柳町と人の暮らし(集落の話の聴き手だより7月号)
柳町と人の暮らし
国道141号を旧八千穂村から走り、下畑区の境まで来ると、左斜めに入る細い道がある。旧佐久甲州街道である。高野町と書かれた表示板を過ぎた所から柳町集落が始まる。
伴野勝治さんは、20歳の頃から薬草を扱う仕事をしていた。父親は戦死、すぐ下の弟が薬草を扱う仕事を始め、その手伝いをした。「ゲンノショウコ、オオバコ、キハダ等の薬草は南北佐久地域の小・中学校を回って集めた。夏休みに小学生・中学生が集めたゲンノショウコやオオバコを買い取った。そのお金で、図書や運動用具を買ったそうです。平成の終わりまで続き、最後まで集めてくれた小学校は北相木小学校と切原小学校です。その集めた薬草は工場で乾燥させ、細かく刻んでから長野市に出荷。そこから東京や関西に送った。」勝治さんは、この仕事を25年間続けた。
「俺が子どもの頃は、近所にはたくさん子どもがいた。1軒に2,3人はいたな。多い時には30人の上はいた。遊びは、生往院でかくれんぼ、雨が降れば、俺の家の門の軒下で、ビー玉、※パッチンをした。女衆はお手玉なんかしてた。俺が小学1年生か2年生の頃、騎馬戦が流行って、高野町と上区の連中が授業の始まる前に校庭で騎馬戦をやった。俺はちいせいから、高学年の荷物持ちで、先輩が騎馬を作って学校まで歩いていく後ろをついて行った。高野町中の子どもたちがいくつも騎馬を作って、学校まで歩く姿は頼もしかった。勝ったり負けたりして見ていて面白かった。」
柳町集落に入ってすぐの右側に一部瓦が落ちかけた木造2階建ての家があったので、どんな商売をしていた家ですかと、尋ねると、「あれは、薬草の集荷場だ。この辺りでは俺の家ぐらいだ薬草を扱ってたのは。その集荷場以外に、大きな工場が2つあった。1つは中国から薬草を輸入して、そこで刻んで娑婆に出した。」
柳町は小作農家が多かったそうだ。この集落を歩いて気付いたことは、狭い路地が多いことだ。家と家の間の路地は、農地に通じていた。現在は農地だったところに家が立ち並んでいる。
「じい様が古物商をやっていたので、小金があったと思うが、家にはラジオがあった。どの家にもなかったので、終戦の玉音放送は近所の人たちとラジオで聞いた。テレビもそうだ。家が一番早く買った。夕方になると、子ども番組が始まるので、家の縁側には近所の子どもたちが黒山のように集まって、じっと見てた。」テレビがまだ普及してない時代のどこでも見られた光景である。
※パッチン…メンコのこと
高見澤昭市さんには事前にお話を伺うことになっていた。訪問すると、すでに話す内容をノートに書き留めてあった。ノートを見ながら話し始めた。昭和25 (1950)年に60軒くらいの家があったが、今は90軒に増えた。増えた理由は町では柳町が一番住みやすいからだという。
「子どもの頃は、この通りにはいろいろな店があった。ろくろ屋(木を加工してお皿やお椀を作る店)、ピーナツ屋、お菓子屋、酒屋(飲み屋はないから大人たちは店でコップ酒を飲んでた)、下駄屋、木賃宿屋(行商人や旅芸人が泊まる)が2軒、それから季節が変わるごとに鯉の稚魚、だるま、かご等を売り歩く人もいたな。なんせ賑やかだった。懐かしいのは、お菓子屋で栗まんじゅうを作り終わると、外で待ってる私らにまんじゅうをくれる。ピーナツ屋でも、炒り終わると、ゴザの上で待っている俺たちに投げてくれる。」当時のおおらかで、どこかのどかな風景が浮かんでくる。ノートを指で追いながら、面白い話を聞かせてくれた。
「この辺りには池が15あった。鯉を飼う池だ。おらの家にも池があった。“もうけ”池と呼んでた。水田でも鯉を飼ってた。大雨が降ると水田の水があふれ、鯉が逃げ出す。その逃げ出した鯉が家の池に入り込む。入ると逃げられない。だから“もうけ”池。」、昭市さんは面白そうに話してくれた。
