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エゴを手放す 〜レスター・レヴェンソンの教え〜

1966年 5月19日録音

(※この記事は推敲しないまま公開しています。今後少しずつ修正など加えていく予定です。)

(レクチャーを)始めるにあたって最も良いのは、まずは全体像を示して見せることだろう。何度かこのレクチャーに訪れたことがある人にとっても大切であり、初めて来た人にも同じく重要となる、道先を示してみせることだろう。

すべての哲学者が命題としてきたことであり、また心理学者たちが見つけようと努力してきたこと、さらには医学の分野においてさえ求められてきたものであり、そしてもちろん宗教界が求めてきたのはすべて、実際、異なる角度からの同じ問いへの答えである。

すべての人が答えを求めている。そしてもし我々が求めているものが何なのかという問いをふるいにかけたとしたら、それには様々な別の名前が付けられるだろう。

霊的探求者はそれを真理と呼び、哲学者は知識または理解と呼ぶだろう。

しかし皆が求めている基本的なことは、非常に単純だ。それは幸せだ。

その幸せとは、絶対的幸せであり、神秘的でもなければ遠くにあるものでもない。そして複雑さは全くない。

あらゆる存在は純粋で単純な幸せを追い求めている。一点の悲しみも含まれていない幸せを。

だから我々の向かう先に、私が最もベストだと思う呼び名は「絶対的幸福」だ。

絶対的幸福とはもちろん、私たちの存在における絶対的真理であり、宇宙の真理だ。

そして真理は当然、ひとつしか存在しない。

従って我々は皆が、この、一点の悲しみもない、ずっと続く幸せを追い求めている。

世界中のほとんどの人々は幸せが見つかるはずのないところで幸せを探すという間違いを冒している。従ってそれを得ることは出来ない。その結果、極端に不満が募っていく。なぜなら、それが得られると思っている場所で求めれば求めるほど、そこにはないということがだんだんわかってくるからだ。

幸せどころか、さらに不満が募っていき、ますます惨めになってゆく。

今日、我々はこれまでになかったほどの物質を手に入れている。そしてこんなにも不幸だったことはない。少なくとも私の知るここ50年において。

この究極の幸せを追求する時に、必然的にもっとも重要なことがひとつある。それは「幸せとは何か」の指標である。そしてその後に「どうやってそれを手に入れるか」という方法だ。

そして先に言ったように、それは非常にシンプルだ。

真理、幸せ、神、それはシンプルだ。

もしシンプルでないなら、それは神ではないし真理でもなければ、幸せでもない。

人間の無知によって作られた人工的な複雑さだ。

もう一度言っておくが、この、私たちの今いる道のり全体がとてもシンプルなのだ。

この絶対的幸せを見ることを妨げている一番最初のことは、我々のエゴという感覚である。

この絶対的幸福、それはすなわち私たちのゴールなのだが、この一点の悲しみもない絶え間ない幸せを得るのを妨げているたった一つのものは、私は一個の個人であり、他とは別であるという分離の感覚なのだ。

この分離の感覚を身に着けたとたんに、分離感はますます大きくなってゆく。それが究極の絶対的幸せから私たちをどんどん引き離していく。我々は最初、皆がその絶対的幸福の中にいた。それから我々は、自らのことを限界のあるマインドと限界のある身体だと信じ始めるようになっていったのだ。この体はあまりにも限界があるので、酸素や食べ物やいろいろなものが必要であると信じるようになった。

最終ゴールであるこの究極の幸せは、決して我々から離れたことはない。それは常にずっと我々のなかにある。しかしそれは限界と分離という概念によって覆い隠されてしまっている。そこからさらにこの概念を積み上げていき、限界という概念であまりにも一杯になった今日の状態にまで至ったのだ。

