小説「叶えられた青春」
「宮岸、告られたらしいよ」
いつもなら細やかな振動であるはずのその声が「宮岸」という音の並びによって1万倍に増強された。
「えー、まじ?相手だれ?」
「高橋くんだって」
「ウソー!そんな素振りなかったじゃん」
おそらく血液は止まっていた。そして僕の体内に酸素を送るという大切な使命を思い出し、通常では考えられない速度で体内を巡り始めた。
とにかく冷静になろう。修学旅行が1週間後に迫ったこのクラスで少しだけ興奮していてもバレやしない。
僕は細々と震える手を押さえて数学の授業を終えた。あれほど耳に入らなかった数学の授業は初めてだった。
「びっくりした?」
海苔弁当とにらめっこをしながら昼食を取っていた僕に声をかけたのは宮岸さんだった。正面にいる宮岸さんは僕が普段数学を教えているときの彼女とは別人に見えた。
なんだか、ここにいないような。立体を失った絵のようにも見えた。
「うん、ちょっとびっくりした。お幸せにね」
こんなときにかけるべき言葉を僕は知らない。
多分いつかのテレビドラマで聞いたであろうセリフを声に出した。
おそらくこのセリフは不正解だったのだろう。宮岸さんは口元ではささやかな笑みを浮かべていたものの、その目は何かを憂いているようだった。
修学旅行はつつがなく終わった。
特に語るべき思い出もなかったが、高橋くんと夕食が隣の席で、広島のお好み焼きを食べたことは嫌に記憶に残っている。
彼は僕にマヨネーズをかけることを真剣な表情で拒んだ。
「聡太、マネヨーズかけるときは自分のぶん分けてからかけて」
「いいけど、マヨネーズ嫌いなの?」
「変な味するじゃん、マヨネーズって。てか知らなかったのかよ。2年も同じクラスなんだからそれくらい知っとけよ。おい、マヨネーズついた箸でお好み焼き分けんな。この箸使って」
宮岸さんのことは聞けなかった。
高橋くんは広島の観光中、絶えず宮岸さんと手を繋いでいたことは、ありがた迷惑なクラスメイトからの密告によって知らされた。
あとはなんていうことはない、修学旅行後のクラスはクラス替えのときのように得体の知れない静けさに溢れていた。
10月27日
なぜか帰りのバスの隣に宮岸さんがいる。
「ねえ、なんでいるの?」
「私がバス乗っちゃだめ?」
「いや、普段バスに乗ってるの見ないから」
「いつもは自転車、昨日帰りにパンクしたの。だからバス」
「そっか」
63秒の無音
「私の好きなお菓子知ってる?」
「え?」
「好きなお菓子、なんだと思う?」
「カロリーメイト?いっつもお昼に食べてるし」
「あれはただのお昼ごはん。そんなに好きじゃない。私、シュークリームが好きなの。駅前にあるコンビニのやつ」
「コンビニだったらどこも味同じじゃないの?駅前のコンビニなら北高の前にもあるし」
「違う、駅前の方が甘さが抑えされていてちょうどいいの。一度食べてみて」
「そうなんだ。帰り食べてみる」
32秒の沈黙
「ねえ、数学教えて」
言葉がひっかかる。落ち着け。そっと息を吸う。
「数学なら高橋くんに聞いたら?高橋くん僕より数学できるし」
「いいから」
よくはないだろ。申し訳なさが勝った。
正直こうして話しているだけも後ろめたいのに。こんなバスの中で犯罪者の気分なんて味わいたくない。
「だめ?」
戸惑いの中から声が聞こえた。横を見るとなにか助けを求めるようにこちらを見ている。
・・・
「わかった。どの問題?」
「問題いっぱいあるの。だから今晩時間ちょうだい」
「え?電話ってこと」
「もちろん。浅野くんの家なんて遠すぎていけないじゃん。「わかった」って言ったもんね?」
断らなかった。
午後8時、約束通り通話をした。分からない問題というのは教科書の例題2問だけだった。通話が終わったのは午前2時頃だったと思う。
「なんか眠そうだな。どうした」
「いや、数学の問題解いてて」
「お前いっつも数学やってるな。そっか、この前の模試俺が勝ったから悔しいのか」
「うるさい。次は勝つから問題ない」
高橋くんとの会話はいつも通りの、繰り返されたものだった。
繰り返しに飽きたのか、また別の理由なのかは分からない。
しかし、その言葉はふと現れた。
「ねえ、高橋くん。宮岸さんの好きなお菓子って何?」
完全に意表を突かれたという顔だった。僕の口から「宮岸さん」という単語が出る準備を整えていなかったのだろう。
高橋くんは優しい。
彼は何食わぬ顔で考える素振りを見せた。
「なんだろ。カロリーメイトとか?あいついっつも食ってるし。聡太知ってる?」
「知ってるわけないじゃん。なんとなく聞いてみたくなっただけ」
「そうか。まあ覚えてたら聞いてみるわ」
そういうと彼はトイレにいってしまった。
高橋くんと宮岸さんが別れたという話を聞いたのは高校の冬季講習1日目のことだった。
高橋くんからも、もちろん宮岸さんからもそんな話は聞かなかったが、今回は特段驚かなかった。
教室に行くと彼は苦笑いを浮かべていた。目元も赤くなっているように見える。その日は声をかけられなかった。
翌日、講習が始まる前にコンビニでお菓子を買って高橋君に渡した。
「わざわざありがと、助かるわ。今度またメシ行こうな」
僕は高橋くんと目を合わせ、なんとなくおかしくなって、笑った。
駅前で買ったシュークリーム。僕だけが知っているシュークリームだ。
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