく、ときおり上陸しては町々に攻め寄せ、それらをことごとく服従させました。

エラトステネスの世界図
アレクサンドロスやその後継者たちの遠征から得られた情報を取り入れた世界地図
オケアノスは外側の海すなわち陸地全体を取り巻く大洋のこと

そのうちマロイ人と呼ばれ、インド随一の武名をはせる人々と戦ったときに、危うく命を落としかけました。

このときアレクサンドロスは、まず飛び具を浴びせて敵兵を城壁上から追い散らすと、立てかけた梯子を登って、真っ先に城壁上にたどり着いた。ところがその刹那に梯子が折れ、夷狄たちが城壁の下から射かけてくる矢の標的になってしまったが、それでも身をかがめてほぼ単身で敵兵たちの真ん中に跳び降り、運よく立ったまま着地した。そしてすぐに体の前で武器を打ち振ると、まばゆい閃光の走るのが敵兵の目に映った。

p.126

ここでも先頭に立っている姿がみられますが、ただ先頭に立っているだけではなく、戦士としてものすごく果敢に奮闘しています。

敵の兵士たちはアレクサンドロスからいったん逃げ出したものの、やがて彼のそばには近衛兵がふたり付いているだけなのを確かめると、いっせいに攻めかかってきました。

数人が手持ちの剣や槍で、迎え撃つアレクサンドロスの鎧を刺し貫いたかと思う間に、別のひとりが少し離れた所から弓をいっぱいに引き絞り、強い勢いで矢を放つと、矢は胸甲を打ち破ってあばら骨に突き刺さった。その衝撃に押されてアレクサンドロスが腰を折ったところに、矢を放った兵士が今度は夷狄風の剣を抜いて襲いかかったが、その前にぺウケスタスとリムナイオスが立ちはだかった。ふたりともに刃を受け、そのうちリムナイオスが命を落とし、ぺウケスタスが持ちこたえている間に、アレクサンドロスがこの夷狄兵を打ち倒した。アレクサンドロスは体のあちこちに傷を負ったあげく、最後は頸を棍棒で殴られて城壁にもたれかかりながら、眼はなおも敵を睨んでいた。

p.127 - p.128

そのうちにマケドニア兵が駆け集まってきて、すでに気を失っている王を抱え上げ、幕舎に運び込みました。

マロイ人は降伏しましたが、アレクサンドロスは重傷を負って死の間際をさまよいました。

その後、命の危機を脱したとはいえ、治療と養生の日々が長く続いたため、大勢のマケドニア兵が王の姿をひと目見たいと騒ぎ始めましたが、それを耳にしたアレクサンドロスは外套を身にまとって皆の前に姿を現わしたとされます。

この戦いでは、王でありながらみずから梯子を登って敵地の真ん中に跳び降り死戦するという、何よりもアレクサンドロスの戦士としての勇猛さが際立っています。

インダス河口から西へ

川を下って海へ出るまでには、七ヵ月を要しました。

そこからアレクサンドロスは陸路で帰還することにしましたが、ある砂漠地帯で言語に絶する苦境に陥り、大量の兵士を失って、結局インドから連れて帰れたのは全兵力の四分の一にも満たなかったとされます。

大量死の原因は、悪性の疾病、不健康な食事、焼けつくような熱気、そして何よりも飢餓であった。その辺りに住んでいるのは、農耕を知らず、わずかながらの見すぼらしい羊を飼って暮らす貧しい人々であり、しかもその羊の肉は、海の魚を餌にする習慣のために、まずくて悪臭芬々たる代物だったのである。

p.132

アレクサンドロスはそんな地域を六〇日かかってようやく通り抜けたのでした。

彼は人生を通して、困難な状況で多くの行軍を行ってきましたが、この砂漠地帯の通過は失った兵士の数からいっても最も困難なもののひとつであったと思われます。

インダス河口から陸路で西に向かった

これまでの奥地遠征の危難、マロイ人との戦いで受けた傷、伝えられる兵力の大量損失、それらは各方面にアレクサンドロス生還への疑念を呼び起こし、その結果、服属地域は離反に走り、将軍と総督は不正と強欲と驕慢に陥っていました。

アレクサンドロスは帰行を続けながら、悪事に手を染めた将軍たちを処罰して行きました。

アブリテスの子のひとりオクシュアルテスは、王がみずから長槍で突いて処刑した。アブリテス自身は糧秣の提供を怠り、鋳貨三〇〇〇タラントンを持ってきただけだったので、王はその貨幣を馬に与えるよう命じた。そして馬が口に付けようとしないのを見せてから、「するとおまえの用意した物は、いったい何の役に立つのかな」と言い放って、アブリテスを投獄した。