我々の求めている絶対的幸福は、我々の本来の状態である。それは全ての人類の生まれ持った自然な状態なのだ。

我々の本来の在り方である、この絶対的幸福の状態に至るには、この幸福を見るのを邪魔している、我々自身で築いた障害物を取り除きさえすればよい。

本来は限界のない存在で在る我々の上に、我々は際限なく限界というものを積み上げてしまった。

従って、道のりはこのように単純である。

生まれつき限界のない存在である我々は、無限の喜びを持っているにも関わらず、それを制限という感覚で覆い隠している。その制限とはエゴと呼ばれる。

我々は、いま私が伝えたことを再発見しなければならない。再び見つけるのだ。

それはそこにある。常にそこに在る。

ではどうすればそれを再び見つけることが出来るのか?

まず第一に、この道のりに至る方向を指し示してくれる誰かが必要だ。誰かに道を示してもらわねばならない。

第二に、我々はその方向を見なければならない。そして自分自身でそれを発見しなければならない。誰もそれをあなたに与えることはできない。あなたが自分で見なければならない。自分自身の心の目で最後まで見通さなければならない。

そうして見通せたなら、我々はずっと常に自分がそうであったのだと再び認識するだろう。無限の喜びをもつ制限のない存在であったことを再び発見するだろう。


さて、その方向は内側を向いていなければならない。それは外側にはない。

外側にあるものは全て、我々が夢でこしらえてから、リアルという名前を付けたものだと知るだろう。

この世界、この宇宙は、我々が夢に見ているものである。そしてこの夢をあまりにも長い間受け入れ続けたために、これがリアルだと思い込んでしまっている。

だから、やるべきことは、意識を内側に向けて、あらゆることにおいて、何が真実であるかを再検討してみるのだ。そして再び見出すのだ。そうするにつれて、世界が虚偽であり幻想だということが見え始める。

方向性を内側に向け続け集中することによって、我々はこの無限の存在であることがわかる。

よって、道のりは自ずとふたつに分かれることがわかってくる。一つは我々はこの無限の存在だということを見通すこと。そして二つめは、この無限の存在に覆い被せてきた制限を徹見し、それを手放すこと。

もう一度言っておこう。

この無限の幸せに到達するには、自分たちの進む方向を内側に向け直すこと。自分でそれを引き受け、内側に入り、この素晴らしい、限界のない、常に変わらず喜びに溢れる我々という存在を再び見つけること。

そこに至るのにどれくらいの時間を要するかを決めるのはたったひとつだけだ。

それに対する熱意の集中度だ。

もし自分の喜びはこの世界の中にあるのだと思い込んでいたら、決して絶対にこの幸せを達成できないだろう。我々はずっと惨めさを抱えることになるだろう。

しかしもし喜びが我々の自然な状態であり、外の世界とは何の関係もないのだということを受け入れたなら、それを実体験していくにつれ、人生はより喜びに溢れるようになり、確信を得てさらに正しい方向に進んでいくことが出来るようになるだろう。

初めに我々をこの道に向かわせるのは、惨めな状況に陥ったからのように思えるかもしれない。あまりにも間違った方向に進んでしまい、もうこれ以上耐えきれなくなるのだ。

この惨めな状況のせいで、この世界にある幸せ以外の何かを求めるようになる。

探求の成果を受け取り始めるにつれ、今まで経験したことのない喜びを感じ始めるだろう。すると、この道のりで感じるその単純な喜びこそが、正しい方向へと促す原動力となるのだ。

そしてまた、もし本当に最後まで到達したいならば、この道のりはパートタイムの仕事ではないことがわかるだろう。

我々は何世紀にも渡って余りにも長いこと、誤った方向に向かっていた。従ってその方向を正しい方向に向け直すには、超人的な努力が必要なのだ。

もう一度言うが、このプロセス全体がシンプルだ。

我々は自分達が探し求めている無限の、限界のない喜びそのものなのだ。我々が自分たちが探し求めている神なのだ。

それを見つけるには内側に入らなければならない。

もし見つけたなら、それがわかる。そしてそれを離さないだろう。そうしてあらゆるエゴの観念を手放していくプロセスを継続するだろう。そして存在の完全に最高の状態に達するまで、それをやめないだろう。

