海瀬新田と人の暮らし(集落の話の聴き手だより10月号)
佐久穂小・中学校の南側にある集落が海瀬新田である。歴史は古く、17世紀までさかのぼる。久留間百合子さんにその集落を歩いて案内してもらう。県道をしばらく歩くと、歴史を感じさせる建造物を見つける。
「これは御制札と呼ばれ、江戸時代から明治初期まで使われてました。法令や通知を掲示したようです。脇にある石祠も江戸時代に建立されたものらしいです。」
千曲川沿いの道には畑が続く。「このあたりにホタルが戻ってきたので、夏の楽しみが増えました。」と、百合子さんは言う。
島﨑徹夫さんは、生まれも育ちも海瀬新田。一度も外に出たことがない。初めて徹夫さんに会ったのは、月一回公民館で行われる健康マージャンの時である。
「若い時は、友達3人いたので、毎晩麻雀をやったもんです。それしか楽しみがなかった。冬場なんか外に出ると、雪が降ってるので、朝までやらずいと言って夜通しやったこともあります。今はそうゆう遊びもなくなりました。『昭和は遠くになりにけり』です。」
徹夫さんは家が学校に近かったせいで、寄り道もせずに家に帰って来たそうです。
「子どもの遊びで覚えてるのは、本家の下屋の下でビー玉やパッチンをしたことぐらい。あとはどんど焼きのことかな。大人たちがカラ松の太い木を切り出してやぐらを組み、子どもたちはリヤカーを引きながら各家の前に出ている松飾を集めて回りました。どんど焼きの残り火でお餅を焼いて食べると、その年は一年中風邪をひかないと言われたことを覚えてます。夏はアイスキャンディー屋が自転車で売りに来たので、お袋がよく買ってくれました。自転車といえば、納豆屋のおばちゃんが『ナット―、ナット―』と掛け声をかけながら売りに来てました。親父が左官屋だったので、お袋が水田と蚕の世話をしていた。手伝いをした記憶が無いのは、一人っ子で大事にされてたのかもしれない。」
徹夫さんは、月一回の健康マージャンをやりに公民館に来るのが楽しみだという。長生きの秘訣は、『憎まれっ子世に憚る』だなとニコニコしながら答えてくれた。
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嶋﨑昭彦さんは、教職の仕事を千葉県でスタートさせ、35歳の時、地元に戻り定年退職まで勤めた。
「小学生の頃は、近所には20人くらい子どもがいて、公民館前の庭で鬼ごっこしたり、三角ベース野球をしてました。その頃は、千曲川東側は堤防が無く、川幅は広かったです。その河川敷は砂地で、みんなで川遊びをよくしてました。千曲川の水は綺麗で飲める程でした。その後堤防ができたので、大規模な区画整理をして田んぼにしたのを覚えています。田んぼにするために、掘り返すと大きな石が出てくる。大人たちは石の周囲を掘り起こし、全体が出てくると石屋が来てその大きな石をきれいに割るんです。その手際の良さびっくりしました。」
「新田は、小学校が近かったので、寄り道した覚えはありません。ただ、友達と山に行って、ターザンごっこをしてました。テレビの影響だと思います。夕方になればテレビを見に集まってました。家は農家だったので、米、菊、リンゴ栽培とその手伝いばかりしていました。」と、昭彦さんは当時の思い出を語ってくれました。
中学の教員をしていた昭彦さんは千葉県から長野県に戻って最初の赴任地が依田窪(長和町、旧武石村)だったが、すぐに地元に戻り、教員を続けた。
「私たちも忙しかったが、なぜか心に余裕がありました。だから教員を続けられたと思います。それに学校と地域が生活を土台にして結びついていました。お田植え休みや稲刈り休みがあった時代です。子どもが家の手伝いをするのが当たり前で、学校にも協力的だった。」
新田はまとまりが強い集落だと聞いていたので、このことを昭彦さんに尋ねると、「年齢の近い子どもたちが20人もいれば、大人になっても何かあれば集まってくれます。うちのおばやん(昭彦さんの母親のこと)たちはよくお茶会をやったり、みんなで大正琴を習ったりしてました。時代が変わっても集まり事は継続していこうと思っている人が多いのは確かです。『健康マージャン』もそうですが、8月4日の日曜日に『ビール祭り』をやりました。去年から始めたのですが、今年は40人くらいが集まりました。特に子どもたちが大勢来てくれたのが良かった。この後、『リース編み』と『しめ縄づくり』も予定されてます。子どもの数が増えて15人いますので、活気があります。まとまりの強さを生かした様々な活動ができればいいなと思ってます。」と、昭彦さんは楽しそうに語ってくれた。
