父が亡くなって、4ヶ月が経ちました。たった4ヶ月と数日前には、父はぬくもりをもって生きていたようです。 もう何年も経ったんじゃないかと感じてしまうくらい、遠い記憶になってしまったなぁ。 父は1年前の10月末に急遽 検査入院し、11月には余命半年〜1年と宣告されました。 11月からは父の生と死に向き合う日々で、仕事中に泣きだしてしまったり、普段飲まないお酒を飲みたくなったり、笑顔が少なくなったりと かなりしんどく、そのしんどさは父が亡くなるまで続きました。(亡くなったら亡くな
今日、畑をしていると、近所の認知症のおばあちゃんが、道に出てきていた。散歩でもしてるのかなぁと思って見ているとこちらに氣づき、手を振ってわたしのほうへ向かってくるから、転んだらいけないと近寄って手を握って、「散歩しとるの?どこいくの?」と聞いてみると、「なんもかんも忘れてまって、家がわからんのよ」と。「おまん(お前)はどこの子や?」「よそざえも(屋号)やよ。わたしが家連れてってやるで」 挨拶をしたり、野菜をもらったり、おばあちゃんとも仲の良かった近所のおばあちゃん。手を繋いだ
(というのは厳密には少し話を盛っているのだけど、) 夢を見た。あんまり思い出したくもない頃を彷彿とさせる夢で、あの頃そのもののような続きのような、妙にリアルな夢だった。 わたしは夢の中で、「やめてほしい」と伝えたのだけど、冗談のような笑いのようなもので聞き入れてもらえなかった。でもそれはわたしにとって本当に苦痛で、子どものように地団駄を踏んで泣いてしまった。 ところまでが夢で、なんとなく意識が醒めてきたのを感じながら、涙溜まってるなぁとうっすらと認識して、『これは泣いたほう
真っ暗な中、スキーリフトで山頂へと登る。 満点の星空の中を、流れ星が流れた。 空が白んでくる。 遠くの峰が浮かび上がり、雲海が覗く。 周りを紅く照らしながら昇る朝日が あまりにも美しくて、美しくて、 人の生き死にも、 太陽が登っては沈むような、 月が満ちては欠けるような、 なんてことのない巡りの一部。 なのかもしれない。と思っていた。 お父さんの死も、 なんてことない巡りの一部で 太陽の輝きのように、月の煌めきのように とてもとても美しいものだったのだと、思う。
『お父さんの最初で最後のお願い』 父は、わたしのすることに何も言わない人でした。今思えば、言葉が少ない父の全肯定だったけど、言葉が少なすぎて関心がないのか?と感じるほどでした。 大学入学と同時に地元を離れたわたしは、連絡をマメにとるタイプではなく、業務連絡のようなものを時たま母にするだけ。 そんなわたしが父に連絡するのは、大学の授業初日にバス停が見つからずに半泣きになったとき(父がタクシーの存在を教えてくれました!田舎の郡上ではタクシーは珍しく、電話で呼ぶものだから、駅に
父が亡くなって、あっという間に一ヶ月が経ちました。そして、7月8日は父の64歳の誕生日でした。 父のいない実感がないまま、月日だけは流れていきます。 お父さんに会いたい。見守ってくれてるとか、そばにいてくれてるとか、そういうのじゃなくて、生身のお父さんに会いたい。声が聞きたいし肌に触れたい。お父さんのぬくもりが恋しい。 20年、30年先に、当たり前にいるはずだった人がいない。積み重ねるはずだった思い出がない。生活の端々でそれらを感じるたびに、言葉にし難い虚しさに飲み込
令和5年6月4日。父が他界しました。 去年の10月に食道癌が見つかり、7ヶ月間の闘病の末、63歳で生涯を終えました。 父のこともあって、3月末までを予定していた島根での生活を1月末までとして郡上に戻り、2月からは退院した父と暮らしていました。 とても濃密な4ヶ月間だったように思います。 お父さんが病気になって初めて、お父さんのことが大好きだということに氣がつきました。 寂しい、悲しい、その奥の奥の奥にある “愛しい” を感じて、たくさんたくさん泣きました。 突拍子のない
約2年間の島根LIFEを終え、地元である岐阜県郡上市へ帰ってきました。 家庭の事情で、急遽今年から田んぼと畑を自分主体ですることになりました。 田んぼは、大きな機械をもつ親戚のおじさんが田植えや稲刈りをしてくれるので、日々の水の管理や草取りがわたしの仕事です。 畑は祖父母が野菜を育てていた畑なので、敷かれている防草シートを剥がせばすぐに使えると思っていました。 が、そうは問屋が卸さず…。 石が大量に入っていたので、まずはそれらを取るところから始めています。 気にせず使