私がここにいるただ一つの理由は、手伝うことだ。もし手伝うことが出来ないなら、ここにいる理由はない。

ここにいる我々全員が、この探求の道のりで既に長い時間を過ごしてきたことを知っている。

私はテーマについて語るという立場にはいたくない。テーマについて語ることは、この道のりの障害となる。ここで必要なのは、それぞれが前に進み、確信を持って進むことだ。もしそれが起こらないならば、私がここにいる理由は何もない。

私が話すことはほぼ全て、あなた方がどこかで読んだ様々な本の中に書いてあることだ。何ら新しいことではない。真理というテーマは永遠に存在してきた。真理は常に変わらなかったし、これからも同じ、変わらないままだろう。

それらと違っているのは、違っていて欲しいのは、ここで何かが影響を及ぼすことだ。何かが起こって、我々がここに来る前に理解していたこと以上に、理解が起こることだ。

私が述べていることに対する一般的な名称は、アドヴァイタ、または英語ではノンデュアリティと呼ばれている。またそれはワンネスと翻訳されることもある。

成長のためには、たった一つの方法があるだけだ。そしてその方法とは、我々のエゴを手放すことなのだ。

エゴとは分離の感覚だ。

「私は個人である」

私が個人となった瞬間に、私は全体から切り離される。このエゴという感覚から、あらゆる問題とあらゆる思い違いが始まる。

我々は、ひとつのものであることを再び見ることが出来る場所へと立ち戻らなければならない。

真理においては完全なる覚醒へと進化することはあり得ない。それは我々が現に今、これまでずっと、そしてこれからも永遠に、無限の存在である神、自己であるからだ。我々がそうでなくなることは不可能だ。

我々は、それなのだ。
我々は「在りて在るもの」”I AM THAT I AM”なのだ。それは変わることのない我々の一部なのだ。

我々はそれを、切り離された個人であるという感覚で覆い隠している。

成長はエゴの感覚を手放していくことからなる。

ここでのミーティングを通して、これまでよりもエゴを手放していくことを私は期待している。

今ここで、我々はその無限の存在なのだ。

「この無限の存在である私は、限界のあるエゴである」と言うことで、自分を盲目にしている。「無限の存在である私は、無限から分かれた存在だ」と自分に対して言っているのだ。その観念を変えなければならない。それを手放すんだ。

私は、我々の中で作用しているエゴを感知する方法と手段をはっきりと示したい。我々がエゴを動機にしている時に自分でそれだと気づけるようになるための方法と手段だ。エゴに動かされるその都度、それを手放す方法と手段だ。

少しずつエゴを手放していこう。ここから最終地点までそうし続ければ、やがてはもはやエゴが残っていないところまで辿り着ける。

エゴのない所。がいるのはそこだ。

純粋で、まっさらな存在である無限の自己がいるのは、そこだ。

覆いを取り去るだけなのだ。

現時点での我々の状態であるエゴという感覚が無くなれば、より高次の領域に成長するための何百年という時間を省くことが可能となる。

より高次のアストラル界、コーザル界、または最も高次元の領域では、我々はまだある程度の分離とエゴの感覚を保っている。今よりも高位のところにある高次の体という感覚が必要となる。

我々の今いる状態における最も素晴らしいことのひとつは、それが我々を一直線にホーム、最高の地点まで帰ることを可能にしてくれるという点なのだ。

複数形の神々”gods”や天使ですら、我々が成し得ることを達成できない。エゴという感覚を完全に取り去ることで、我々はゴールを達成できる。

最も高みにある教えを、私はもたらそうと試みている。高いところから始めたい。もし真理を知りたいと望んでいるなら、真理のあるところから始めて、そこから考えなくてはならない。

