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禅僧の言葉①~夢窓国師語録
伊福部隆彦氏((a.k.a.無為隆彦)の「老子眼蔵」が読みたいのだけど、地元の図書館にないし、古書で4万円以上もするので手が出せません。代わりと言ってはなんですが、図書館には「禅僧の言葉」が所蔵されていたのでコレを借りて来ました。こちらも昭和32年発行でとっくに絶版となっている古~い本です。読み始めから引き込まれる!こちらも古本で3万円以上する希少本(著作権切れ)ですので、こうなったら自分が読むついでにnoteにシェアしてしまおうと思いました!物好き~。読みながら入力すると私のアタマにもinputされやすいのです。ではでは、私と同じく物好きな人、お楽しみくださいませ。
(しかし、旧漢字・旧仮名遣いで記されているため、入力しようにも読み方がわからずに苦心すること多し。旧仮名遣いの一部は現代仮名遣いに変換して記載します。
夢窓国師語録
一、悪魔について
序説
われわれが真の道を行じ不懐の得を身につけてゆこうとする時、その精進心が強ければ強いほど、ある危険にさらされる。それは似て非なるものをつかみ易いということである。知らずして入ってゆく邪道である。それが邪道であると知ってではなく、それを正道と思って墜ちるのであるから危険である。そのものはまことに正道に見えるのである。自分に見えるだけでなく、道を得ない他人にもそう見えるのである。これを仏教では天魔と言い、この道を魔道と言っている。
われわれが道へ精進心をもつ限り、この道を明らめなければならない。そうでないと真の大道をその身に行じてゆくことは出来ない。真の大悟に到ることは出来ない。
魔に二種あり、内魔と外魔となり。魔王魔民等の外より来りて、行者をなやますをば外魔と名づく。その魔王は欲界の第六天にあり、これを天魔と号せり。世の常の天狗などいへるは即ち魔民にあれあり。彼の魔王は三界の衆生を眷属と思へり。この故に仏道に入る者をば、これを障碍するなり。然るを則ち世事にのみ執着して、仏法修行の等閑なる人は、生死を出づることあるまじき故に、天魔これを障碍せず。(第一段)
魔は皆飛行自在を得て身より光を放ち過去未来のことを知りて、仏菩薩の形を現じ、法門を説くこと弁論滞りなし。涅槃経の中に云はく、阿難一日外より来る。その途中にして九百万の天魔、皆仏身を現ずること釈尊に異ならず、各々法門を説きて互いにそしりあへり。阿難茫然として本師世尊はいづれともわきがたし。その時世尊これをかがみて文殊に勅して神呪を誦せしむ。天魔みな退散すといふ。阿難なほ迷惑する事かくの如く、況や愚人をや。天魔よく仏身を現じ仏説をのぶ、況や余形を現じ余事を説く事、何の妨かあらんや。世間に花をふらし光を放つとて、これを貴しという者あり。魔道に入ること疑いあるべからず。」(第二段)
かように外魔の来りて悩ますことはなけれども、もし行人の心中に煩悩を生じ、悪見に著し慢心を起こし、禅定にふけり、或いは二乗心に堕して独り自ら出離せんことを求め或いは愛兒の大悲に往して利生を好む。皆是れ無上菩提の障りなるが故に、すべて是れを内魔と名づけたり。或は病患によりて道行を退転し、或は業縁にあって身命を滅ぼす故、道行を成ぜず、皆是れ魔境なり。或はけしからず道心の起こりて、暫時のいとまも惜しく、悟のおそき事のなげかしきによりて、日夜に涙のこぼるることのあるも魔境なり。又日にそえて懈怠の心のみ増長して、たまたま修行せんとすれども、不食の病ある人の食に向かえるが如くなるも魔障なり。善知識を信ずることの甚しき故、其の糞を食し其の尿を飲むとも、いとはしからぬことあり、これも亦魔障なり。貪瞋等の煩悩の強盛に起ることも魔障なり。煩悩の生ずるを怖れてなげきかなしむも魔障なり。かようの魔障の起ること、或いは行者の用心の邪なるによりて生ずることもあり。或いは用心真正なる故に、諸障の滅せんとして発動することあり。たとへば燈の消えんとする時光を増すが如し。いずれの篇にても、驚動の心なくば謬り有るべからず。」(第三段)
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この一文は「仏法を行ずる人、ややもすれば魔道に入ると申す事はいかなる故ぞや」という質問に対する夢窓国師の答の一節であるが、この魔についての国師の見解はまことに学道人の熟読玩味すべき好文字である。
私はこの文を三段に分けて講義をしたい。まず第一段は冒頭より「天魔これを障碍せず」まで、第二段はその次の「魔は飛行自在を得て」よりの阿難の話の一段、第三段は次の「かやうに外魔の来りてなやますことは」より終わりまでとする。
さてこの魔論の中で私たちのまず、注目すべきは魔は仏道に入る者だけを障碍して世事にのみ執着するものには関係しないということである。
私にもはじめはこのことがわからなかった。何も仏道に入らなくても悪魔は我々に現れると思っていた。我々が邪行悪業を為すのは悪魔の仕業といってもよいではないかと思っていたのである。しかしこの考えはなお真の悪魔を知らない故に起こる考えであって、我々がこの世界によってあらわされている真の道、(仏教ではこれを仏道と言い、老子はこれを無為と言い儒教はこれを明徳と言い、わが神道ではこれを惟神と謂う)を行ぜんとする場合以外には決してこの魔道には墜ちないのである。このような神聖な道を行ぜんとする時でなくして我々が墜ちるのは、餓鬼、畜生、地獄の三悪道である。そしてこのことは何を語るかというに、魔道とは神聖な道と甚だ似てしかも非なる道であるということである。
魔道に我々が墜ちるのは、我々に根本精進心がないからではない。むしろその根本精進心があるために迷い墜ちるのである。だから魔が我々に現れ出すということは既に我々が一歩正道に入ったことを証するものとも言われるのである。
このことを私が最初に聞いたのは先師生田長江先生からであった。
当時先生は釈尊伝の執筆のために釈尊の電気をご研究になっていたのであるが、ある日先生は訪問した私を顧みて、惑に堪えない面持ちで仰ったのである。
『悪魔というものは面白いですね。人が正しい悟の道に入るや否や現れるもので、しかも修行の最後までこれから離れないものなのですね。
例えば、釈尊の場合の如きでも、ご出家に先だって、悪魔から誘惑されるという経験をお持ちになったや否やは知らないが、ともあれ、一度世俗の生活を弊履のごとく捨て去り、より厳粛な求道生活へお入りになったや否や悪魔から誘惑を受けられるようになり、しかもいわゆる影の形に添う如く付きまとえる悪魔からの誘惑は、ついに八十年のご生涯のご入滅近くまで止まなかったということです。
しかもこれは釈尊だけでなく、イエス・キリストの場合も全く同じなのだから面白いではないですか。
(続く)
転載しながら気づいたこと。物忘れ症状が進行中の母の見守りを妹弟・義妹、そして母の妹である叔母も参加しておこなっているのですが、そんな中さまざまな葛藤が生じてきます。noteにこの「禅僧の言葉」を記していくのは、私が正気を保つための大きな支えとなる作業です。
ではまたすぐに!
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