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嶋﨑敏彦さんは海瀬新田の分館長です。
「昔は近所付き合いがあるのが当たり前でした。それを復活させたいという気持ちを持っていたので、気軽に集まれる場所を作ろうと思ってました。手を動かし、頭を使う麻雀がいいかなと思った時、町の広報誌で、プロの麻雀士が佐久市に住んでいることを知り、今年の1月から3回指導してもらいました。初心者が10人も集まったので、4月から第三日曜日、午前10時から12時までの2時間限定の健康マージャンがスタートしました。」
海瀬新田では、ビール祭りが再開されたそうです。コロナ前にビール祭りを開催して、好評だったことから、昨年再開したところ、50名(大人、子どもを含む)ほどが集まったそうです。敏彦さん曰く、「新田は34軒の小さな集落で、まとまりやすい規模だからできたと思います。」
「子どもの頃の話をすると、新田には1年生から6年生まで25、6人いました。私は同級生はいませんでしたが、一つ上や一つ下に5、6人いましたし、高学年の子どもは面倒見が良かったので、よく遊んでもらいました。公民館の狭い庭で三角ベース野球や陣地取りをして遊んだもんです。家の中で遊んだことはなかったと思います。昔は季節保育園というのがありました。春のお田植え休みと秋の稲刈り休みの時だけ、中央小学校の体育館に年少、年中、年長の保育園児がぞろぞろ連れ立って行くんです。そんな環境で育ったせいか、子ども同士の繋がりは強かったです。」
現在、敏彦さんは果樹園を営んでいる。退職後に始めて9年目だと言います。40アールのリンゴ園と20アールのプルーン園を所有している。両親が田んぼとリンゴ園をやっていたので、子どもの頃から農業を手伝っていたそうです。
「農業は継ぐもんだという意識を持ち続けたから、今の自分があるのだ。」と、敏彦さんが話してくれた。
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土佐谷享さんは、静岡県出身。2015年、海瀬新田に移住してきた。農業協同組合の職員として13年間勤務した後、有機農業者として独立。現在、トマトをビニールハウス4棟使い栽培している。生食用として主に出荷し、形の悪いものなどをジュース加工している。県の新規就農里親研修制度を利用し、2013年から2年間は川久保に住み農業研修員として熟練の有機農家から栽培を学んだそうだ。
佐久穂町で農業を始めたきっかけは、大学農学部の同期が下海瀬で有機トマト栽培をしていたことと農業をやりたいという強い思いがあったという。
「私たち夫婦はラッキーでした。農地だけでなく住む家も町の農協さんの紹介ですぐに見つけることができました。海瀬新田の皆様には親切にしていただき、快く受け入れてもらえましたので、地域に溶け込む不安はありませんでした。それに隣家に住む同年代の人から消防団に誘われて入りました。消防団には同年代で異業種の人たちがいたので、いろいろな話を聞くことができましたし、地域の結びつきの強さを実感しました。好奇心は持っている方だと自分でも思っているので、道普請に出役した時に、周りの方々から聞く昔話は面白かったです。」
「トマト栽培は、1年中休むことはできません。好きで始めた仕事なので、苦にはなりません。私の個人的な思いですが、トマトが上手にできたときの喜びは何物にも代えられません。もちろん、良いことばかりではありません。毎年課題が見つかります。それをどう克服するかを考えて農業をしています。私たちの目指すところはあまり環境に負荷をかけないスモール農業です。環境負荷低減を実現するためにいろいろチャレンジしていくことは楽しい。好きなんです農業が。」と、語ってくれた。
文責 西村 寛
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