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のどかな田園風景が広がる集落 川久保(集落の話の聴き手だより8月号)

のどかな田園風景が広がる集落 川久保

話し手 宮川 邦夫さん 
宮川 勝子さん 
佐藤 精栄さん 
佐藤 えみこさん
竹内 達朗さん 
新海 広さん  

 佐久穂町の東側、町役場や茂来館にも近い、川久保地区。のどかな田園風景が広がる集落です。近くを余地川と抜井川が通り、穏やかな風が吹く川久保集落センターで、お話を伺いました。


子どもだけで開催する一大行事、“獅子舞”、“どんど焼き”

川久保の風景

 川久保集落センターは分教場跡ということで、まずは子どもの頃の思い出からお聴きしました。川久保では冬場の一連の恒例行事は子どもだけのお祭りとして、準備から終わりまで全て小学生が取り仕切るものだったそうです。

 秋が深まり、家々の田畑の収穫が終わる12月頃になると、子どもたちはワクワク胸を躍らせました。高学年は日暮れになると親方(6年生)の所へと集まり、藁紐わらひも作りや獅子舞の練習などの子どもだけ(男子だけ)の時間を過ごします。

 各常会の親方をトップに、1~5年生それぞれの持ち回り分担があり、年下の子たちへの指導も全て子どもの組織で行われました。どんど焼きのために必要な大木も許可を得て子どもたちだけで伐採し、何日もかけて引いてきたというエピソードには、驚きです。

 「小学生たちが(向原の栃久保地区から)木を切って、運んできただ。1回じゃ山から持って来れねから、途中で置いておいて、次の日曜日また行って、2回か3回でやっと引きつけて(引っ張って)きただよ。(やぐらを)たてるのもね、親には手伝ってもらわない。子どもっきりで、ちゃんと組んでね。」と、親方を経験された邦夫さん。やぐらが完成したら、それを他の常会の子たちに崩されないように、当日まで見張り当番で泊まり込んだそうで、これもまたビックリです。

 年始になると、獅子舞で数日かけて歌って踊ります。今まで練習した成果をここでたっぷりと披露したら、大人たちから、おひねりをもらえました。

 1月7日のどんど焼きでは、やぐらを燃やし、燃え残った薪や炭を売って歩きました(火付けに重宝されたそう)。

 「集めたお金をみんなに分配し、それを小遣いにしたんだ。地域のお祭りの出店で、お菓子や玩具を買うのが楽しかった。」と、前年の聴き取り時にもお話して下さったのが、印象的でした。

 川久保地区の特徴は、4つの常会がある程大きな集落であることです。獅子舞、どんど焼きも常会ごとに分かれて活動していたため、獅子舞の歌や踊りも全て異なるものでした。戦時中に、それぞれが統一されて引き継がれたものの、現在はテープで録音された歌を流し、それに合わせて歌っていると話してくださいました。

 時代とともに子どもの人数が減ってしまったとはいえ、子どもが主役のお祭りは今なお続いています。特色ある地域の伝統が大切に守り続けられていることが、みなさんの誇りです。

いつの時代も楽しい、学校帰りの寄り道

 分校には2年生までの児童が通い、3年生からは本校(佐久中央小学校)へ通いました。川久保から本校までの道のりは、約2km。子どもの足でも、30分程で行くことができましたが、帰り道はたっぷり1時間かけて、道草をしながら帰ったそうです。

 勝子さんは通学路の畑ヶ中で、よく桑の実を食べたと懐かしそうに話してくれました。えみこさんのお子さんが小学生の頃も、清水が湧いているところでサワガニを捕ってくるから、毎日運動着が真っ黒だったと笑います。どの時代も、やっぱり道草は楽しいのでしょう。それにしても、当時の豊かな自然が感じられるエピソードです。

 広さんも、「畑や木になっているものを子どもが採っても、今ほど大事おおごとにはならない、そんな時代だったよね。」と語ります。みなさんの年代は違っているのに、地域の中で子どもたちが過ごす柔らかな空気感が同じく伝わってきます。

