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下海瀬と人の暮らし(集落の話の聴き手だより11月号)


 下海瀬は海瀬新田と天神町(旧八千穂村)に挟まれた集落。

 上原克善さんは、下海瀬で生まれた。
 「団塊の世代だから、同級生は16人いたの。5人亡くなって、集落に残っているのは2人だけになっちゃった。」

 「小学校高学年の時、忘れもしないのは『浅間山の噴火』。小学校5年か6年の8月の午後、天気は晴れだった。遊び場だった諏訪神社でチャンバラごっこをしていた時、『おい、浅間が爆発したぞ。』って誰かが言ったので見ると、噴煙が真っ直ぐ、ものすごい高さまで上がってた。みんなで口をぽかんとさせて見ていた。びっくりしたけど、怖くはなかったです。」

 「あと、下海瀬の子どもたちは、1ヶ月に1回位だったか、朝、県道の掃除をしてました。終わると、鬼ごっこや隠れん坊をして遊んでた。その当時は子どもが多かったので、学校から帰ると、公民館の庭や刈り終わった田んぼで、ゴムボール・鍬の柄のバットで野球に夢中だった。」

 「子どもの世界にも縦社会があって、中学生が頭になっていろいろ采配するんです。どんど焼きの時だって、中学生たちが山に入って木を切り出してくるんです。大人は手出ししなかった。子どもたちだけでやぐらを組むので、そんな大きなものは作れなかったです。2月にあった天神祭は面白かった。公民館でやったんですが、母親たちが五目御飯を作ってくれて、食べた後公民館の中を暗くして肝試しをやりました。遊ぶことしかしてなかった。」 と克善さんは当時のことを懐かしそうに話してくれた。

 克善さんの父親が教員だった影響で、高校の国語教員になった。初任地は上伊那農業高校定時制、県内の高校をいくつか回り、佐久穂町に戻ってきたのが38歳の時でした。高校を卒業し、大学、教員生活を続けていたので、戻って来た時は、浦島太郎のような状態で、知っている人も少なくなっていたそうだ。定年退職後、以前から関心のあった中国の大学に日本語教員として2年間赴任する。言語学が専門だったので、漢字の祖国である中国に行ってみたかったと言う。観光で行ったことは何回もあるが、実際住んでみなければ分からないことがあると考えて決心したと語ってくれた。

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 阿部一太郎さんは下海瀬、下宿しもじゅくに生まれ、今日まで暮らしてきた。お話を聞いて、驚いたことは、記憶が鮮明であること。小学校担任の名前を1年生から6年生までスラスラ言える。人の名前は覚えておかないと失礼だという。

阿部一太郎・勝子夫妻

 「私は、海瀬国民学校(旧佐久中央小学校)に通ってました。昭和19年の春入学。当時のクラスは赤組、白組に分けられていました。下海瀬にいた同級生は女衆おんなしょうが多くて12人、男が10人いました。遊びといっても、みんな農家の子どもたちで、農繁期は手伝いばかりしていた。遊べるようになるのは、11月からだな。よく遊んだのは、電柱と電柱の二手に分かれて、出会ったところでじゃんけんをして、勝った方が負けた子どもを自分の電柱(陣地)に連れてくるという遊びで楽しかった。冬になれば、そり滑りとスケート。下駄スケートのことを『げろり』と呼んでいて、『げろりに行かざい。』とよく言ったもんです。田んぼがスケート場で先輩たちが滑って見せてくれる。先輩たちが年下の私らの面倒をよく見てくれました。今の時代では考えられないくらいでしたな。」

一太郎さんの父親、利夫さん。帽子がかっこいい

 「父親は運搬業をしていて、馬を1頭飼って山から木材を馬に引かせて佐久穂積駅(現八千穂駅)や羽黒下駅まで運ぶ仕事をしてました。私が中学1年生の時、親父が亡くなりました。中学を卒業する時に、担任が『お前はもっと上級の学校に行けるけれど、家の事情で農業をやることになる。ついては、農業に関する参考書をやるからしっかり勉強をしなさい。』と何冊も本を買ってくれました。私は人に恵まれてきました。菊づくりを始める時には、農業に詳しい人から手取り足取り一から教えてもらいました。私の農業の師匠です。菊づくりを始めて7,8年目のことです。ひょう害にあって菊が全滅したんです。露地栽培では天候に左右されてしまう。そこで思い切って、ハウスでカーネーション栽培に転向しました。気がついたら50年たってました。今は、息子が後を継いでくれてます。将来は孫が後を継いでくれると言ってくれてます。人間は働くときに働かなきゃだめだ。この地で何とか頑張って子どもに残せるものができた。それも周りにいる人たちのおかげです。」と一太郎さんは語る。

