「自由」はいかに可能か

現代の日本は、日本史上、類を見ないレベルでの「自由」な環境だと言えます。

  • 職業の自由

  • 恋愛の自由

  • 思想の自由

  • 表現の自由

もちろん、マイノリティが不自由を感じるという状況は、まだまだ沢山あります。
Xで攻撃を受けたり炎上したりする人がいるように、他人の自由が侵害されるような環境があることも事実だと思います。

それでも過去と比較すると、国民が自らを由来した考えのもと、自由に選択をすることが可能になっています。

自由によって人々は多くの幸福を感じられるようになりましたが…
一方で、自由であるからこそ感じる苦しみもあると指摘されています。

人間は自由の刑に処されている

ジャン=ポール・サルトル

自由であるがゆえに、自分の選択や行動にたいして、自分で責任を負うことになります。

「自己責任」という言葉のもと、すべてを努力不足と解釈する風潮すらあります。

その責任の重圧から逃れるように、自由を手放したいと思う人もいます。

このような、取り扱いが難しい「自由」について、哲学者の苫野一徳さんが論じてらっしゃいます。

自由の代わりに求めるもの

自由の苦しみに対して、いくつかの言説があります。
※良い・悪いではなく、言説があるという話です。

従属化

ひとつの言説は「従属化」です。
※書籍では「奴隷化」と表現されていますが、ここではそこまで踏み込まないです

「自由に生きて良い」と言われても、どのように生きてよいかわからない。
自分が何に向いているのかもわからないし、そんな答えのないことを考え続けるのは苦しい。

そうであれば、決まった作業をただ淡々とこなし続ける方が、よっぽど気持が楽だ。

そのような意識のもと、自由のいくらかを放棄し、なにかの強大な力を持った人物やシステムに従属することを選択する場合があります。

哲学者のエーリッヒ・フロムは、著書『自由からの逃走』において、ファシズムの支配を受け入れた人々の背景には、このような自由であることの苦しみがあったことを指摘しています。

また、哲学者のハンナ・アーレントも、自由であることの苦しみが、ナチズムやスターリニズムのような全体主義を生み出す土壌になっていたのだと主張しています。

動物化

また、別の言説は、「動物化」です。
動物的に、欲望を満たす生き方だけで十分幸せと言えます。

例えば、無限に生み出されるコンテンツを、ただただ消費するだけで、満足を得ることができます。

カウチポテトと表現されるように、ソファーに寝そべってポテトスナックを食べながら動画を長時間みるといった生活をしても、誰にも非難はされません。

自己実現欲求や承認欲求のような、人間だけが持つ欲望の達成には、ものすごい「めちゃくちゃ頑張る」ことが必要です。

ジャン=ジャック・ルソーは、著書『人間不平等起源論』で、地位や名声のような新たな「欲望」と、それを達成できない「能力」という不均衡が、不幸や不自由の原因となっていると指摘しています。

ここで能力をあげることにリソースをさくのではなく、すぐに実現可能な欲望を満たすことにリソースをさくことで、幸福感を得るという選択をする場合があります。

他者の尊重

フランスの思想家のエマニュエル・レヴィナスは、「他者の尊重」は自由の必須条件であるという旨の話をしています。

歴史上、様々な凄惨な出来事が、自由を理由に正当化されてきました。

例えば、列強の経済活動の自由のために、多くの地域が植民地化されてきました。
そのために、多くの命が失われました。

レヴィナスは、自由ということを理由に、自由そのものを正当化することはできないといいます。
自由であることは、他者に対して無限の責任を負ったときにだけ成立すると言います。

行き過ぎた解釈をするなら、「自分の自由を放棄してでも他者を絶対的に尊重せよ」とも言えるでしょう。


これらの言説の、いずれかの選択を取ることはまさに自由ですが…

そもそも自由とは何なのかを、苫野さんは書籍『「自由」はいかに可能か』の中で語り直しています。

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