無知の科学
私達は、自分の専門分野のこと以外は、ほとんどのことを知りません。
例えば、「水洗トイレの水が流れるメカニズム」のことは知りませんが、それでも生活することが出来ています。
個別具体の詳細を知らなくとも、「トイレのレバーを引けばとにかく水が流れる」といった規則性を理解してさえいれば、多くの場合は問題になりません。
しかし「トイレのメカニズムを知っていて構築・修復できる」という知識は、誰かが知っている必要があります。
これは「知識のコミュニティ」の存在を示しています。
世の中の全ての知識を、人類すべての人々がそれぞれが持っている必要はありません。
コミュニティの中に蓄積された知識があることで、私達の生活が成り立っています。
コミュニティ内に様々な分野の専門家がいて、それらが協力しあうことで社会集団が成立しています。
しかし、普段の生活の中ではそれを意識せずに、あたかも自分自信が多くのことを知っているように錯覚してしまいます。
自分の脳内の知識と、コミュニティ内の知識の境界は、実は曖昧になっています。
自分の脳と外部情報を、連続したものとして捉えてしまいます。
「だから人は頭が良くないよね」という話ではなく、そのように脳が設計されているようです。
実は、自分の脳の内側と外側には、明確な線引きは出来ないようです。
この点について説明している書籍が『知ってるつもり 無知の科学』です。
私達には、多くのバイアスがあります。
あたかも、非常に優秀な誰か一人の頭脳によって社会が動かされているかのように錯覚し、それによって「英雄」も生み出されます。
「英雄」の存在とそのストーリーはシンプルでわかりやすいため、多くの人に受け入れられます。
しかし、知識はコミュニティ内で共有されているという構造を知ることで、世界の捉え方が変わります。
『無知の科学』を読むことで、コミュニティの捉え方が変わります。
思考
人の思考パターンには、if-and-then(もし〜ならば〜である)と呼ばれているものがあります。
これは「因果的思考」とも呼ばれます。
原因が結果を引き起こしている、という考え方です。
人は、他の動物に比べて、圧倒的に「因果的思考」に長けています。
これによって、世界のメカニズムを理解しようとします。
この因果的思考は、大きく以下の2種類があります。
原因から結果を推論する方向(前向き)
結果から原因を推論する方向(後ろ向き)
特に後ろ向きの推論は、人間の特徴です。
前向きの推論はラットなどの実験で観察されていますが、後ろ向きの推論(結果から原因を推論すること)は、人間以外ではまだ観察されていません。
なお、if-and-thenについては、こちらのnoteで解説されています。
ぜひご参照ください。
物語
因果のパターンを伝え合う方法として、物語がよく使われます。
教訓が、逸話・童話・神話の形態をしているように、因果の理解のために物語を作ります。
物語は、存在したかもしれない別の可能性のシミュレーションでもあります。
「もし〜ならば〜である」というシミュレーションを行い、どのような結果が生じるかを検討するために使われます。
因果的思考によって物語が作られます。
物語が共有されていくと、やがてコミュニティの集団的な記憶が形成されていきます。
何かの物語がコミュニティ内で支持を得ると、その因果が支持されることになり、コミュニティの方向性と結びついていきます。
知能
ロボット掃除機は、各部品が独立して動いています。
中央の司令塔が、タイヤやセンサーに対して司令を出しているわけではありません。
タイヤやセンサーは、それぞれがもともと与えられた役割をただこなしているだけです。
かつてのロボットは、中心となる大きなプログラムが、全ての要素を統括するように作られていました。
中心のプログラムが、タイヤやセンサーに司令を出すように設計されていました。
しかし、今のロボットの設計は、各々の要素が独立的に動き、トータルで一つの動きを実現しています。
高度な作業は、シンプルな機能を組み合わせて実現できます。
この考えは、コミュニティ組織における知能の働きにも適用されます。
コミュニティの参加者が、各々独立的に動きますが、トータルで一つの動きを実現しています。
知性
知性はどこにあるかと問われると、通常は「脳」の中にあると考える。
しかし、知性は実際には自分の外に存在している。
すべての物事を、いちいち脳で処理していると、あっという間にリソースを使い切る。
そのため我々は、「このように振る舞うべき」というサインを、処理しやすい形で外部配置している。
例えば道路標識は「ここは見通しが悪いからゆっくり進め」とか「ここは事故が多いから一度止まれ」とか、何をすべきかいちいち考えなくても済むような状況を作り出している。
賢さ
人の賢さは、どのように発展してきたかという問いに対して「社会脳仮説」と呼ばれるものがあります。
これは、複数の人々が強調して複雑な目的を達成するために、知能が増加していったという仮説です。
「ダンバー数」で有名なロビン・ダンバーの調査によると、霊長類の各社会において、集団が大きい霊長類ほど、脳のサイズが大きかったそうです。
コミュニティ内で協業をして社会を築く中で、脳のサイズが大きくなり賢さを見に付けていったのでないか、というものが「社会脳仮説」と呼ばれています。
境界
人は、誰かが語ったアイデアを、いつの間にか自分のアイデアと勘違いするケースがあります。
これは、個人の思考と、集団の思考が密接に絡み合っているための生じます。
実は、個人と集団の思考の境目を意識するのは難しい。
コミュニティ内にある知識を、あたかも自分がしっかり把握できているような気になってしまう。
だが、実際問題、コミュニティ内の知識を暗記していることよりも、その知識にアクセスできることのほうが重要になる。
…と、知識をどのように捉えるのかというお話が書いてあります。
今回、特にコミュニティ視点でどのように考えられるかという点で、内容をピックアップしました。