翠町こぼれ話(集落の話の聴き手だより8月号)
北沢の大石棒(だいせきぼう)
翠町に住む倉澤治貴さんは大石棒の所有者である。今は、茂来館のガラスケースの中に横たわって、展示されているが、令和4年の秋までは、治貴さんの田んぼの畔に立っていた。治貴さんの祖父茂七さんが北沢川の川底から引き上げて、田んぼの畔に置いた。縄文中期後半に作られたもので、全長2.23メートル、重さ330キロで日本一であることが後に分かった。
「じいちゃんは、大石棒を見つけた時、神々しさを感じたのだろうか、子ども(伊重さん)に、『あれは、ののさん(神様、仏様のこと)だから、大事にしろよ。』と言っていたそうだ。」
縄文中期後半とは、今から約5400年から4100年前の時代である。悠久の世界のことと思われるほど、はるか彼方の遺物が高野町で発見されたことだけを考えてもロマンを感じさせる。“どうして北沢川にあったのか”、“どこから流れてきたのか”、“5000年の間、何を見てきたか”、“縄文人はなぜ、石棒を作ったのか”、“縄文人は何を願ったのか”、、、想像は尽きない。
「子どもの頃は、関心がなかった。中学生の頃だったと思うが、新聞に取り上げられたりして貴重な、石棒が日本一だと知ったのは。」と治貴さんは言う。
その後、新潟大学がこの石棒のレプリカを作りたいと形取りをしたり、テレビにも取り上げられた。その後、旧佐久町時代に文化財に指定されたりしたが、地元ではこの石棒のことを知る人は少なかった。しかし、この2,3年前から佐久考古学会の専門家たちが、この日本一の石棒を保存し、守っていきたいと表明したことで、脚光を浴びることとなった。
「私は以前のように田んぼの畔に立っていて欲しかった。約5000年の間、厳しい環境にさらされながらじっと耐え抜いてきた。これから先も風化していくけれど、それも運命でないでしょうか。若い夫婦が石棒に触ったり、手を合わせたり、何かをお願いしているのだろうか。そんな光景をいくどともなく見てきた。縄文人もそんな祈りを込めて石棒を作ったのではないだろうか。どこか神秘的で、ロマンを感じさせるんです、石棒を見ていると。」と治貴さん。
祖父の茂七さんから父親の伊重さん、そして治貴さんまで代々守ってきた石棒に対する敬いの念と愛着を感じさせるお話でした。
文 西村 寛
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