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鏡像スケッチと心象スケッチ

 宮沢賢治の『春と修羅』は詩ではなく「心象スケッチ」であるらしい。

心象スケツチ  
 春 と 修羅  
     大正十一、二年

春と修羅

宮沢 賢治. 『春と修羅』 (pp.1-2). 青空文庫. Kindle 版.

 セス観念論(と私が呼ぶもの)によれば、物理的宇宙とは観念構築体である。心象は主観的観念の世界で、物理的宇宙(経験されるもの)は観念によって構築されたある特殊の経験の集合といえる。

 物理的宇宙を描写することは、例えば劇でいう、脚本(観念)を観るか演じられたもの(物理的宇宙)を観るかの差でしかない。
 この脚本には、演じられる以上の文言が書いてあるだろう。ただ、そこに優劣はなく、差異がある。

 さて、世界をテーマに詩や物語を書くとき、観念をみるか、構築体をみるかという選択肢にさして意味はなく、観念をとらえるか否かが議論される。観念をとらえていなければ、それは決して描画ではない。落書きである。(しかしそれにも価値がある)

 この意味に於いて、宮沢賢治は自身の実験的詩作を心象スケッチと呼んだ……かはわからないが、私はそのようにみたい。

 もうひとつ、詩(韻文という意味ではなく、「スケッチ」の意)という形式ならば心象スケッチは成立するかもしれないが、物語(小説、シナリオ)の形式では難題と化してしまう。観念とは、急流の中、岩に当たってぱっと散った水しぶきの、ひとつひとつの水滴のようなもので、とてもストーリーにはできない。

 ならば小説は詩に劣るかと云われれば、そうでもない。

 何故ならばストーリーとは、観念構築体を時間という極めて特殊な舞台でみたもの、を模したもの、である。いわば水鏡だ。実体は揺らめき欠けるが、それは美しいものに違いない。

 大事なのは観念をとらえるかどうかであって(絵を描きたいのならば)、鏡像をスケッチするのか、心象をスケッチするのかではない。

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 ちなみに私はスケッチというより、クロッキーが好き。

 鏡像クロッキー


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