御百度参り
お百度参りは、望みを手放すためにやる。
こう言うと、望みを叶えるために願掛けしてるのであって、望みを手放すためにやっているのではないと思われるかも知れない。
だけど私は、なんとなくそんな気がしている。
ちゃんと分かっている。ほんとうは、望みを叶えるためにやっているのだ。
でも、あまりにも望みにのめり込みすぎると、その思いと同じ強さの分だけ、叶わなかった時の絶望感も大きくなる。
その絶望感を思うと、叶わなかったらどうしようという恐怖感が生まれてくる。
叶うか叶わないかは、いまではなくて、未来にしか分からないことだ。
未来にしか分からない、絶望感と恐怖心
に、いまが支配されてしまう。
望みを叶えるために、目の前にヒントやチャンスが落ちていても、いますぐできる簡単なことがあったとしても、未来の絶望感と恐怖心で一杯になっていたら、それに気づいたり行動できないかもしれない。
そんなことにならないように、お百度参りをする。
お百度参りしたのだから、できることはやったのだから、あとはもう天にお任せするしかない、大丈夫。
そう思えると、未来への不安にとらわれずに済む。いまを全力で生きられる。その結果として、望みが叶うような行動を取りやすくなり、叶う可能性が高くなる。
そういうことなんじゃないか。
多少、体力的精神的に負荷がかかることの方が、やった感じがする。ちょっと鈴をカラカラしてお賽銭を放り込んだだけでは納得できなかったとしても、お百度参りとなるとそれなりに気合もいるし、やるとなるとしんどい。それが良いのだと思う。
お百度参りとは、よくできた「人事を尽くして天命を待つ状態をつくる装置」のように、私は感じている。