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「自由になりたいな」
これは、きっと産後から強くなった思いで、母になったその日から私から離れたことのないような、そんな思いのような気がします

「ここではないどこかへ行きたい」「何も考えずにぼーっとしていたい」
そんな気持ちが常々あって、
リュック一つで各地を回る、そんな人物をイメージして自由になりたいなって思っていました

転職してから週4日勤務の働き方で土日は子供たちもいるけど、平日休みの1日は完全に私の日で。
副業的なことをやっているので、それが時々あるけれど、前職と比べたら圧倒的に自由になれている時間はあると思うのです。
それでも「自由」を求める気持ちは変わらない

それなのに、いざ、一人の時間ができても、「〇〇するなら今のうち」「お迎えがあるから△△は難しいかな・・・」「□□しようと思ったけど、やっぱり面倒くさいな」など・・・
「自由」でありたいけど、いざ「自由」になろうとすると不安というか面倒だったりが先だってしまい、結局日々のこと、家事だったり調べ事だったりをしてあっという間に時間が過ぎています。

本当に「自由」になりたいのかな?
本当は「自由」が怖いんじゃないかな?

そんな思いがよぎるようになりました。

「自由」になりたい
その奥にある、私の本当の気持ちはなんだろうか

最初は単純に一息つける時間
赤ちゃんと四六時中過ごす中で、朝食を座ってゆっくり食べれない、コーヒーだって淹れたてで飲めない、コンビニだってろくにいけない。
そんな日々を過ごす中で、「思ったときに思ったように動けること」は特別なことなんだと感じるようになった。
また、自分のことだけを考える時間の貴重さに気づいた。

家族は協力的で私の一人の時間を作ってくれました。
でも、それはあくまで「作ってくれた時間」であった
手放しで何も考えずに過ごすことはできなかった
出発したときはルンルンでも、コーヒーを飲んでると、あと何分で帰らないといけない?あれ伝えたっけ?大丈夫かな?という思いで、ゆっくりしているはずが逆にせかされた気分で帰ってきたり。

仕事に戻って、お昼をゆっくり食べれたことにはとても感動した。
保育園のおかげで仕事中は自分のことに集中できた。
それでも、休日はたまった家事や子供との時間であっという間に1日が過ぎる。

「自分のことを考える時間」は通勤時間やみんなが寝た後の時間。
どうしても条件付きだった。

だからこそ、きっと、条件のない自由が欲しかったんだと思う。
週4勤務にしたばかりのころは、平日休の日は罪悪感でいっぱいいだった、みんなが働いている中で私が休んでいるのはなぜ?本当にいいのかな?
最近は慣れてきたけど、やはり手放しで楽しむだけ、ということはできない。

私の自由は今まで、何かと引き換えだったんだと思う。
「夫に子供の面倒を見てもらう」「仕事を休む」ことでしか生まれない「自由」
だからこそ、楽しむことより、その時間をどう有効活用するか、その時間で何を生み出すか、無意味なことをして時間を過ごしたくなかった。
「自由な時間をもらったんだから勉強しなくちゃ」
「自由な時間をもらったんだからやりたいことを詰め込まなくちゃ」

自由な時間があるのに、「自由」になりたい
と思うのは
きっとそんな自分で考えている自分への条件からの解放を意味しているんだと思う。

条件なく過ごす時間に罪悪感をもたない。
何も生み出さない時間に罪悪感をもたない。

自由になることへの不安
それは
自由=何も生み出さない=価値がない
という価値観なのかもしれない

「自分は価値のある人間なのか」
自身でそれを認めてあげられないから、どうしても他人に認めてもらう必要がある
他人に認めてもらうには、何もしないわけにはいかない
私の基盤は
「誰かに認めてもらうこと」「誰かに必要としてもらうこと」「誰かの役に立つこと」
だから、何も生み出さないことへの恐怖が強いんだと思う。

本当に時間のなかった、母になったばかりのころと比べたら、今は格段に時間がある。
土日はワンオペだけど、子達だけで遊んでくれるし、夫不在というのは逆に言えば私は一人の時間を作れるということ。
きっと自由になっている。

今見たいに空を見ながら、雲が流れているなーって感じながらコーヒーを飲んで、PCをしているなんて、想像できない未来だった。

私は自由になっている。
今必要なのは、むしろ時間ではなくて、「何もしないでも大丈夫」と自身で思えることなんじゃないかな。
「何もしない自分」を許してあげよう。
「何かしなきゃ」を手放そう。

いま、楽しいこと、私の中のfunを見つけている最中。
「何かしなきゃ」ではなくて、「これをしたい」と思える気持ちを鍛えているところ。
まずは「自由になりたい症候群」からの脱却を目指そう。

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