鏡像スケッチと心象スケッチ
宮沢賢治の『春と修羅』は詩ではなく「心象スケッチ」であるらしい。
宮沢 賢治. 『春と修羅』 (pp.1-2). 青空文庫. Kindle 版.
セス観念論(と私が呼ぶもの)によれば、物理的宇宙とは観念構築体である。心象は主観的観念の世界で、物理的宇宙(経験されるもの)は観念によって構築されたある特殊の経験の集合といえる。
物理的宇宙を描写することは、例えば劇でいう、脚本(観念)を観るか演じられたもの(物理的宇宙)を観るかの差でしかない。
この脚本には、演じられる以上の文言が書いてあるだろう。ただ、そこに優劣はなく、差異がある。
さて、世界をテーマに詩や物語を書くとき、観念をみるか、構築体をみるかという選択肢にさして意味はなく、観念をとらえるか否かが議論される。観念をとらえていなければ、それは決して描画ではない。落書きである。(しかしそれにも価値がある)
この意味に於いて、宮沢賢治は自身の実験的詩作を心象スケッチと呼んだ……かはわからないが、私はそのようにみたい。
もうひとつ、詩(韻文という意味ではなく、「スケッチ」の意)という形式ならば心象スケッチは成立するかもしれないが、物語(小説、シナリオ)の形式では難題と化してしまう。観念とは、急流の中、岩に当たってぱっと散った水しぶきの、ひとつひとつの水滴のようなもので、とてもストーリーにはできない。
ならば小説は詩に劣るかと云われれば、そうでもない。
何故ならばストーリーとは、観念構築体を時間という極めて特殊な舞台でみたもの、を模したもの、である。いわば水鏡だ。実体は揺らめき欠けるが、それは美しいものに違いない。
大事なのは観念をとらえるかどうかであって(絵を描きたいのならば)、鏡像をスケッチするのか、心象をスケッチするのかではない。
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ちなみに私はスケッチというより、クロッキーが好き。
鏡像クロッキー
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