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禅僧の言葉②~夢窓国師
試みに新約聖書を出してマカ(※おそらく「マルコ」の誤植と思われます)、ルカ、マタイ等の諸福音書を調べてみたまえ。イエスも亦彼の先輩である洗礼者ヨハネからヨルダンで洗礼を受け、いわゆる聖霊に満たされ、天上からの御声にも祝福されて、その宗教生活の険難な行路に第一歩を踏み入れたや否や直ちに「御霊に遣わされて」「又は導かれて」「野に行き悪魔に試みられ四十日」にまで及んでいる。
しかもその誘惑の内容までがよく似ているのです。
釈尊の場合には悪魔は釈尊がいよいよ出家を決心して遂にその妻子眷属と昨日までの栄華とを後にして夜中ひそかに王宮を忍び出で、カビラバツツの市場の門を外にくぐりぬけられた時、その出家を邪魔しようとして空中から声高に言うのです。
「太子シッダールタよ、出家の障害を贈ろうと企てたもうな、今から七日の後、貴下は転輪聖王とおなりでしょう。あなたの権勢は四大洲全世界にも及ぶでしょう。直ぐにもこれから貴方の王宮へお引き返しなされませ」と。
イエスの場合はルカ伝によると悪魔が彼を高い山に連れて行って、一瞬の間に世界の国々を示して、「このすべての権威と映画とをお前に与えよう。儂はこれを委任されているのだから儂の好きな者にこれを与えることが出来るのだ、だからもし儂の前にひれ伏したら、これらの物悉く皆お前のものとなるのだ」と言っている。
しかも釈尊もイエスもこの場合この誘惑にのらずこれを否定してしまわれた為に悪魔は退散したが、しかし彼らはこれに懲りず共に最後までその誘惑の手をゆるめはしなかった。
このことを想ってみても私は思うのです。世上の人々が他の求道者を批評する場合に、「あれもまだそんな誘惑なぞに悩まされているようでは一向に人間が出来ていない」とか、または「あの男もいっぱし信念が出来ているようなことを言うくせに、今もってそういう馬鹿な誘惑に苦しんでいるなぞとは誠に理屈に合わない話だ」とか、いうような言い方をするのは、それこそ理屈に合わない話であり、甚だ没分暁というべきである。
また自分自身の宗教生活を御大層なもののように吹聴して「俺も若い時分にはそうした誘惑なぞにも多少覚えがないでもないが、この頃じゃ大抵の誘惑というようなものはまあまあ卒業してしまったようじゃ」というような大口を利く老人連なぞも折々見かけるが、こういう連中こそ、実際にはまるっきり人間が出来ていないので、こんな白々しいことが平気で言えるのです。」
先生の話は大体、上の如きものであった。
先生の以上の話の内容についても一言したい。釈尊とイエスに悪魔の言ったこと、そのことは決して普通の常識において間違った道ではない。転輪聖王になるということは世界の国々を支配するということそれらのことが決してとがめられるべきことではない。唯この天地の道を行ぜんとする宗教的生活として、それらがとるべからざる道であるに過ぎないのである。これが夢窓国師の「世事にのみ執着するものには魔はこれを障碍しない」と言われる所以である。
次に第二段についてであるが、さて悪魔なるものは、われらへの現れは、何時でも、そして必ず悪魔としては現れないのである。それなら何として現れるかというと神として、神の顔をして現れるのである。
「魔はみな飛行自在を得て身より光を放ち、過去未来のことを知りて、仏菩薩の形を現じ、法門を説くこと弁論とどこおりなし」というのがそれである。
飛行自在にして身より光を放つ、人々が神と思わずには居れない姿相ではないか。過去未来の事を知る、やはりそれは神と思われることではないか。仏菩薩の形を現じて法門を説くこと弁論とどこおりなし、いよいよ神と同じではないか。
しかも、これは決して愚かなる人々に対してのみではない。立派な修行者の上にもこのように現れるのである。そのことをこの第二段の阿難の話がわれらに語っているのである。
九百万の天魔が皆釈尊にことならず仏身を現じて各々法門を説いてそしり合い、どれが真の釈尊やら阿難にもわからなかったというのである。
この事実はおそらく阿難の上にあったに違いない。われわれが真剣に修行精進していくとき、真の道がいつもひとつだけ現れるならばわれらに悩みはない、然るに実際は聞く道ことごとくが真の道と思われ、見る道ことごとくが真の道と見えるということはあり得ることである。
道元禅師はその宇治の興聖善寺における最初の上堂の時に「ただ是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞せられず」という語を述べておられるが、この眼横鼻直とは眼は横に切れており、鼻は真直ぐについているという、まことに極く平凡な事実であって、この平凡な事実をしっかりと認識して疑わないということであるが、しかしこれはただ、眼と鼻だけのことではない。この世にあらわれている諸相、自分の前にあらわれるところの諸相をそのまま肯定してそこに生きてゆくということであるが、事実はなかなかにそれが認められない。すべてこちらの都合のよいようにものを見たがる。なかなかに眼横鼻直とゆかない。時には眼が縦に見て鼻が横や斜に見えるのである。
道元禅師はそれをあるがままに見られた。それは眼と鼻を見られたのではない。禅師の前に現れるものをその現れる相においてそのまま迷いなく見られたのである。色即是空、空即是色それを超えて、色即色、空即空と見られたのである。老子の言葉で言えば無為の荘厳を見られたのである。そこには既に何の迷いもなく迷わさすものもなく迷わされることもない、そこで「瞞せられず」と言われたのである。
しかしこのことは、この境涯に来られるまで禅師が迷われており、また迷わされておられた消息をも伝えているのである。
即ちこの境涯を把握されるまで、九百万の天魔に迷惑されたこと阿難とおそらくは異ならなかったであろう。
国師は「阿難なほ迷惑する事かくの如し、況んや愚人をや」と言っておられる。阿難は釈尊の愛弟子である。その阿難すらそうである。況んやわれわれにおいてをや。
なお国師は言われる。「天魔よく仏身を現じ仏説をのぶ。況や余計を現じ余事を説く事の何の妨からんや」と。
このこともまた実際である。阿難においてそうであったようにわれらの上にも、このことはしばしばある。
況や他の形においてわれらを迷わす神変不可思議は随所にこれを見るのである。国師はこのことを「世間に花をふらし光を放つとて是れを貴しというものあり、魔道に入ること疑いあるべからず」と。
世間にいわゆる淫祠邪教はいつでも真の正しい宗教の形をもってあらわれること「皆仏身を現ず」の国師の言葉のとおりである。
なおこの問題については道元禅師の語録の中、神通を論じたところで詳しく述べるはずである故ここには略する。
(第三段へ続く)
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