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希望と絶望とを取り違えてはいけない

と、岡田斗司夫が言っていた。

ゼロか100かで考えがちな、バランスの悪い私たち。
自分にできなかったこと、無理だったこと、挫折、失望、他人の目。

自分で自分をがんじがらめにしている夜、あるいは昼のさなか、ひとりで布団の中で、絶望の数を数える。

ー今ごろは○○の仕事をするはずだったのに。
ー人並みに卒業だけはできたはずなのに。
ー結婚できないなんて思わなかった。

こんなこともできないのなら
私はどこへいってもダメなんだ。

こんな私に未来は無く、足元の崖から先には荒波が打ち付けている。今すぐにでも飛び降りてしまえば、もう苦しむこともない・・・


こういう思考は他人の目から見ればどれだけ傲慢なんだろう。でも、社会とも世間ともかすかなつながりしかない生き方をするうちに、自分で自分を縛ることに慣れてしまう。
ダメだダメだと苦しんでいる間は、可哀想だから他人も容赦してくれるんだ。それが分かっているずるい自分にはフタをし続けた。



人生は「これがしたい」というところから妥協点を下げていくことだから。
(理想が)現実的に落ちてくること、それが希望なんだ。
絶望と希望が逆だよ。

2019年10月29日 岡田斗司夫(内容は要約しました)


「妥協」という言葉は、「あきらめ」のような意味合いを含んでいるように聞こえるけれど、
妥協という作業を通して願望を現実に落とし込み、現実に起こり得るかたちでかなえること、それが希望なのだ。
理想のレベルを落とし、実際の自分の生活に可能なくらいまで落として叶えること。

私は昔から、○○をしている自分、というイメージを持って生きていた。
中学のときは高校生になった自分、高校に入ったら大学生になった自分。
未来の自分の像はキラキラと輝き、今の自分とは性格も能力も外見さえも違っていた。
結局、それはたんなるであり、漠然としているために叶えようがない。

夢を見るのはやめだ。
今日、明日、あさってと、生活が続く先に未来がある。

私は布団を抜け出して本を開き、資格試験に向けた勉強を始めている。
パソコンを開いて在宅仕事をしている。
お世話になった人にあいさつをし、連絡を取っていなかった友人に「元気?」と話しかけている。
短期間のアルバイトをいくつか、今の自分ができそうなことだけ。
そして、家族と向き合っている。家族の話を聞き、自分の話をする。正直な思いを打ち明けると、結局は笑い話になることもたくさんあるのだった。

日々の、朝起きて夜寝るまでの生活の中で、毎日少しずつの負荷をかける。
空高くにジャンプすることはできないけれど、レンガを積み重ねて階段を作って上ることはできる。






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