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工事

その人のことは、五分間くらい話した頃には気になりだしていた。
とにかく話を聞き出すのが上手なのだ。
仕事で悩んでいた私はその人と話しているうちにやるべき事が明確になり、解決に向けて動けるようになった。

その後も何度か顔を合わせ、その人とさり気ない日常会話をしているだけなのに、毎回元気になれたり新しい事に踏み出す勇気を貰えたりした。

その人は普通の会話の中に催眠暗示を織り込んでクライアントの潜在意識に働きかけて問題解決をするという仕事をしている。
きっと私にもその技術を使ってくれているのだろうと思った。

無償の愛みたいなもんで誰に対しても無意識にそうやっているのだろうけど、私はその人に特別な思い入れを持つようになっていた。

いつもは仕事の話をする事がほとんどだったけれど、ある時、私が趣味で撮っている写真の話になった。
私は写真の魅力について話し出すと止まらなくなる。
その人は写真に特に興味は無いらしいけれど、ニコニコしながら聞いてくれて、今度見せてよと言った。
社交辞令なんだろうけど、次に話すキッカケが出来たと思うと嬉しかった。


次に会った飲み会で、私はすかさずその人に話しかけた。
撮った写真を見せて、私はその人に自分の事をもっと知ってもらいたかった。

一枚の正方形の写真をその人に見せた。
それは、工場の広い跡地を高い所から見下ろした写真で、所々でブルドーザーが作業をしている。

私はその写真を見つめながら解説を始めた。


この写真、二眼レフと言われるカメラで撮ったんです。
二眼レフは長方形の箱みたいな本体にレンズが上下に並んで2つ付いていて、箱の中を上から覗くように撮るカメラなんです。できあがった写真は正方形になるんです。

カメラを構えると、ちょうど胸の前辺りにレンズがあるので、二眼レフは自分の心をそっと上から覗いているような気がするのです。
だから、この写真はきっと私の心の中なんです。

この写真を撮った頃、私は好きな人を失いかけていたんです。
この場所を見つけた時、とても寂しく感じました。
ここは元々大きな工場があった場所なんですけど、好きだった人は夜の風景を撮る人で、工場の写真がとても印象的だったんです。
それを思い出していたんでしょうね。

でも、工場はもう跡形も無くなってしまったんです。
『工事』で全部が壊されてしまったんです。
そして、今は全部が『工事』なんです。


話し終わってふと顔を上げると、その人と目が合った。

私は自分が何を言ってしまったのか、その時初めて理解した。
そして恥ずかしくて動揺してしまい、真っ赤になって何も言わずに急いでその場を立ち去った。

その人は『こうじ』という名だった。

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