魚屋さんの厳しい冬と、鯉のあらい

佐藤さんご夫婦の営んでいた魚屋さん。お店の前のリアカーを引いて余地の方まで行商にも行きました

 精栄せいえいさんが持ってきてくださった何枚かの昔の写真には、えみこさんと共に営んでいた魚屋さんの写真がありました。

 「昔は川んとこに池(いけす)を作ってあってね。冬になれば凍るから、つるっぱしで氷を割ってね。年末になれば、鯉を100kgくらい売ったよ。(業者が)大きいのばっかり送ってよこすでしょ。骨が硬いから大変だったよ。」と精栄さん。

 「お店の中に池があったんだよ。」とえみこさんも付け加えます。

 年末になると、たくさんの人がお店に鯉を買いに来ました。また、自宅で育てた鯉をお店に持ち込みさばいてもらったり、あらいにしてもらったりすることもあったそうです。えみこさんは、「あらいって言われると、冬は(寒くて嫌だったから)う~ってなった。」と、苦笑い。あらいは、鯉をお湯に通した後に流水でしめるんだそうです。

 子どもの頃は、どの田んぼでも鯉を飼っていて、秋の収穫にはそれを食べることができました。当時は魚を食べる機会も少なく、楽しみだった、と話すのは邦夫さん。

 「ずっと昔は、(鯉を)売りに来たんだよ。“鯉の子”っつってね。それを、入れ物持って買いに行くわけ。200匹くらい買って、田んぼのあちこちに少しずつ入れる。秋になると、それが10㎝くらいになるから、それを開いてさ。いろりの火棚へ刺しといて。お正月には、それを煮て(食べるんだ)。」

 精栄さんにも伺うと、“鯉こく”にするのは3年ほど育てた鯉なんだそう。田んぼで育てた鯉は保存食にしていました。

昔はよく食べた、“おざら”、“すいとん”、“こねつけ”

お話を聴かせていただいたみなさん

  鯉から広がり、昔の食文化についての話題に。一番変化したことは、お米がたくさん食べられるようになったことなんだそう。

 「お米も水田も、もっと少なかった。戦後の開田で、桑畑や畑だったところが田んぼになったから。昔は1年中(お米を)食べられる家っていうのは、あんまりなかったんだよ。」と邦夫さん。

 当時は収穫量が少ないだけでなく、家族の人数も多かったので、なかなか満足にお米を食べることができなかったようです。

 そこで、よく食べられていたのが、小麦料理。畑で作った小麦を水車で粉に挽いて、1日に1度は小麦料理を食べていました。今までの聴き取りの中でも、“おざら(うどん)”を食べたというお話をよく聴いたのですが、こういう訳なのかと腑に落ちました。

 川久保のみなさんも、“おざら”、“すいとん”、“こねつけ(残ったご飯、小麦粉をよく混ぜたものを一口大にして揚げ、砂糖醤油をつけたもの)”などを食べていたそうで、勝子さんは今でも時々“皿焼き”または“せんべい焼き(ニラやキャベツなどの野菜を小麦粉に混ぜ、焼いたもの。チヂミに似ている)”を作るそうです。

 「勝子さんの皿焼きは美味しいのよ!」と、えみこさんはにっこり。皿焼きは、小さく切って田んぼ仕事のおやつとしても持って行きました。

 今と比べると決して裕福ではない時代のお話でしたが、暮らしの中にも、様々な子どもたちの楽しみがある様子をお聴きすることができました。今回お話を伺ったのは、90代、80代、70代と世代が違うみなさんでしたが、それぞれ共通の話題もあり、和やかな集まりとなりました。みなさんのお話を聴いた後には、心もほかほかに。川久保のみなさん、素敵なお話をありがとうございました。


聴き手  川嶋 愛香
     天田 かよ子
編集   櫻井 麻美
デザイン 西澤 ユキ


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