女の子はいつまで男の子を待てばいいのか〜『くまみこ』と原作改変について〜
以下は2022年5月にfacebookに友人限定で投稿した記事を修正して再投稿するものです。『くまみこ』完結を記念して。
※なお『君の名は。』のちょっとしたネタバレ(まで行きませんがあらすじバレ)があるので注意!そして『くまみこ』のあらすじバレはまあまあしていると思うので注意。
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「大都会への憧れ」について授業で話をしていたら、『君の名は。』を思い出しました、という感想があった。
『君の名は。』はそんな物語だったかな、と思って見返そうとしたのだが、アマプラには無料では入っておらず。Huluだと視聴できるらしかった。Huluは契約しておらず(うちの家人が契約しているが…)結局見ていない。
ところで<都会ー田舎>の軸で見ると、『君の名は。』は実は古典的なボーイミーツガール物語であることに気が付く。それは、細かく言うならば、「田舎の因習、とりわけ"神"と住民とのあいだの互酬性システムに組み込まれた女子が、その互酬性の円環から外れた世界からやってくる男子によって自由を与えられる物語」である。
この物語の「型」はわりとよくあるように思う。マンガだと『ヒストリエ』や『寄生獣』の作者 岩明均が描いている『七夕の国』などはその典型である。小説だと『雨の日も神様と相撲を』など(マンガ化もされている)。こちらは『虚構推理』などの代表作を持つ城平京が作者である。
これらのタイプの物語では、同じボーイミーツガール物語のジブリ映画『天空の城ラピュタ』などと違って、主人公の男子は女子と旅には出ない。ひたすら、女子ががんじがらめになっているムラの秘密(それは大抵、村人総員でよそ者には隠そうとしている)を暴こうとする。
『君の名は。』は入れ替わりやその他のSF要素(ネタバレになるので書かない)が派手な演出として機能しているので目立たないが、実はこうした古典的な「女の子が王子様に救われる(掬われる)」物語だったりする。
『君の名は。』では、入れ替わりをしていた三葉と瀧の二人は、ある時点で入れ替わりができなくなる。そこからは瀧視点で物語は進む。その理由を調べていくなかで、二人の入れ替わりには重大な「見落とし」があったことに彼は気づく。そして彼は三葉を救うべく、三葉が生活をしているところに向かうのである。
こうした物語の型は何度も繰り返されてきた。若い女性が古い因習によってムラで生きづらさを覚えるというのは、令和の今でも日本で全然あり得ることかも知れない。しかし、いつまで女性(女子)は古い因襲から開放してくれる、男性からの「救い」を待たなければならない存在なのだろうか?
同様な物語構造を部分的に持ちながらも、上記の問いへの答えのヒントになりそうなのが、最近完結をしたマンガ『くまみこ』(吉元ますめ著、全20巻)だ。
このマンガは、人語を解する熊である「ナツ」が神として祀られる東北の村で、そのナツと、同居する中学生の女子のまちとが繰り広げる、ほんわかコメディ(多少ラブあり)である。ナツは誰とでも話せる〜人語を理解できる〜が、一応、他の村人の前ではわからない設定にして振る舞っている。そして村の外には、ナツの存在は秘密とされている(ただその割にはゆるキャラコンテストに出て、「着ぐるみ」設定を押し通していたりする)
まちにはボーイミーツガール的な「王子様」はやってこない。いや、正確に言えば登場する。外界からの男の子が来て、まちは彼のことが好きになるのだけれど、しかし彼はまちを因習村から「救い出す」わけではない。ちょっとネタバレになるが、むしろ、まちの方が彼を救う(ただしそれ以上に多大な迷惑をかける)。
また、主人公のまちは、ムラの因習にも負けない、独りで立ち向かう強い女性なのかと言うと、ぜんぜんそんなことはない。まちは基本的にポンコツである。人見知りは激しいし、パソコンに触るとものの5分で壊れる(なぜ?)。一人で電車も乗れないし、乗ったら乗ったで知らない街にたどり着く(なぜ??)。ちょっとズレている「ざんねん」な子である。そしてまちは「巫女」なのであるが、巫女と言っても特別な能力を持っているわけでもない‥わけでもないことが徐々にあきらかになっていくが、やはりポンコツのまま、なのである。
それでも、まちは多くの人(と熊)たちの助けを借りながら、一歩一歩、成長していく。電車も一駅一駅、たどり着ける距離を伸ばしていく。その成長はとてもとても遅い。それに何巻かけんねん、という感じだ。
けっして強くはない女子が、それでもあきらめず地道に自立しよう、自由を得ていこうとする姿。それに対して誰もが皆、まちを助けてくれるわけでもない。でも冷たい人ばかりでもない。ようするにふつうの「社会」だ。そして彼女はときには(いや、かなりの場面で)後ろ向きな気持ちになりながらも、遅々とした歩みを止めることはない。自身の憧れに向けて、歩いていこうとする、成長(している?いや、している!)の物語。がんばれ、まち。
強くもないが、男の子が救い出すわけでもない。そういう因習村女子(?)の描かれ方が、新たな時代を感じさせるように思う。いやこんな深読みする漫画ではなくて、可愛いまちともふもふなナツがイチャイチャしているのを愛でる、コメディ漫画なのですが。
またさらに言えば、いつも一緒にいるクマのナツはオスだけれど、当たり前ですが人間のまちと「つがい」になることはない。小さな頃から一緒に育ってきた存在の彼は、家族目線でまちのことを見守っている。なおナツは基本何でもできて、最新ガジェットとかにも詳しい。ニンゲンとしてもそうとう優秀。本当にくま?
