レディー・ドラゴン セックスレスな妻たちへ
もうどれくらい夫と、していないんだろう?~レディー・ドラゴン①~
もうどれくらい、夫とセックスしていないんだろう?
リビングのカレンダーをじっと眺めていた璃宇は、今日で終わる十月のカレンダーをビリッと破く。頭の中で夫と肌が離れ、どれくらい時間が経つか数えようとしたが、肩こりの時によくあるずっしりと重だるい疲労感に襲われ、止めた。
カレンダーの残りはあと一枚。十二月に五十歳を迎える璃宇は、女として生きる時間がどんどん短くなる気がして、身震いした。気持ちを切り替えようとあたたかいコーヒーを入れ、ダイニングテーブルに座った。
コーヒーは、いつもブラックだ。
少しでもダイエットになるよう、ブラックで飲み始めたのは三十代半ばからだった。それまでは砂糖を二杯入れた甘いコーヒーが好きだった。けれどコーヒーをブラックにしたくらいで、大きく体重が落ちる事はない。これまでも何度か自己流でダイエットにトライしたが、いつも途中でどうでもよくなり止めた。
左手で髪の毛をかき上げ、ふと目線を下に向ける。茶色のパンツをはいた太ももは、むっちりした丸太のようだ。その醜さに慌てて目をそらすと両手でマグカップを包み、ため息をついた。ささくれた指に、艶のなくなった結婚指輪が食い込んでいる。
二十代の頃の璃宇は、すんなりした手足と細いウエストで、モデルのようにスマートだった。いくら食べても太らない七号サイズの体型で、周りの女性達に羨ましがられた。
二十三歳の時から二年間つきあって結婚した四歳歳上の友樹は
「俺、璃宇のように抱きしめたら折れそうなくらいウエストの細い女がタイプなんだ。お前の細い足を広げる時、ゾクゾクするくらいの征服欲を感じる」
とお酒に酔って、トロンとした目つきで告白した。
璃宇は細い自分の手足が彼に巻きつき、愛する男を満足させると知り、頬を赤らめた。女として愛されている、と自信が持てた。
新婚の時は三日に一度、友樹は璃宇を求め、飢えた子どものように璃宇を貪った。
女は愛する男に求められ抱かれると、自尊心が満たされホルモンの分泌も活発になり、心も体も生き生きする。
けれど夫とのセックスで、雑誌に書かれているような「イク」「オーガズム」「恍惚」という感覚はなかった。
彼に抱かれ、何度かその快感の淵までたどり着くことはあった。
ただそこでいつも波が引くように、快感から遠ざかる。
ここで彼の指先があと数センチ下に伸びてくれたら・・・・・・
もう少し前戯を続け、その先にいってくれたら・・・・・・
あ、そこ感じる場所からずれている・・・・・・
そんな不満が何度もあった。
夫の女性経験がそんなに豊富でないことに安心しながら、落胆もした。
けれど妻の自分から、もっとこうしてほしい、と伝えるのは、はしたいないことだ、と思い口をつぐんだ。
いつか夫が自分の体をもっとよく理解し、時間が経つと、快感も深まるだろう、と楽観的に考え期待した。
だから自分の快感より彼の快感を優先させ、体を離したらすぐにグーグー眠る友樹を可愛い、とさえ思った。新婚の頃は。
璃宇は友樹と結婚するまで他の男性とも付き合ったこともあり、肉体関係もあった。
しかし当時はとにかく妊娠しない事だけに気を取られ、セックスで快感を得ることは二の次だった。
「結婚」という公に認められた安全な環境で、存分に快感を受け取って味わえばいい、と考えていた。
今考えると、それは月のウサギだ。
子どもの頃、月にウサギがいるという言い伝えを信じていたように、結婚してセックスをすればイク、という快楽がついている、と思い込んでいた。
月は遠くて手を伸ばせないが、夫の体は手を伸ばせばすぐそこにある。
夫婦のセックスに快楽はもれなくついてくると思っていたが、これも月のウサギと同じ幻想だった。
その内、月のウサギを追いかけるのを止めた。
それは、結婚して一年目のことだった。
「お子さんは、いつ?」
周りの人達に言われ、焦り始めた。
いつの間にかセックスは快楽を得るものでなく、子どもを作るための共同作業になった。
だから妊娠がわかった時、ホッ、とした。
ああ、これで「お子さんはいつ?」攻撃から逃げられた。やっと胸を張って世間並みの夫婦になれた、と思った。
二十七歳で娘を出産後、璃宇は七号サイズから九号サイズに成長した。
友樹は丸みを帯びた璃宇の身体を抱き、ウエストの肉をつまみながら
「これ以上、肉はつけないでほしいね、奥さん」
と笑顔で言った。
「あなたも少し、お腹にお肉がついたわよ、だんな様」
と璃宇も笑顔で返した。
まだ余裕があった。
三十歳で息子を出産すると十一号サイズに成長し、お腹周りがひだのようにだぶつき、ヒップが下がり始めた。
自分の服のサイズや体のたるみに気がつき焦ったが、二人の子どもの世話に追われ、ダイエットする余裕がないほど忙しかった。
まだ若かったし、その気になればいつでも九号サイズに戻れる、と自分の体を過信していた。
