生業にはしていない方とのモノづくり
愛知県半田市にあるケーブルテレビ局CACというところと、4年前にお付き合いが始まり、定期的に番組制作の仕事をさせていただいている。
1年前から、「わたしのストーリー~あなたのエピソードを映像化~」という番組が始まった。
地元にお住いの方から、ちょっとした思い出話を投稿してもらい、それをショートドラマにするというもの。
僕は、ディレクターをさせていただいている。
局の方針から、基本的には出演者を地元にお住いの方々によって構成させるというのが、この番組最大の特長だと思う。
要は、映像の演技はもちろん、人生でお芝居をするのが幼稚園のお遊戯ぶり、なんて方々が集まってくるのだ。
応募理由は様々で、人生で一度経験してみたかったとか、ケーブルテレビ局員の友人だとか、エキストラ程度ならば、など。
今年はプロで活躍されている俳優さんをお呼びしようということで、温水洋一さんと山本圭祐さんにご出演いただいた。
お二人に現場を支えていただいたおかげもあるだろう。
俳優部が一般の方ばかりといえども、程よい緊張で撮影はできているし、NG連発で撮影が止まってさあ大変、などということは一度もない。
ただ、ディレクターとしてのプレッシャーは大きい。
アマチュアばかりの俳優部でも、傑作となりうることを示している映画が幾つか存在するからだ。
僕も常々、お芝居とはもっと門戸が開かれたものであるべきだと思っている。
技術的な成熟度の差こそあれ、演じるその人の持つ力や個性は、技術をも上回ることがある。
プロとアマチュアの境目が、非常に薄いのが芝居の面白いところだろう。
(プロの、プロたるゆえんは、芝居というものを延々考え、悩み続け、その果てに編み出し自分の手に馴染んだ技術、のようなものを持ち得ている人かどうか、だと思っている。
ただその場にいれば良い、演じずに素直に、という演出は、延々悩み続ける人においては止まり木のような、視界を見渡す機会を与えるものになり有効だろうが、ともすると思考停止、最悪の場合はルッキズムのようなものを助長する言葉にもなりうると思う。やはり、延々考え続けることのみが、プロたるゆえんと僕はそう信じている)
ということで、毎回緊張しながら撮影に臨んでいる。
ちょうど一昨日、撮影があった。
図書館での撮影。
出演した女性が、9歳の息子さんを現場に連れてこられた。
彼女には結構なセリフ量があり、少し焦っていらっしゃるようにも見えたが、共演の山本圭祐さんが読み合わせや段取りに何度も付き合ってくださり、撮影はオンタイムで進行することが出来た。
撮影場所が少し窮屈な室内ではあったのだが、時間的な余裕さえ生まれたので、9歳の息子さんも現場に入ってもらい、一緒にモニターを見守ることにした。
聡明な子なのだろう。
パーカーを羽織っていたのだが、本番中は服のゴソゴソする音がしないように見ててね、と言ったところ、「じゃあ脱ぐね!」とすぐにパーカーを脱いでくれた。
テストの時から彼は、演じるお母さんをモニターで、じっと見つめていた。
本番。
無事お母さんは台詞を淀みなく言い切った。
彼はモニターに釘付けで、目を離そうとはしない。
僕がOKを言うのとほぼ同時に、彼はモニターを見ながら、その小さな手で拍手をした。
胸が掴まれた。
僕のOKよりも、もっと純粋で、紛れもない彼にとってのOK。
僕自身、これまでの、そしてこの先出すOKの中で、こんなにも純然たるOKを出せることはあるのだろうか。
そしてモニター前の彼が見ているのは、家でご飯を作ってくれるお母さんでも、病気の時におでこに触れるお母さんでも、毎日「おかえり」と「いってらっしゃい」を言ってくれるお母さんでもない。
別人のお母さんがそこにはいて、なにかを話している。
それこそが芝居であり、彼はそれに思わず拍手をしてしまう。
その、不思議と奇跡。
監督業の奥深さを、学ぶ日々である。
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