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冬満月

 この秋から、河内長野行脚が続いている・・・河内長野市内から観心寺(足利尊氏が届けさせたという楠木正成の首塚が境内にある)の前を通り過ぎ、金剛山ロープウェイのまだ先。

 40年あまり前、私はこの校区の高校へ通っていた。千早赤阪村/河内長野/観心寺など、今、ウロウロしているこの辺りには、探せば友がたくさん居るはずだ。

 当時、華道茶道部に在籍していた私は、この辺りの廃寺のような小さなお寺でお茶会をしたことがあった。残念ながら当時の私は何の興味もなく、由緒ある鄙びた寺という記憶だけが残り、どこのの何という寺だったかはさっぱり思い出せない。この地をたびたび訪れているうちに、気になって、気になって、どうしても行ってみたくなった。

 仲良くさせていただいていた森林組合で何もわからない無謀な質問をしてみると『楠枇庵(なんぴあん)ではないか?』と教えてもらった。ちょうど、観心寺の裏側にあたるという。

 ちょっとわくわくしながら、甘南備(かんなび)のその寺に足を延ばしてみたが、その寺は立派過ぎた。入らずに帰ろうかとも思ったが、冬の陽があたるもみじのあまりの美しさに誘われて山門をくぐると、そこそこ古いが整備された庭に、静かな佇まいの階段があり興味をそそった。

 燃えるようなもみじに魅せられながら上っていくと、品よく可愛い庵が現れた。パンフレットを読むと、南北朝の動乱を生き抜いてきた『楠木正成』の妻久子が、大楠公・小楠公の死後、敗鏡尼(はいきょうに)と称して隠棲した寺《楠枇庵》のこの小さな庵の名は『草庵』。

草庵

 『草庵』は、廃滅していたものを大正6年に建立したらしい。とても小さなものだが、ほどよく上品で敗鏡尼の気高く聡明なお人柄が偲ばれる。

 中を覗き込むと昔の日本人のミニマリストの基本形を垣間見た思いがした。歴史文献上は少し違いがあるようだが、庵の傍には墓所もあった。

 思惑とは違ったものの、楠母との思わぬ出会いに感動しつつ帰路についた。行く手の先に・・・

 大きな大きな冬満月が現れた。

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2007年11月25日記

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