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 山口英男ひでおさんは、赤屋(赤谷と書く人もいる)集落の生まれ。

 「私の子どもの頃は畑八開発のプラントがあるところは、河原と畑でした。そこには千曲川の支流が流れていて、そこで水遊びを友達としてました。千曲川で遊んだこともありますが、そんな時は対岸で遊んでいる畑八の子どもたちと石の投げ合いをしたことを覚えています。その中の一人がとても元気な息子(子どものこと)で今でも覚えています。千曲川の支流にはうなぎがいて、夕方に糸の先の針にミミズをつけて沈めておき、朝取りに行くとウナギがかかってるんです。母親に頼んで、焼いてもらい、友達と分けて食べた記憶があります。昔は田んぼに農薬を使ってなかったので、どじょうが一杯いました。竹で編んだしかけ籠を3つ、夕方に仕掛けておいて、朝見に行くと多い時には20匹ほど取れました。近所にどじょう好きの人がいたので、その人に売って、こづかい稼ぎをしました。こづかい稼ぎといえば、8月のお盆前に山に花を採りに行きました。桔梗ききょう女郎花おみなえし、百合の花を採ってリヤカーに乗せ、清水町の市が立つときに売りに行ったことを覚えてます。」と子どもの頃の記憶をたどるように話してくれた。

 英男さんは、経理一筋で生きてきた。17歳で地元の運送会社に就職。65歳で退職した後、別の会社に就職、20年経つ。現在も現役で働いている。

 英男さんに仕事に取り組む姿勢を尋ねると、「その日の仕事はその日に終わらせる。明日でいいやというわけにはいかない。次の日に何が起きるか分からない。そう考えて仕事をしてきました。それが長続きする秘訣です。」

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 中嶋近美ちかみさんは南牧村、高原野菜農家に生まれた。
 子どもの頃から畑仕事をしたけれど、嫌だと思ったことはないという。夏休みは毎日畑仕事を手伝い、昼休みになると野イチゴを探して食べるのが楽しかったと、話してくれました。

プルーン畑に立つ近美さん

 「夏休みで思い出すのが、父親が先生に夏休みの宿題は出さないでくれ、家の手伝いができなくなるからと直談判して先生を驚かせたことがありました。家の手伝いをするのが当たり前の時代でしたね。当時、野菜の収穫箱は木箱で、それを両親が毎晩遅くまでトントン音をさせて作っていたのを覚えています。私も手伝ったことがありますが難しかったです。収獲した野菜の切り口に水で溶いた石灰をつける手伝いもしました。今思うと本当に家の手伝いをしました。でもちっとも嫌でなかったです。」

 近美さんは下海瀬にお嫁に来て、50年になるそうです。
 「家は担当制です。私はりんごとプルーンを作る担当。お父さん(近美さんの夫)はお米作り担当で、ライスセンターを経営してます。同じことを一緒にすると、意見が合わないことがあるし、夫に使われているような気持ちになるので、担当制にしました。果樹栽培はやったことがなかったので、農協の講習会に出て勉強しました。美味しいリンゴやプルーンを作れるよう自分なりに研究したりしていると自然に研究心が生まれてきます。農協婦人部に入っていた時、影響を受けた女性がいます。彼女から土づくりに欠かせないボカシ肥料の作り方、冬場のハウスで小松菜やホウレン草を作れることも教わりました。とてもバイタリティーがある女性で、玉ねぎや落花生がこの地域でも作れることを助言してくれました。そんなものが作れると思っていなかったのですが、やってみるとちゃんと収穫できたのです。今では、誰でも玉ねぎや落花生を作ってます。影響力のある女性でした。」と話してくれた。

 リンゴ畑1反歩、プルーン畑1反5畝を一人で切り盛りするのは大変ではないですかと聞くと、「畑によって味が違うの。だから土壌検査をして土づくりをします。自分なりに工夫して美味しいりんごやプルーンができると嬉しいし、楽しい。一人でやっているので、好きな時に好きなことをする時間が作れるの。今、佐久市にあるハーモニカ・オカリナ教室に通っています。農繁期でも関係なくね。自分でする農業は自由がきいていいです。」

文責 西村 寛


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