幸せって何だろう?
「幸せになりたい」とよく思うのですが、幸福ってどういう状態だろうと考えています。とてもハンサムで優しくて稼ぎも良い男性が恋人になってくれた時に幸せだと感じるのでしょうか?それとも憧れていた大企業に入社できた時でしょうか?人はうつろう動物です。その時はとても幸せだと感じていても、次第にそれが当たり前となり、新たな短所を見つけるようになります。いつも幸せでいるには、自分が幸せであると感じるように自分を飼い慣らす必要もあるのかもしれません。今日も美味しく食事が頂ける、雨風を防いでくれる屋根があるなど常日頃、小さな事に感謝をする心が大切です。
でも、モチベーションを上げるためにはその他の要素も必要なようにも思われます。それは一言でまとめると「夢」という名の「希望」とでも言うのでしよか?いくつになっても「夢」を持つことは大切なことです。けれども「夢を叶えたい」という「結果」ばかり追い求めるのではなく、「夢を叶える」ための「経過」を楽しむことこそ大切なのだと思います。例えば私はプレゼントそのものよりも、リボンを解くまでの「経過」の方が好きだったりします。「目的」意識をなくし、「経過」を楽しむことが幸福でいられるコツなのかもしれません。
思い返せば、10年、15年前に世間で言う婚活というものをしましたが、実際は全然楽しくはありませんでした。「目的」が結婚なので、条件だけで相手を選んでいたせいか、今となってはその人達の名前も顔も思い出せないでいます。それを乗り越えて人は幸せになるのかもしれませんが、これが果たして幸福な状態だと言えるでしょうか?よくよく嫌気をさした私は、こんなことをしてまで結婚するくらいなら1人でもいいという結論が出しました(それとも、こういうのは幸福論ではなく、「忍耐力が足りないだけ」とでもいうのでしょうか?友人は皆結婚していて私だけ相手がいないので、ちょっとだけ後悔していますが…)。それに比べてまだ結婚を意識していない20代くらいまでの恋愛は、その人に会いに行くまでの風景すら愛おしく、特に未婚の私にはそれらは生涯の宝物となりました。
旅を思い返しても、サッカラの階段ピラミッドという「目的地」よりも、そこに行く途中で泊まった宿の少年が銀のお盆にトイレットペーパーをのせて持ってきてくれた「経過」の方が思い出深いです。ミャンマーの物売りの少年達とマーケットをブラブラした「経過」も楽しかったですが、私に物を売らなければならない「目的意識」を持った少年達はもしかしたらそんなに楽しくなかったかもしれません…
それから、卒業する「目的」で入学したカレッジよりも、好きなだけ在学しても良い英語学校の方が楽しかったものでした。ガリガリ勉強して試験に受かることが「目的」ではなく、飲み屋に行ってネイティブと話をして英語力を伸ばす「経過」の方が幸せでした。
本も結末を焦って読むよりも、ゆっくりと文体を味わう読書の方が好きです。20代の頃は速読法を習って雑学を豊富にしようと試みましたか、早く読めても楽しくないので諦めました。
個人的には、小さなことに感謝をする心を持つこと、そして「目的意識」は忘れて、飴玉をしゃぶるように「経過」を楽しむことが「幸福な状態」というのではないかと思うのですが、皆様、いかがでしょうか?ポテチを摘みながらまつたりする「経過」を、テクテク歩いてリフレッシュすら「経過」をお楽しみ下さい。