「只正しくあろう」と必死になると
自身のようにとりわけ才覚もなく、示す手段もなく、たまたま集まってくる情報が周囲に言わせると「なにそれ?」ってものばかりで、なんとなくその道を進んでいるのかな?と言うような、某ゲームの『元ソルジャー(自称)』的な「『自称』ライトワーカー」というとても中途半端な立場だと、自身の役割、能力を自覚することができずに「只正しくあろう」と必死になることがある。
その一つが「動物性のタンパク質」動物の肉、魚、たまご、乳製品、はちみつなどを食べないということに躍起になる現象。
自身のような類の人は「一緒にするな」って怒られるかもしれないけれど、多分次の2冊は読んでいると思う。
・はじめての日月神示 中矢伸一著(かざひの文庫)
・神との対話 ニール・ドナルド・ウォルシュ著(サンマーク出版)
日月神示の中では「四足(よつあし)、鳥も翼を腕としたら四足?は共食いになるから食べるな。」と明示されている。自身は日々の生活では食べないようにしているけれど、友人とお酒を飲むと鳥貴族へ行ってしまうため、完全に菜食にはできていない。
殆ど食材を自身で調理して食べているけれど、たまにヴィーガン向けのカレーなんか、加工食品は成分表を一つ一つ見ていくものの、こんな世界なので結局なにが混ざっているか判ったものではない。特に摂取が困難だと感じているものはカルシウムで、動物や魚から摂らないならサプリでって言っても、サプリだって何から作られているか判ったものではない。
植物性でなんとかするなら、黒ごまにカルシウムが含まれているというのを見たことがあるけれど、植物が無機物を作り出すことは難しいのでは?と考えているから、きっと土になった動物から吸収したのでは?とか考え出すと何も食べられなくなる。
こんな苦労をしている人、結構いるんじゃないのかな?
この週末、この食生活のせいか、暑さか、次元うんぬんの話や、お盆休みが終わりまた『生活のための仕事』に戻らないといけないという気の重さのせいか、エネルギー切れを起こした。体力的にも気持ち的にも限界って。満月が近いから気持ちが下がるのはあるけれど、今回は気持ちだけではなかった感じ。
さすがにヤバイと感じ『縛り』を解いて、ちょっと普通の人の食べ物を食べようと思い、以前は大好きで中華といえば麻婆豆腐というくらい好きだった合い挽き肉の入った麻婆豆腐を食べたことで持ち直した。
口があって、歯があって、犬歯もあるのだから肉や魚を食べるなという体の作りではないと思う。本当に食べてはいけないというものであれば、そういう体の構造になっているはずだから。
『自由意志』
食べるのも、食べないのも決めるのは自由意志。
でも、あれも食べではダメ、これも食べてはダメ、ダメ、ダメで食事をしても楽しくないのは事実。だったら『感謝して』肉や魚も少し食べたらいいのかなって。でないと、自身のような中途半端な類は健全な身体や精神が保てないと思う。
知らんけど。
ついでに瞑想についても書くと、本物か偽物かは別の話として、瞑想の理想的なというか、健康的に絞られた身体を維持して、無駄のない生活をされているような方が「みなさんも一緒に」って瞑想をされている姿は、ヨガマットに綺麗な胡座をかいて、綺麗な姿勢で両手を広げたり、お腹の前で組んだりと、お釈迦様そのものの姿勢で、数十分、長いと一時間とかマインドフルネスの状態を保っていられるのだけど、自身は無理。
何度も挑戦しているけれど、一人で座椅子にくずした胡座をかいて目をつぶると一分もしないうちに、見たくもない、記憶にもない映像が見えてきたり、いつまで経っても光なんて出てこない。それこそパリや歴代オリンピックの開会式のようなグロテスクな闇に飲み込まれていく。椅子に座った状態ではまだマシだけれども、腰から足にかけて拒絶するような電気が走って足が勝手にビクっと伸びたり、体中がムズムズしだしてとても維持ができない。
この方の先導の下なら20分程度までなら、光を感じることの瞑想はできることがあるけれど、それが本来の瞑想になっているかは謎。
この光を感じながら、自己?との対話ができる状態を維持できればいいのであれば、夜中にベランダへ出て南の星空を見ていつもいる星を確認してから、立ったまま手すりに両肘と顎をのせて目を瞑った方がそれに近い状態になっていると思う。それでも長くても十分程度が限界。
幸いなことにこの家からは大阪市内にも関わらず星?が見える。もちろんそれも考えてこの家を選んだのだけど、予想以上にちゃんと星?が見える。
同じような人はいるのだろうか。
覚えてるぞと。