p.135 - p.136

アブリテスはペルシア王の下で総督の地位にありましたが、進撃してきたアレクサンドロスにすすんで市を明け渡し、引き続きその地位を認められていた人物です。

またその息子オクシュアルテスも総督に任命されていたのでしたが、アレクサンドロスは、そうした恩義にもかかわらず不正を行なった彼らを許しませんでした。

王の生還への疑念に際してペルシア貴族が反乱を企てたことや、将軍たちが不正を行っていたことは、逆にアレクサンドロスの統治力の高さを物語ります。

ペルシスとスサにて

ペルシス地方でまず行なったのは、女たちへの貨幣の贈与であったが、これはペルシア歴代の王がペルシスに来るたびに、その地の女のひとりひとりに金貨を与えたという慣例を踏襲したのである。

p.136

この慣例があったために、王たちの中にはまれにしかこの地を訪れない者もいたと伝えられていますが、アレクサンドロスは持ち前の気前のよさでこれを実行しました。

その後キュロスの墓に行き、この墓の碑銘を読んだときは、その下に同じ意味をギリシア語で刻むよう命じたそうです。

その銘文にいわく「人よ ─ 汝が誰であれ、どこから来た者であれ、いずれ汝の来ることはわかっている ─ 我こそはペルシア帝国の祖キュロス。それゆえ我が身を覆うこのわずかの土地を惜しむなかれ」。この銘文はアレクサンドロスに世の流転と無常を思い知らせ、深い感慨を呼び起こした。

p.136
基壇の上に方形の墓室を置いた、高さ一〇メートル余りの墓は、現在も残っている。

碑銘を通じて、偉大な統治者も死の運命を避けることはできず、人間の有限性や絶えず変化していく無常の事実を知ったことは、アレクサンドロスの哲学的で豊かな感受性を示す逸話とも言えるでしょう。

スサでは朋友たちとペルシア貴族の女たちとの婚儀を執り行ない、アレクサンドロス自身がダレイオスの娘スタテイラをもらいました。

また借金を抱えている者のために、本人に代わってアレクサンドロスが返済を肩代わりしてあげました。

商人からの負債額の申告を、贅沢な生活に溺れている者をあぶり出すための調査ではないかと疑った兵士たちは、当初ためらっていましたが、名前を示さなくてよいというアレクサンドロスの指示を受けて申告に応じたとされます。

このとき、ある兵士が偽りの申告をして返済金を受け取るというできごとがあり、後に詐欺が発覚すると、王は激怒してその者を宮廷から追放したばかりか、指揮権も取り上げました。

しかしこの者がその不名誉をひどく苦にし、自害しかねないようすだったので、アレクサンドロスは心配して怒りをこらえ、金をそのまま取らせてやるように指示したといわれます。

このエピソードは、気前のよさはもちろん、匿名での申告を許可し、さらには偽りの申告をも罰しながらも結果的に許すという、アレクサンドロスの度量の広さを示しています。

兵士たちの騒擾

かつてアレクサンドロスは現地の少年たちを選抜し、彼らに訓練と学習を命じていましたが、この青年部隊が訓練を経て彼の前に見参し、強い肉体と美しい容姿をそなえ、演習では巧みなわざと軽い身のこなしを見せ、アレクサンドロスをおおいに喜ばせました。

一方でマケドニア兵の心の中に、王の気持ちが自分たちから離れるのではないかという不安と焦燥を生むことになりました。

アレクサンドロスがマケドニア人の老年兵や傷病兵を退役させ、故国に送還することを決定したときのことです。

マケドニア兵はアレクサンドロスに訴えた ─ これまで兵士たちをさんざんに使っておきながら、今になって厄介者扱いして追い払い、召集したときとは様変わりした姿で祖国の親のもとに送り返すとは、兵士への侮辱であり暴虐である。それならいっそのこと、マケドニア兵をすべて役立たずとして除隊し、代わりにあの若い剣舞の踊り手たちを遠征に連れていって、世界征服すればよい、と抗議したのである。

p.140

これにアレクサンドロスは激怒し、マケドニア兵に罵声を浴びせたばかりか、衛兵を解任してペルシア人にその役目を引き継がせ、その中から槍持ちと杖持ちの近侍を任命しました。

こうしてペルシア人衛兵が王に付き従い、逆に自分たちは遠ざけられ蔑まれるのを目の当たりにしたとき、マケドニア兵はようやく己の慢心に気づき、考えを巡らすうちに、自分たちが嫉みと怒りのためにほとんど正気を失っていたのだと悟った。そしてとうとう分別を取り戻すと、武具を着けずに衣一枚の身なりで王の幕舎に歩み寄り、泣き叫びながら身を差し出すように、自分たちを恩知らずの不逞の輩として裁いてほしいと願い出た。

p.140
アレクサンドロスの時代のマケドニア軍の基本陣形

こうなるとさすがに王の怒りもやわらいできましたが、それでも幕舎の中から返答はありませんでした。

しかし兵士たちは去ろうとせず、二日と二夜にわたりその場に立ちつくして哀願し、我慢強く総大将の名を呼び続けたところ、三日目になってようやくアレクサンドロスが姿を見せました。