ほとんどの人がリアリティだと考えている世界の虚偽や嘘からは、真理に達することはできない。

もし我々がこの世界から始めて、もっと高いところにある真理に到達しようとしても、それは単に失敗に終わる。なぜなら嘘から始めたところで、真理には到達できないからだ。

我々は真理から始めなければならない。

そして真理は絶対的な”ONE”である。不変のものである。変わらないもの、それが真理である。

もし変わるものなら、それはそもそも真理ではない。真理は不変である。

考え始める時には、無限の一であり全てであるところから考え始めるのだ。

そこから進んでいくにつれて、エゴを見るための様々な方法が表れてくるだろう。ここでは一般的な方法として、私が話したり質問に答えたりすることは余りしていない。私が質問に答えるときは、いつもその質問に対する答えがあなた方の内側からやって来るようなやり方で答えてようとしている。そうする時、質問者の背後にあるエゴが表にあらわれる。

また時には質問を自己の中に放り込む。そうすることでそのような回答が、単に質問に答えるよりも質問者が自身で考えることを刺激するのだ。残念だが、我々が皆知っているように、問いに対して、自分の代わりに誰かに答えてもらうことはできないのだ。一人一人が自分の問いに自分で答えを見つけなければならない。

従って質問に対する私の答え方は、時には奇妙に思えるだろう。それは直接的でなく、遠回しなことがある。または挑発的なこともある。しかしその目的は、その問いを持っている者に、エゴの動機づけまたはエゴそのものを明らかにすることにある。

そうすれば、その者は自分で見て取れるし、それを手放す選択が出来るからだ。

私がここにやって来て座った時、私にはただわかる。私には確信がある。あなた方は既にそれなのだと。そして私が持っているこの確信の度合いに応じて、あなた方が同じ程度の確信に至るための手伝いをすることができる。

その確信をもった状態にある時、我々はそれが認識出来るはずだ。それは非常に高い意識状態であるとわかるはずだ。しかしそれをエゴの世界と比較することは不可能だ。

それは穏やかで静謐であり、大きな喜びの状態である。何か行為している、何かを所有しているという感覚は無である。

ただ幸福であり、存在している。

その体験を、完全でそれだけになるまで確立していかねばならない。それが完全な悟りとして言われているものである。

またもうひとつの学ぶべきことは、あらゆる神秘的な要素を排除するということ。

なぜならこれは基本的にとても単純なことだからだ。

あなたはそれである。

それでないものになろうとするのをやめなさい。

これが基本的な学びである。

もし本来のそうである状態を認識できれば、我々はそれがそこに留まっている場所に到達できる。そうなれば、我々は自動的に行動し、所有し、話すようになる。我々はもはや行為や所有やその他の行いと自らを結びつけることはなくなる。

しかし最も効果的なのは、サイレント・ティーチング、沈黙の教えだ。グル達が授けているのはこの種の教えなのだ。ほとんどのグル達が肉体にいて教えないのはそのためだ。

彼らが肉体にいる状態では、我々のほとんどが彼らとエゴを結びつけてしまうからだ。

彼らが肉体として私たちに見えている限り、彼らは食べたり眠ったりするだろう。しかし彼らが肉体でいない時、私たちは彼らのことをより正しく評価できる。そして彼らは、私たちが受け入れられる程度に応じて沈黙という方法で教えを授けようとする。我々は自分たちの態度に応じてそれらを受け取るのだ。

それは思考の渦の中身を蒸留するようなものだ。思考を鎮めるのだ。もはや思考が無くなった時、それがリアライゼーションと呼ばれる。

あらゆる思考はエゴがその動機となっている。エゴがなくなった時、そこに思考は無い。

思考し、何かを必要としているのは、全体性から分離したエゴなのだ。

我々が全ての存在としてある時、必要なものは何もない。もし欲求が生じたら、もし何か持っていないものがあるとしたら、それはエゴである証拠だ。我々が手放す必要があるのは、エゴなのだ。


〈了〉

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