水平線

パソコンのスクリーンセーバーにくるくると文字が踊っている。

「何なら出来ますか?
どうしたら出来ますか?」

解決志向というこの考え方は役に立つから、困った時は「何が出来るのか」に集中するといいよ。
この部屋の主はそう教えてくれた。

彼はカウンセリングやコーチングといった類の勉強をしている。

「働く事は怖いけど、もう逃げたくないんだ…」

私はうつ伏せで枕に顔を埋めながら絞り出すように声を出した。

「良い心掛けだね」

そう言って彼は私の頭をポンポンと軽く撫でた。

私は珍しくかなり飲みすぎたようだった。
ろれつも怪しいけど、おかげで本音を吐き出せている。

ほとんど引きこもりと言っても差し支えない暮らしをしていた私は、そんな自分が大嫌いだった。
でも、社会なんていう生き地獄に出ていく覚悟はまだ無かった。
いじめられっ子メンタリティは何処へ行っても嗅ぎつけられ、きっとまた辛い思いをするに決まってる。
どうしていつもそうなるのだろう。

みんな文句や愚痴を言いながらも複雑な人間関係の中で仕事をこなしている。

「どうして私には出来ないのだろう」

私の父親は人間関係で履歴書の職歴欄が足りなくなる回数の転職を繰り返し、母親は家庭には主婦が必要だという理由を盾に働く事を断固として避け続けた。
我が家では社会や仕事というのはそれだけ恐ろしいものだったのだ。
生きるのは辛いことで、せめてもの慰めは束の間の熱狂に酔えるギャンブルとタラレバの宝くじ、それと自分達より不幸な人々を見下して得られる優越感だった。
今でこそ親も親なりに生きてきたのだと思っているし別に恨んだりはしていないが、当時はかなり親を憎んでいた。
不満そうに生きる親の姿が痛々しく、それを見るのが悲しく辛かったのだと思う。

社会に出て普通に働いて人並に生きる。 
ささやかな願いのようで、それは遠い夢だった。

「どうして私には出来ないのだろう」

自分の無力さと不甲斐なさが怒りと悲しみを呼び起こす。
          

彼は優しく私の頭を撫で、枕は柔らかく私の嘆きと涙を受け止めた。

                       
        
                        
ザバーン
私は大きく息を吸った。
海面から顔だけを出した私の目に飛び込んで来たのは見渡す限りの水平線だった。

海底に沈んでいたんだ。私は直感的に理解した。
息を吹き返した私を彼が抱きかかえてくれている。

海の底から彼が引き上げてくれたんだ、私は涙が溢れた。

ありがとう
ありがとう

彼は優しく頭を撫でてくれていた。
私は何度も呟いた。
                        
                       

ザバーン
私は大きく息を吸って意識を取り戻した。
また沈んでいたみたいだ。
さっきと同じ水平線。

彼は私の頭を撫でる手を止め、深刻な声で言った。

「じゃあ、さくらの人生はとても不幸で不幸せだったんだね」

晴天の霹靂とはこのことだ。
私は言葉の意味が全く分からなかった。

五体満足の身体で生きていて突然「その右手じゃさぞかし不便だったでしょうね」と言われたようなものだ。

何故私がその質問をされなければならないのか全く理解できなかった。
私はひどく混乱した。

「意味が分からないから、もう一度言って」
意識が朦朧とし言葉も忘れそうな中、やっとのことで私はその一言を発した。

「 じ ゃ あ 、 さ く ら の じ ん せ い は と て も ふ こ う で ふ し あ わ せ だ っ た ん だ ね 」

彼は一文字ずつゆっくり丁寧に発音した。

やっぱり理解できなかった。
かろうじて、どうやら彼は私の人生は不幸だったと思っていてそれに同意を求めているというのは分かった。

私は不幸だったのだろうか。
もし自分で心底不幸だと思っていたなら、こんなに考え込むことはないだろう。

また海の底に引き込まれそうだ。
頭がぼんやりしてきた。
「別に…そんなことなかった…けどなぁ…」
独り言のように呟いた。
                      

ザバーン
私は大きく息をした。
まただ。

もう何が起きているのか分からなくて私は眉間にシワを寄せ考え込んだ。
私の渋い表情を見て彼は聞いた。

「何を考えてるの?」

色々な悩みが浮かんでは消えていく。
どうして私は上手くできないんだろう。
ふと解決志向という言葉を思い出した。

「…解決志向について」

「へぇ、どんなこと?」

彼は興味深そうに返事をした。

そういえば、解決志向について学んだことをメモしたノートが鞄に入っているのを思い出した。
でもきっと、解決志向だなんて勉強してもどうせ私には出来ないんだろう。
私は鞄から黄色いノートを取り出して彼に見せながら答えた。

どうして私は…

「…どうしたら解決志向が出来るのかなって…
え、あれ??」

口をついて出た自分の言葉に驚いた。

「あれ?!できた?!」

「できたじゃん!!」
彼は喜ぶ私を楽しそうに見ていた。

「うん!できた!!」
私は彼に抱きついた。

                         

パンの焼ける美味しそうな匂いで目を覚ました。

部屋には高く昇った太陽の光が差し込み、観葉植物を照らしていた。

「おはよう。バターとジャム、どっちがいい?」
トースターを覗き込んだ彼が聞いた。

「りょうほう」
寝ぼけながら答える。

夢だったのか。
やけにリアルな夢。
不思議な感覚だった。

かなり飲んだから変な夢を見たんだな。

枕元に黄色いものを見つけた。
ノートだった。
やっぱり夢じゃなかったんだ。

「昨日、私に何かしてくれたよね?」
私は慌てて彼に聞いた。

「え?何それ?知らないよ」
彼は食パンにバターを塗りながら素知らぬ顔で答える。

「でもノートが…」

「ノートがどうかしたの?
そういえば、このジャム好きだったよね?」

そう言いながらブルーベリーのジャムをスプーン山盛りにすくい取る。

知らないなんて絶対ウソだ。
でも、これでいいと思った。

「ちょっと焼け過ぎちゃったかも」

そう言いながら彼はバターとジャムをたっぷり塗ったトーストを出してくれた。

「ありがとう。ほんとにありがとう」

私は真剣な表情で彼に伝えた。
彼は微笑んだ。

「ほら、冷めないうちに食べようよ」

彼は大きな口を開けて食パンの角にかぶりついた。

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