【国際結婚の日常感覚】『サンバの町から 外国人と共に生きる/群馬・大泉』
分割統治 Divide and Rule のとばり
『サンバの町から 外国人と共に生きる/群馬・大泉』
上毛新聞社=編
上毛新聞社 1429円+税
ISBN 978-4-880-58015-9
1997年4月25日の参議院本会議。その3日前、17人のペルー人が死んだにもかかわらず、日本人さえ助かれば結構といわんばかりの騒ぎ(注1)に紛れるかのように、出入国管理及び難民認定法(入管法)改定案が成立した。
不法入国の摘発強化を狙うという。じゅうぶんな議論がないままの迅速な可決は、前回1989年と同様である。
雇用者罰則と日系人入国規制緩和をセットにした1989年改定は、結果として、本書の舞台・群馬県邑楽(おうら)郡大泉町を全国に知らしめた。この町の総人口に占める外国人比率は昨年、1割を超えた。ほとんどがブラジルほか南米からの日系人だ。
この地域は戦前、ゼロ戦などを造っていた中島飛行機の拠点として、戦後は朝鮮戦争に伴う駐留米軍の兵たん基地として成りたってきた。
その後一時は自衛隊誘致も検討されたが、結局三洋電機が進出する。同社と富士重工を双璧に、下請けの中小企業が町と周辺部に広がっている。
そうした企業の役員経験もある真下町長(当時)が、日系人直接雇用を発案した。これを受けて、人手不足と雇用者罰則に悩む中小企業経営者らが東毛地区雇用安定促進協議会を1989年末に結成。翌年、ブラジル政界などとパイプをもつ元自民党代議士を団長にした視察団が現地へ赴き、以後、日系人が急増した。
地元紙『上毛新聞』はこうした経緯を丹念に追う。だが、『信濃毎日新聞』による同趣旨の『扉を開けて ルポルタージュ外国人労働者の生活と人権』(明石書店 1992年)に比べて、見劣りすると言わざるをえない。
端的な例が終章の一節だ。メディアには日系人優遇に疑問を呈する傾向があるが(私にはそう思えないのだが)、移民の子孫受け入れは欧州で広く行なわれ(これ自体は事実だが)「日本が棄民同然に海外に送り出した移民の子孫たちを優先的に受け入れることのどこが悪いのだろう」という。
私も3年前に大泉町を取材したことがある(注2)。役場をはじめレストランや日本語塾、雑貨屋など日系人の店を歩きまわったなかで、こんな言葉を聞かされた。
「景気が悪くなってきたからいったん帰って、良くなったらまた来ようと思って」
「3K(労働)なんて日系人がやることじゃない。なんてったって私たちは合法なんですから」
日系人と入れ違いに追いやられた「不法」労働者、バングラデシュ人やパキスタン人、フィリピン人を知る立場として返答に窮した。帰ってまた来ようと言えることの、なんという「幸福」! ビザが出ず、日本人配偶者と引き裂かれたままの外国人も少なからずいるというのに。
同じ仕事でも日系人の半分の賃金しかもらえない「不法」労働者が、職のえり好みはできない。医療や教育など新しい問題が起きているというが、「不法」労働者にとっては最初から、より深刻に立ちはだかってきたものばかりだ。
『扉を開けて』の冒頭にこうある。
「おかしいのは『日本さえ良ければいい』という視点で、問題を解決しようとしていることである。単純労働から外国人を締めだすかわりに、日系人の入国を緩和するという血筋主義に立った発想も、この延長上のナショナリズムでしかない」。
「共生」とか「国際化最先端」という聞こえのいい言葉と裏腹に浮き彫りにされるのは、日系人もしょせん日本人の都合で動かす対象にすぎないという現実だ。それではいけないという市民の認識が少しずつでも広がってきたと私はとらえてきたのだが、やはりナイーブすぎただろうか。
注1 1996年12月17日に発生したペルー日本大使公邸占拠事件が、4カ月あまりを経て、同国特殊部隊の突入作戦で収束したのが1997年4月22日だった。
注2 主たる発表先として、Chie Sekiguchi: “Settling In?”, LOOK JAPAN, Look Japan, Volume 39, Number 455 (1994), 4-7.
初出:『週刊読書人』1997年5月23日号(2186号)、境分万純名義「日系人さえ日本人の都合で動かす対象にすぎない現実」を改題。