他人の話を理解するのは難しい
他人の話を理解するというのが、どれほど不可能に近いことかと思う。
久しぶりの休日。読みたかった本に手をのばす。朝比奈秋氏の「サンショウウオの四十九日」。読みはじめて三十ページで手が止まる。どうにも頭に入ってこなくなった。面白くないというのではない。著者の言わんとすることが自分の持っている世界の外にあることだから、努力しないと僕の中に入ってこないのだ。肩が強張りだすのを感じる。元から激しい肩凝りに悩まされているのだが、こういう時にやってくるそれはかなり厳しい。首から上に正常には血流が巡らなくなる。たくさん眠ったはずなのに、どうしようもない眠気に襲われて目を閉じる。しかしすぐには眠れない。額の辺りが締め付けられるような感覚がして、視界が白い。脳を飛び交う考えや単語も、煩雑としてまとまりがない。明らかに心身ともに調子が悪い。しょうがないから目を開けて、また小説を読む。数ページ読むとまた眠気が勝つから、目を閉じる。これを三回は繰り返したところで、ようやく眠りに落ちる。ストン、という言葉が一番的確だと思うが、気が付いたら意識を無くしている。まるで気絶したかのようだ。二十分ほどして目が覚める。不思議と、肩こりも額の締め付けもほぼ解消されている。小説をまた読み始めると、これが不思議なくらい頭に入ってくる。著者の言いたいことが掴めてくる。ようやく、読書体験らしきものが始まる。
「サンショウウオの四十九日」はとても面白い小説だった。身体とはまったく関係なく意識が誰かと繋がるのを感じることがあり、だとすると肉体とは、自分とはなんのための容器なのだろうと考えることが最近あったので、タイムリーに刺さった。
それにしても面白い小説を読むと、たいていこうだ。僕は途中で一度気絶しないといけない。リセットする、という感じかもしれない。
働いて生きている自分、というのはきっと恐ろしく自分本位なのだろう。
すべての仕事をする人は、それを通して自分なりの生き方のスタンスや他者へのスタンスを固めていく作業をするのだから、【小説を読む】とか【映画を観る】とかいう、自分と信じられないほど関係のない他者の書いたなにかしらを受け取る行為は、ともすると破壊行為にさえなり得るし、仕事への邪魔でしかない。せめて休日は、自分を肯定してほしいし、誰かと共感し合いたい。なんで「サンショウウオの四十九日」のように、知らない人が書いた結合双生児の小説を、僕は読むのだろうか。この休日は、1910年のアメリカの短編映画も観た。ずっと眠いのだけど、海の波というのは良いなということだけ強烈に思った。筋なんかなんだっていい。自分だって不思議だ。映画と小説が好きだからしょうがない。
しかしやはり、前日までの仕事で張りに張った自分の牙城の守りは、休日の午前中をぐっすり眠ったぐらいでは緩められない。気絶したように眠った後の微睡みの中、城兵たちが気を緩めた隙に、創作物は僕の中へと侵入してくれる。
他者を理解するのはあまりに難しいのだ。
だから映画館では、眠ってしまう(濱口竜介氏もよく仰るが)。だから相手との共同生活を円満に継続させるのは難しい。だから休日は二日では到底足りない。
不安である。この世間で、どれほど無理が生じているのか。考えただけで、ちょっとゾッとしてしまわないか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?