ポンコツさを赦し(ゆるし)あえたら素敵じゃね。
「注文を間違える料理店」というのがある。認知症高齢者などがウエイターしていて、注文を間違えることも含め、楽しんでほしい、そして理解してほしい、という取り組み。一定意義はあると思うのだけれど、限界もあると思っている。
話はちょっと変わるが、ネットでは評判最悪な精神科系のクリニックに好んで通院してる人の話をネットで以前見た。いわく、そこの精神科医はたとえば、患者が「辛いんです」と話すと「僕も辛いんです!」と答えるような感じなのだと言う。まあ、端的に言って、最悪である。メンタルやられて苦しい状態で行ったら、それはちょっと…と思ってしまうのが普通だ。
しかしそこに好んで通院している人がいる。なぜか。その理由は、その医者が自分とおんなじ「ポンコツ」であるから、かえって安心するのだという。
精神疾患、あるいはADHDなどの精神障害(傾向)をもつ人の苦しみは、自分が「こうあるべき」、あるいは「以前はできていた」という自分像と、現在の「できなさ」とのギャップにある。要は自分自身の今のポンコツさを受け入れられない苦しみがある。
ひきこもりなどの若者支援の団体にゼミでお話を聞きに行った時、ある学生がつぶやいた一言を思い出す。「素晴らしい活動だと思った。でもあのスタッフの人には話せない…」というような言い方だったと記憶している。
そのとき訪問した団体の対応をしてくださったスタッフの方は、非常に熱意のある方であったが、理路整然と話すことのできる、頭の回転の速い方であった。そしてその経歴は、有名大学を出て外資系企業に勤めたこともあるというような、非常に輝かしいものであった。学生が言いたかったのは、そのスタッフを前にした時、自分は自分が情けなくなって、余計に苦しくなり、自分のことを相談しようと思えない、といった意味だったのだろう。
もちろん、それはそのスタッフの方が悪いわけでもなんでもないが、しかし学生の気持ちもわかるところがあった。どうしても、自分自身と比べてしまうのである。それが「弱さ」というものなのだ。
先の評判悪い精神科医の場合、明らかにポンコツなのだが、しかしそれに安心する人もいる。驚くべき事実?しかしその理由を聞けば、なるほどなあと思う。同病相憐むではないが、自助グループでお互いの話を聞くことで、それだけで安心をする、勇気をもらえると言うことがあるように、ポンコツ精神科医のほうが安心するという気持ちも、まったく合理的なものであると思う。
ポンコツさを怒るでもなく、面白がるのではなく、安心する。そういうアプローチはこれからの高齢社会でますます「あり得る」選択肢でないかと思っている。
自分が通っている喫茶店で、マスターが耳が遠いお店がある。通い出した当初は戸惑うこともあったが、あるときからこの喫茶店の居心地の良さに気づいた。それは通い続けた「慣れ」(常連化)もあるのだが、自分が「ポンコツ」であることに気づいたことも大きな契機としてある。完璧ではない気楽さ、というのは、それを許せる気持ちがあってこそなのである。
人の失敗や弱さを面白がることは一面で有効で、それは「怒る」「否定する」をひっくりかえして逆の感情として肯定することができる可能性があるのだと思う。だけれど、それだけでは相手と自分の距離は遠いままで、下手したら「馬鹿にする」にもつながりかねない。「かわいそうな人」としてのみ、ウエメセで「理解」してしまうおそれがある。
肯定し、さらには連帯するためには、「赦す」(許す)ことはかなり大事なのではないかと思う。
しかしそのためには「できないこと」や、「弱さ」に注目する必要があって、それは相手のことだけではなく、自分のこともそうなのではないか。自分の弱さを見つめることから、相手の弱さを許すことにもつながる。「注文を間違える料理店」には単純な滑稽さがあるのでなく、哀愁も含んだ滑稽さなのだと理解をできるかどうかが、重要なんでないか。
失敗した?あーわかるわかる。ポンコツでいいじゃん。それもアリだよね。それでみんな楽しいし、そうやって生きていけばいいんだよ。
そういう社会をつくっていく一助として「注文を間違える料理店」があればいいと思うし、ポンコツ精神科クリニックの存在が許されてもいいのだろうと思う。そういう社会に生きたいなと自分も思うのでありまする。
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