しょげ返って首を垂れた兵士たちを眼にすると、長い間涙を流していたが、やがてほどほどの叱責と深い慈愛の言葉をかけてから、廃兵の除隊に取りかかった。そのさい送還される兵士には多大の賞与をふるまったばかりか、アンティパトロス宛ての書簡に、この兵士たちが今後競技会や劇場で常に冠を着けて前列の席を占められるように指示しておいた。また戦死者の遺児に給付金を与えることも決定した。

p.140 - p.141

アレクサンドロスは、ときには激昂しときには涙する感情豊かな人物です。

この場面では、これまで遠征をともにしてきた兵士たちとの絆の深さが騒擾を通して再確認されたかのようにみえます。

バビロンへ向かうにあたり、アレクサンドロスには不吉な予兆が多くみられたといいます。

城壁の前まで来たとき、たくさんの鴉が喧嘩をしてつつき合い、そのうちの数羽が足元に落ちてきたことや、動物を使った占いの結果がただ事ではなかったこと、飼っていた獅子が驢馬に蹴られて死んだことなど、気がかりな前兆がいくつかあったのでした。

この頃アレクサンドロスは気分が沈みがちになり、朋友たちに対しても猜疑ばかりが先走るようになったそうです。

今やアレクサンドロスは神のお告げのたぐいにすっかり絡め取られ、胸中には不安と恐怖が渦巻いて、何か常とは異なることや奇妙なことがあると、どんな些事であっても、予兆や前触れと解するようになった。その結果、王宮内は供犠と祓いと卜占にいそしむ者たちであふれ、彼らのおしゃべりがアレクサンドロスの心中にいたずらな不安を積み上げていった。

p.146

もともと神託や占いを信じるアレクサンドロスでしたが、今回は不吉な予兆が積み重なってしまい、精神的に落ち込んでしまったようです。

そしてついにそのときが訪れました。

あるときネアルコスたちのために豪勢な饗宴を催し、閉宴後は寝床に就こうといつものようにいったん沐浴を済ませたのだが、メディオスの求めに応えて、あらためて彼のもとへ浮かれ騒ぎの宴に出かけた。そしてそこで夜中から翌日の昼間にかけて休みなく飲み続け、その後に高熱に襲われた。ヘラクレスの盃を飲み干したわけでもなく、突如として背中に槍を突き立てられたような激痛が走ったわけでもないのだが、一部の史家は偉大な劇作品にいかにも悲劇的で感動的な結末を付けるようなつもりで、そんな話をこしらえないと気が済まなかったのである。アリストブロスによれば、アレクサンドロスは燃えるような高熱を発し、激しい渇きにみまわれて、酒をあおった。それから意識がもうろうとなって、ダイシオス月の三十日に息を引き取ったという。

p.146 - p.147

これが伝えられるアレクサンドロスの最期です。

こうした急な死にあたり、アレクサンドロスは誰に後を継がせるか明言しませんでした。

そのため死後、アレクサンドロスの後継者の座を巡って、彼の将軍たちによる数十年にわたる争いがはじまるのであり、統治してきた支配地域は分裂してしまいます。

当時のギリシア人が考える世界の主要部は、ギリシア、メソポタミア、エジプト、ペルシア、インドでした。

これらのほとんどをひとつにつないだ世界征服者がアレクサンドロスなのであり、この偉業をが成し遂げられたのは、彼のこれまでにみてきた能力が合わさった結果として発揮される総合力によってでしょう。

まとめ

アレクサンドロスには、壮大な野心と名誉心、軍事的天才、統率力、勇猛さ、統治力など数多くの能力がそなわっていましたが、同時に人間の限界を象徴するものも見出すことができます。

彼はその生涯において偉大なリーダーに必要な資質を開示してくれるだけではなく、人間が人間を率いるとき、どのようなことになるのかをよく示してくれています。

プルタルコスは次のようにいいます。

私が書こうとするのは歴史ではなく伝記であり、そして人の徳や不徳というのは、必ずしも広く世に聞こえた偉業の中に顕われるわけではなく、むしろちょっとした行動や言い草、あるいは冗談のようなものが、数万の死者を数える合戦やまれに見る規模の戦陣や都市包囲よりも、いっそうはっきりと人の性格を浮き彫りにする場合がしばしばある。

p.4

あくまでも歴史上の人物の性格を明らかにすることがプルタルコスのねらいであり、だからこそアレクサンドロスの姿が臨場感をもって私たちに迫ってくるのです。

この点において、『英雄伝』はリーダーシップを探究するうえで、まさに最適な資料であると言えるでしょう。

それはかつて、ナポレオンが偉大な歴史上の人物の生涯を描いたこの作品を好んで読み、特にローマやギリシャの英雄たちからリーダーシップや統治の教訓を学んだと伝えられていることからも、証されるのではないでしょうか。

アレクサンドロスが築き上げた広大な世界と、その中で示されたリーダーシップの本質は、今なお私たちに多くの示唆を与えてくれます。

彼に学ぶことで、現代に生きる私たちもまた、リーダーとしてのあり方をより深く広い視野で考える機会を得ることができるでしょう。



参考文献

プルタルコス、城江良和訳『英雄伝5』、京都大学学術出版会、2019

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