しかし途中で、一度だけナツが、自分がまちを縛っている、呪いをかけていることに苦悩する場面が出てくる。ナツがそうした複雑な思いを吐露するのはここだけであり、ある種この物語の中で特異な場面でもある。
なぜいきなりこうしたモノローグ場面が出てきたのだろうか。この8巻の初版が発刊されたのが、2017年になる。実はその年の前年の2016年には、『くまみこ』は一度アニメ化されている。おおむね評判が良かったようだが、しかし最後の2話分は大きな物議を醸した。アニメは最後の2話を通じて、原作にないストーリー展開によるエンディングを迎えたからである。
それはだいたい、次のような展開だ。まちは都会(仙台)に出るが、しかし酷いトラウマを抱えて村に戻り、何度もフラッシュバックが襲うようになる。もう2度と村から出ないと言う。そしてナツも、ずっとここにいたらいいと言い、ある意味「共依存」状態になって終わる、というものだった。
もちろん、原作が未完の中でのアニメ化なので、何らかの結末を作らなければならないのはしかたがない。しかしそのアニメ版のエンディングに対して、後味が良いものではない。原作の雰囲気を壊した、といった感想が寄せられたのである。しかもこうしたアニメの展開には、原作者が異例の「あれではまちがかわいそう」という趣旨のコメントを出した。そうして、『くまみこ』のアニメの終わり方は、あまり良くない意味で、大きな話題となってしまったのである。
因習とらわれ系女子の観点から言えば、従来の物語のように男の子が救いに来なかった、自分自身の力で脱出・成長しようとした女の子は、こうしたバッド・エンドを迎えるのだというメッセージを、アニメは(図らずもかもしれないが)表現してしまったことになる。そしてそれは、原作の世界観やメッセージとは、まったく相容れないものだったのだろうと作者のコメントから推測される。
そうした経緯があっての、第8巻の出版。深読みしすぎかもしれないが、原作者としては、まちが違ったかたちで成長する物語にしたいという思いが、このときに強くなったのではないか。それを作品中で表したのではないか、と推察をするところなのだ。だから上記のように、ナツはまるでアニメの結末とは正反対の意思表示をするかのような、セリフをつぶやいたのでは、と。
そしてこのエピソードは、最後に再び、次のようなナツのモノローグが示され幕を閉じる。
ナツは、先のモノローグ場面で、まちに対して「ごめん〜〜〜〜〜〜〜〜ごめん…ごめんね…まち…」と泣く。それは作者の、アニメのまちに対しての謝罪でもあったのかもしれない。
しかしそれじゃあ完結を迎えた原作にて、このナツの思いが伏線回収されるかと言うと、大事件が起こりつつも、それが解決し大団円となる最後の最後まで、ナツは結局最後までまちに対して過保護のままで、「子離れ」せずいちゃいちゃしているだけ笑。おい。でもそれこそが、原作者が大切にしたかった『くまみこ』の世界なのだろう。それを貫いて完結したことには、いち読者としてもとても感慨を覚えるのである。(しかしだからこそ、前述第8巻でのナツの行動・セリフは際立って異色の印象を与えるというのもある)
そして、まちも最後まで、やっぱりちょっとズレたまま、でもちょっとずつ成長していく。それだけ。救い出してくれる王子様は現れないし、彼女はそれを待っているわけでもない。自分でなんとかしていく。
要するに彼女は彼女の物語を生きていく。結局『くまみこ』のメッセージってそれなのかなと。弱くてポンコツで「ふつう」からズレちゃってる人でも気にしなくていいし、誰か(男子)から与えられるのを待つ必要はないし、憧れを捨てなくてもいい。ダメダメで落ち込んでも前向いて行けばきっといいことあるさ。ちょっとずつ、自分自身の物語を作っていけばいい。そういうお話しのマンガが描かれたのは、すごくよかったと思う。新しい女子の物語であったなと思う。
ちなみに『くまみこ』は副題にGirl Meets Bearとついている。そう。女の子は王子様ではなく、クマに出会うのが正しいのかもしれない。