春の嵐が止んで青空が広がったから、アズキナを摘みに散策に出た。 にょきにょきふさふさとわたしを待っていてくれたけど、アズキナ摘みは子どもの頃以来。 どんな葉っぱか覚えてもいなかったのに、見ればわかるんだから、不思議。 小気味よくポキッと採れる感触に、あぁこれが楽しくておばあちゃんに連れられたんだな、と子供の頃を懐かしく思い出した。 仕事から帰ってきた母に、アズキナを摘んできたことを伝えると、「仏壇には飾った?」と聞かれる。「初モノだから飾っておいで」と。 この感覚は暮らし
10月。5年間ずーーっと聞けなかったアルバムを、ふとかけてみた。 涙が溢れて溢れて、止まらなかった。 誦じて歌えるほど繰り返し聞いていた。 メンバーの人によく可愛がってももらって、大好きだった。 友人から譲り受けた車にも偶然コピーされていて、2年間聞こうと思えばいつでも聞くことができた。 それなのに、不自然なほどにスルーしていたのは、人生で一番辛かった期間に失ってしまった、すごくすごく大切だったものが、その頃に詰まっていたから。 その曲がアラームだった頃があった。 大
美術館は、苦手な場所でした。 23歳の誕生日、当時付き合っていた人と金沢の21世紀美術館へ行きました。 その頃のわたしは、義務感や罪悪感の下で生きていて、自分にも、人という生物にも価値がないんじゃないかと思っていました。 アートなんて何になる?そんなことよりももっとやらなきゃいけないことがたくさんあるのに! 美術館を回るほどにモヤモヤは大きくなり、全く楽しめませんでした。彼は聡い人だったから、きっとわたしの不調に気づいていただろうな。 自分の気持ちを把握することも、それを
仕事が終わってくたくたになって家に帰ると、すでにご飯ができている!! なんていうことが、日常的にあります。 このときの嬉しさといったら…! 先日は休みだったシェアメイトが、手作りの肉まんをつくってくれていました。 疲れた体に染み渡る、心まで満たされる肉まんでした。 自分のためにつくってもらうごはんの美味しさは社会人になって知ったように思います。 子どもの頃はお母さんがつくってくれることが当たり前だったし、大学生になって一人暮らしをしているときは料理が苦でもなかった
10年くらいぶりにマックへ入った。 なんだかわくわくしたし、レシート番号が誕生日で嬉しかった! ✳︎ 久しぶりに会った友達たちが「おかえり」って言ってくれる。 帰る場所があることがありがたく、居る場所ではないことがすこしだけさみしくもある。 地元の岐阜も、大阪も、山形も、島根も、ずーーっと住んでいたいくらい大好き。いつだってどこにいたってそれぞれが恋しい。 でも身体はひとつだから選ばざるをえなくて、すぐに生えてくる根っこを引っこ抜きながら、今日もさよならをした。 贅沢な
10月のはじめに、半年ぶりに実家へ帰省しました。4月に島根にきてから、忙しかったのもありなかなか帰れず、やっと、念願の、待ちに待った、時間でした。 母とふたりで、地元のカフェに行ったとき、 「こっちに帰ってきたら、お店やりたいんよね〜」そういうわたしに、母はごく自然と 「いいやん。なんのお店?」と返しました。 わたしが二十歳だった7年前は、二言目には反対ばかりの母でした。 アメリカへ一人旅へ行くと言ったときも、ヒッチハイクを始めたときも、大学を卒業したら恋人と暮らしたいと
昨日は稲刈りでした。 手刈り少しと、ほとんどはコンバインで。 稲を刈る「ザクッ」という感触はなんとも言えない気持ちよさ。 稲刈りのときにいつも思い出すのは、小学生の頃の『田んぼの学校』という授業。 地域のおじいちゃんおばあちゃんに、田植えから米の収穫までを教えてもらいました。 今振り返ると、どのおじいちゃんもおばあちゃんも張り切っていました。本領発揮と言わんばかりに、やいやいと孫たちに世話を焼いていたように思います。 気づけばもう、20年近く前のこと。 あの頃元気だったお
吉本ばななさんの『愛しの陽子さん』を読んで、日々の記録を書いてみようと思い立ちました。 ゆるゆると。なんでもないとくべつな日々を書けたらいいな。 9月29日 4月に島根に引っ越して、5月から住んでいる会社の寮には、4人のシェアメイトがいます。 昔は蕎麦屋だった建物を改修したこの寮はとても広く、共同生活、5人暮らしといっても、個室はあるしお風呂場に加えてシャワー室もあるし、キッチンはコンロが4口もあれば、洗濯機は2台ある…といった具合に、のびのびと暮らせる。 一部屋に5人分の