世襲の日本史

「階級社会」という言葉があります。

社会の成員が二つ以上の階級に分かれ、その間に支配と服従、または対立の関係が存在する社会。

コトバンク

日本の歴史においては、貴族、武士、平民といった階層がありました。

現代日本においては、憲法第14条にて、法の下の平等が原則とされています。

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

日本国憲法第14条

今の日本では、古代・中世・近世における「貴族」のような明示的な社会階級や地位はありません。

しかしながら、日本の歴史の中では、権力の基盤は「地位」ではなく「人」にありました。
そしてその権力は、世襲によって引き継がれていました。

世襲議員という言葉がありますが、彼らは地盤・看板・カバンを世襲することで選挙を有利に進められるといいます。

「人」を超えて「血」、さらに「血」よりも「家」を世襲することが、日本における実質的な社会階層の維持にとって重要なことだと言えます。


2017年の学習指導要領で、鎌倉幕府の成立年が1192年から1185年に変わりました。

1185年:源頼朝が全国に「守護」「地頭」を設置する権限を得た
1192年:源頼朝が「征夷大将軍」に任命された

以前の教科書では、源頼朝の「地位」をベースに鎌倉幕府の成立としていました。
現在の教科書では、源頼朝の実際の権力をベースに鎌倉幕府が成立したとしています。

さらに、この鎌倉幕府の権力が、征夷大将軍という「地位」よりも、「血」によって継承されたことが二代目を見ることでわかります。

源頼朝が亡くなったのは1199年。
頼朝の息子の頼家が征夷大将軍に任命されたのが1202年。

この3年の間、頼家は征夷大将軍でないにも関わらず、実質的に鎌倉幕府の継承者として認められていました。
ここで重要だったことは、頼家は頼朝から「家」を受け継いだ「世襲」だということでした。


中華王朝においては、「科挙」という仕組みがあります。

随に成立した科挙は、官僚の登用制度であり、実力主義の導入です。
それ以前は、推挙が基本であり、そこで推薦されるのは門閥貴族とよばれる人たちでした。

科挙が出来てすぐの随や唐の時代においては、完全に門閥貴族が排除されたわけではありません。
しかし、時代を経て、宋の時代には、科挙を通じた官僚登用がうまく働き、社会階級の固定が解除されていったそうです。

この科挙のような仕組みは、古代日本にも存在しましたが、形骸化し、世襲の重要性を上回ることはありませんでした。


…と、このような世襲という視点で歴史を振り返る本がこちらです。

著者は、東京大学資料編纂所教授の本郷和人先生です。
「やばい日本史」がベストセラーとなりました。

コテンラジオの番外編にもご出演されています。

『世襲の日本史』、まだ4割くらいしか読み進めていませんが、めっっっちゃくっっっちゃ面白いです…!!

コテンラジオの「鎌倉武士」編と「織田信長」編で語られていた、古代や中世の話とリンクします。
コテンラジオのリスナーさんは、特に楽しく読めると思うので、オススメです!

いいなと思ったら応援しよう!