色つきの日々(年の瀬に思うこと)
前回の記事(購入してくださった方、本当にありがとうございます)が暗かったから明るくしよう!
…というわけでもないのだけど
転勤でメンタルめためたにやられてた上半期とか、離婚にまつわる負の感情がリバウンドしてた秋ごろに比べると、いまは本当にすごく元気だ。
私は精神的に落ちるととにかく買い物をしまくる癖があるのだが、いまネットの購入履歴を見たら11月12月は実用品(水、ボディソープ、小さめの包丁、スノーブーツ、職場用の膝掛け)しか買ってない。えらい。
…あ、あと掃除機が壊れたのでボーナスでダイソンを買った。これも実用品だからえらい。(?)
認めたくないけど、やっぱりBさんによるところが大きいと思う。
連絡がないときのモヤモヤや些細なフラストレーションも含めて、日常に異性がいるってこういうことだよな、と久しぶりの感情を味わっている。
私が好きな江國香織さんのエッセイ『いくつもの週末』に、こんな一節がある。
誰かと生活を共有するときのディテイル、そのわずらわしさ、その豊かさ、一人が二人になることで、全然ちがう目で世界をみられるということ。
私個人に関して言うならば、大切なのは夫が男の人だということだ。だから生活が色つきになった(思うのだけれど、誰かと暮らしたいのなら同性の友達と住んでもいいのだし、愛し愛されたいのなら、犬や猫を飼う方が簡潔かつ確実だ。ただ、男の人と住むと生活が色つきになる)。
「生活が色つきになる」という表現が本当に言い得て妙。
恋をしたからバラ色とかピンク色とか、そういうことじゃない。単に色つきなのだ。
これは江國さんの結婚生活についてのエッセイで、私は結婚しているわけでも同棲しているわけでも、なんなら付き合っているわけでもないのだけれど、Bさんと「生活を共有」している感覚は少しだけある。
住んでいる町に会社以外の所属コミュニティがなく、閉じた生活をしている者同士だからだと思う。他に逃げるところがない、というか。
Bさんの存在がある生活は確かに、ひとりで過ごすよりもずっと「わずらわし」くて「豊か」だ。
すっぴんでボーッとしていた休日にいきなり連絡が来て、大慌てで着替えて顔を洗って化粧しているときとか
平日の夜会えることになって、残業中の同僚とのおしゃべりを切り上げたいけど「約束がある」とも言えず(この町に同僚以外の知り合いはいないはずなので)うやむやに誤魔化して帰るときとか
歩いていても手を繋いでくれないので、強引にBさんのコートのポケットに手を入れてみるときとか
一緒に寝ていて夜中にふと目が覚めてしまい、普段ならYouTubeを見るけど音を出すわけにいかないからそっとツイッターを眺めるときとか
いつものように何の名残惜しさも見せずさっさと帰ってしまって、私だけ家にぽつねんと取り残されたときとか
Bさんが散らかして帰った部屋を片付けているときとか
LINEの通知が来て、ドキッとして見たら全然ちがう人からだったときとか
ふるさと納税のサイトで、ついつい「Bさんと一緒に食べられそうな鍋セット」を見てしまっているときとか
Bさんの家のトイレや洗面所にちゃんと手拭き用タオルがかけられていることに感銘を受けつつ、でもいつ替えたものか分からないので使うのは遠慮しておこうと思うときとか
朝の出勤前、めちゃくちゃバタバタしてるし家も散らかってるのにベッドはちゃんと整えている姿を見たときとか(タオルの件といい、根本的に育ちが良いんだろうなと思う)
何時間も経ったあと、自分の髪の毛からBさんの柔軟剤の匂いがしたときとか
無彩色だったひとりの生活が、Bさんのおかげで良くも悪くも色つきになった。
で、なんだかんだ言って私は楽しいんだと思う。
この曖昧さもモヤモヤも全部含めて楽しいのだ。
きょう帰省して、人でいっぱいのタリーズでこれを書いている。
東京は冬晴れで、暖かくてまぶしい。雪の降る暗い町で、Bさんの体温を拠りどころに生活していたのがすでにフィクションみたいに思える。
Bさんも今ごろ関西の実家に帰っているはず。
私があの世界に戻るとき、彼も同じ場所にちゃんと戻ってきてくれたらいいなと思う。