夜泣きするゼロ歳児と、手がかかる三歳児を抱えたワンオペの生活は過酷だった。この頃から夫の仕事も忙しくなり、家に帰ってくるのも毎晩十時過ぎだった。
時々、車で一時間弱の実家から見かねた母が来て、家の片づけをしてくれた。髪を切りたい時は子供達を連れ実家に行き、昼寝をしている子供達を母に見てもらった。美容院に行くのがほんのわずかな息抜きで、自分だけの時間だった。
両親も夫もそのまま泊るように言ったが、夜遅く帰る彼にあたたかい食卓を用意したくて、夕方になると母の持たせたおかずと眠くてぐずる子供達を車に乗せ家へ帰った。
それが妻の役割だと信じていた。
家で二人の子供の世話をするのも、実家まで行き帰りするのも、ぐったり疲れヘトヘトになる。
夜ベッドに入り布団に包まれると、三秒でこくん、と眠る。
子供達に絵本の読み聞かせをしながら、気づいたらそのまま寝落ちしたことも何度もあった。
それでも夫が手を伸ばしたら、本当は眠いが断るのも悪いと思い、渋々応じた。そんな時は、とにかく早く終わることだけを願った。
感じる、とか感じない、はどうでもよく、ひたすら睡眠だけが欲しかった。
やがて夫に果ててもらうため、感じていないのに甘い声を出したり、イクふりをする演技だけはどんどんうまくなった。
いつから夫のことを名前で呼ばなくなり、セックスをしなくなったんだろう。璃宇は冷めたコーヒーを手に考える。
それが十一号サイズになった頃からなのか、何がきっかけか思い出せない。ただ季節が夏から秋に変わるように自然にそうなった、としかわからない。
いつのまにか、お互いを名前で呼ばなくなり「パパ」「ママ」と呼ぶようになった。
彼は友樹という名を失い、ただの夫という名の男=同居人=家族になった。
誰かに彼のことを話す時は、「だんなが」「主人が」という呼び方になり、友樹、という名前は消滅した。
同時に璃宇の名前も消え「ママ」「~ちゃんと、~くんのお母さん」「佐伯さんの奥さん」という呼び名が、新しい名前になった。
子供達が中学生になり手が離れると、璃宇は近くのスーパーでレジのパートを始めた。慣れない仕事に疲れ、一人でゆっくり寝りたかった。
それまで夫と一緒に寝ていたベッドのスプリングがきしむことを理由にセミダブルを処分し、シングルサイズのベットを二つ並べた時、二人は完全にセックスから離れていた。
そんなことを思い出し、冷めたコーヒーを口に含むと璃宇は顔をしかめた。ブラックは時間が経ちさめると、苦みが増す。
砂糖を入れるのを止めた時のコーヒーは飲みにくく、喉を滑らず胃がなかなか受け付けなかった。
その時は濃くて苦いエスプレッソなんて飲む人の気持ちがわからない、と思った。苦みも美味しく感じたのは、ずいぶん後になってからだ。
舌は慣れ、胃も慣れる。体は慣れていくものだ。
夫とのセックスがない生活でも、体は慣れる。
今や子供達は成長し、社会人になった娘は家を出て一人暮らしをしている。
息子は県外の大学を選び、家を出た。
二十年前に買った家で夫と二人、淡々とした生活を送っている。
夫はあと少しで定年だ。
璃宇はいくつかのパートを経て、習い事の一つだったフラワーアレンジメントに夢中になり勉強し、講師になった。
今はカルチャーセンターや自宅サロンで教え生徒も増え、外から見たら充実した毎日を過ごしている。
ただ時々足元がスースーするような、心もとない気持ちになる。
迷子になって帰る家がわからなくなったように、泣きたくなる。
その気持ちがどこからやってくるのか、わからない。
それはいつもこうやって一人でいる時だ。
鏡に向かい、白髪を見つけたりシミや皺が増えたことに気づいた時。
お風呂に入る前に、裸になった自分の姿を鏡で見た時。
「もう五十歳だから、当然よね」
あきらめ半分自分に言い聞かせながら、このまま人生を終えていいのか、わからなくなる。
生理も終え更年期、と言われる年ごろになった。
友人の中には「更年期になったら、女としてはお終い」という子もいる。
けれど今の時代、美魔女という言葉もあるように(璃宇はあまりすきではないが)女として生きる寿命は昔より長くなった気がする。
けれど女として生きる寿命が長くなった、ということは、セックスレスの期間も長くなった、ということに璃宇は気づく。
マグカップに一口残った苦いコーヒーを飲み干すと、スマホを手にした。
これまでずっと目を閉じていたのに、なぜ、このところ自分がセックスだの、快楽、だの、という言葉に敏感になったのか璃宇は知っている。
それはネットで、ある言葉を見つけたからだ。
夜眠れずスマホでネットサーフィンをしていた時、「美開女小説」という不思議な言葉を見つけた。何だろう?と思いクリックすると、そこにとんでもないことが書かれていた。
「えっ?!寧々さんが秀吉とsexレス?!
なに、これ?!」
璃宇の閉じていた快感が、子宮の奥底から目を覚ました瞬間だった。
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