「十日夜になるとわら鉄砲を作って、翠町の子どもたちと地面をたたきながら、通りを挟んで言い合った。『翠のやろめら、けんかしろ。』、『柳のやろめら、けんかしろ。』実際、喧嘩するわけじゃねえんだけんどな。」
「どこの家もそうだったが、家族が多かった。家も多い時には10人いた。冬は縄綯えや山に薪取りに行ったな、『明るいうちは家の中に入っちゃいけねえ。』、と言われた。厳しかった。今考えるとその当時の生活が“生きる力”を育ててくれたと思う。」、「戦争中は小学生だったけんど、毎日勤労奉仕ばかりで、勉強はしなかった。校庭を畑にしたり、山を開墾して大豆や芋を作った。」、話が尽きることがなかった。
今は、マレットゴルフをやっている。23年間やっているそうだ。92歳になっても毎日畑で野菜作りをする。娘、孫、兄弟、親戚など40人くらいに野菜を送っている。書くことが好きで、子どもの頃の思い出や思いついたことを大学ノートに書いてきた。その大学ノートが3冊になった。これからも昔の思い出は残しておきたいという。
松澤透さんは、昭和36(1961)年に当時の国鉄に入社。中込機関区に配属され、小海線に走っていた蒸気機関車(SL)のかま焚きから、鉄道マン人生が始まった。
「見習い期間中は、教導さんと呼ばれる指導員から手取り足取り教えてもらいました。実際、かま焚きをやってみると、失敗ばかりでした。忘れられないのは、かま焚きで使うスコップをボイラー室に吸い込まれたことです。うっかりスコップの柄を放してしまった。一人前になるには3,4年かかると言われてました。7年間のかま焚き人生で得たことは、『SLは生き物』だということです。その日、その日でSLの調子が良い時もあれば、悪い時もある。その調子に合わせてかま焚きをするんです。これがなかなか難しい。」
当時の羽黒下には20人近く職員がいたという。「昭和40(1965)年頃に大日向にあった鉱山からでる珪砂の運搬が大型トラックで1日10台くらい羽黒下駅に運ばれてきた。最盛期だったこともあるが、駅には、駅長、助役、出改札係、小荷物扱い係、列車の入れ替え係など24時間勤務だったので大勢いました。
小海線にはSLが4両走ってました。野辺山は高原野菜を作ってたので、夏は畑の中に臨時駅を作って、そこから野菜を積み込んでました。野辺山には思い出があります。昭和41(1966)年に制作された石原裕次郎主演の映画『逃亡列車』のロケが野辺山駅から先の西川橋鉄橋を過ぎたところで撮影があったんです。物語の舞台は、戦争末期の満州国で、そこに小海線から引き込む線路を作って撮影してました。小海駅や中込駅でも撮影してました。
小海線に走っているSLは高原野菜を運ぶのに忙しくて、SLをわざわざ飯山機関区から借りて持ってきました。そのSLを動かすかま焚きをやったんです。これが写真です。」と言って、その写真を見せてくれた。松澤さんは若い頃から、写真が趣味で、特に蒸気機関車の写真を撮りに全国を回ったそう。
松澤さんが子どもの頃は、よく家の手伝いもしたそうだ。桑取りや、家畜のえさ集めをしてからでないと遊べなかった。「手伝いを終わってから山に行ってチャンバラごっこ、中寺(生往院)で遊び、どんど焼きの頃になると、山に入って、必要以上の木を切り、余った木を薪にして、お店に売ってお金に換え、文房具を買いました。今思うと、よくそんなことが出来たな、と思います。栄小学校の校庭に土俵があって、よく相撲をしました。肌と肌が直接触れ合うことで、力加減がわかり、どこまでやったら危ないか、肌で感じることができたと思います。スキンシップは大事だと今でも思ってます。」
(文責 西村寛)
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