幸福への道② レスター・レヴェンソン
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〈最高の状態〉のところから言えば、私たちは、自分自身しか助けることはできない。他人を助けることは、実際は自分自身を助けているに過ぎない。存在しているのはあなただけだからだ。いずれあなたにもそれがわかるだろう。
また、分離を見ていることについて。
各人が自分の身の上に生じることに完全に責任を取らなくてはならない。
私がどうにかして手伝うことはできない。
一見、私があなたを助けているように見えたとしても、あなたが得る助けとは、あなた自身が自分に対して行うことだけだ。
あなたは彼(レスターは自分のことを「彼」と言っている)の言うことを聞いて「ああ、彼の言うことは良さそうだ、やってみよう」と考える。つまり自分でそうするのだ。誰かがあなたを助けるのではない。誰かがあなたを助けることはできないし、また傷つけることもできない。これを知っておくことは良いことだろう。
言っておこう、求める前に既に受け取っているのだと信じなさい。聖書にそう書いてある通りだ。
祈る時、既に祈りは応えられたのだと知りなさい。既にそうなっているのだと。望むものはすべて即座に手に入ってくるだろう。それほどの信仰を神に対して持っているなら、祈りは即座に叶えられる。もしまだそれほどの信仰がないのなら、最善を尽くして、自分が知り得る限り一番良いやり方で祈りなさい。
あらゆる祈りの中でも最も願うべき祈り、それは、知恵を求める祈りだ。心の唯一の働きは創造なのだ。心はその中に保持するものを作りだす。そして心はnotやnoの否定形は理解しない。
「猿のことを考えたくない」と言えば、猿のことしか考えられなくなる。「病気になんてなりたくない」「事故に遭いたくない」と言う時は、それらについて考えている。そうやってそれを作り出す可能性を生んでいる。
だから、事故に遭わないようにと願うのではなく、安全について考えるのだ。病気について考えるのではなく、健康を思うのだ。
これがいわゆる〈実証*〉における最大の弱点となっている。人々は否定的な物事について考える。これは欲しくない、あれは望ましくない、などなど。そうやってそれを創造している。(*レスターは「現実化」という言葉を使わない)
望むことだけを思いなさい。決して望んでいないことを思ってはならない。
望むことだけを考えていれば、得るものは望むことだけになる。それほど単純なことなのだ。簡単ではないとしても、シンプルなのだ。
もし欲するものについてのみ考えることが出来れば、それだけを得るだろう。
カルマとは習慣的な行動のことだ。過去の習慣だ。カルマとは無意識の心の領域だ。
無限の存在である私たちは、カルマを超越できる。カルマを解決することは出来ない。なぜなら一つの行為を解決することは、同時に、似たような行為を未来に生じさせることになるからだ。定義上、カルマを解決することは不可能なのだ。あらゆる行為が未来にその結果を生じさせるからだ。過去の行為を正そうとしている間に、未来に向けてのカルマを作り出していることになるのだ。したがって、カルマを解決するのは不可能である。
カルマはエゴのために働いている。
カルマはエゴのための法則だ。
一旦、私たちが自分とは何ものかを知ってしまえば、カルマは作用しなくなる。もはや存在しなくなる。
いつかはこれを理解できる地点に達するだろう。カルマからほんの一歩、上に踏み出せば、そこを超える時が来る。その時カルマはもはや存在しない。
〈最高の状態〉から見てみれば、それほど単純なことなのだ。私は〈最高の状態〉という言葉を用いた。(ここでレスターはtopという言葉を使っている。レスターはよく、top, ultimateという簡潔な表現を用いてその境地を表している)
論理的思考を用いる時は、毎回、真実のところから思考し始めるべきだ。真実のステートメントを述べなければならない。そうすれば全てはシンプルになる。
「神はすべてである」
「神は完璧だ」
これがシンプルなステートメントである。そこから思考をスタートさせなさい。それから抱えている問題を見てみなさい。問題は必然的に消え去るだろう。そうなるはずなのだ。
真実から始めなさい。物事はシンプルだ。
もし複雑だとすれば、それは間違っているのだ。複雑さは、エゴの領域にはまってしまっているということだ。
エゴが肥大するほど、複雑さが増してくる。 神は単純であり、エゴは複雑だ。
カルマは私たちの思考の中で生み出される。
行動は思考の結果に過ぎない。まず最初に思考があって初めて行動が生じる。そうだろう?
カルマは思考の中で作り出される。
行動ではなく、私たちが採用する思考がカルマの起因である。
行動はいったんその行動をとってしまえば完了する。しかし思考は留まり続ける。
私たちが今いる時代はカリ・ユガと呼ばれている。この時代は非常に長く続いていて、大半の人々は無気力な状態にある。一見、おとなしく平和で従順なように見えるが、これは実際、無気力な状態なのだ。
ラジャス、つまりエネルギッシュな状態とは、遥かに高いレベルにある。私たちがそのエネルギッシュな状態に向かい始めると、それまで無意識の中に抑圧していた欲求や望みを表現し始める。
そしてそれらが表面に浮かび上がってくると、物事が悪化しているように見える。なぜならそれまで無自覚でいたのが、今やそれを実行したくなるからだ。怒りを感じたら誰かを殴りたくなって喧嘩を始めるかもしれない。
それはまるで間違った方向に進んでいるように見えるだろう。しかし、それはより高いレベルに向かっているということなのだ。
アルジュナは戦いたくなかった。だが彼は戦わねばならなかったのだ。
戦えないとき、戦わなければならない。
戦うことができるなら、戦う必要はない。
自ずと結果が生じるだろう。
もし戦うことができるなら、あなたはそのとき既にエネルギッシュな状態の上のレベルに移行して、精神的により平安な状態に向かっている。
平安な状態に至れば、あなたは戦うことが可能だが、それを望まなくなるだろう。なので、もはや戦わない。
従って無気力状態から上のレベルに移行すると、時にはその人の性格が悪い方に変わってしまったように見えることがある。しかし、そうではないのだ。より表現できるようになったということなのだ。それまで無意識下にあったものを表に出せるようになったのだ。
(参考1:行動のスケール 底辺から順にApathy無気力→Grief悲嘆→Fear恐れ→Lust貪欲→Anger怒り→Prideプライド→Courageousness勇気→Acceptance受容→Peace平安
怒り、怒りっぽさは、無気力状態よりもずっと高いレベルにある。最高の状態は平安である。無気力、怒り、そして平安。この3つの間に、様々な度合いのレベルがある。
(参考2: BLACKさんのnoteにホーキンス博士の意識のレベルについての詳しくわかりやすい記事があります。ホーキンス博士はレスターから集中的に学んでいた時期がありました。)
ジーザスであれ誰であれ、あなたが師と仰ぐ完全に覚醒したマスターと、常にともにいることは可能である。それが本当か試してみるといい。これらのマスターは偏在している。彼らは私たちがいるところに常にいる。彼らにコンタクトするのは今すぐ可能なのだ。彼らは接触するのが難しい存在ではない。
彼らは常に私たちに向かって働きかけている。私たちが彼らに向かって働きかけるよりもずっと積極的に私たちに働きかけている。あなた方はもっとオープンになって彼らと接触しなければならない。
最も最高の神聖な仲間として、完全に覚醒した存在と共にいなさい。次に最高な仲間は、聖人や覚者と呼ばれる存在達だ。そして日常においては同じ道を歩む人々と一緒にいるのが良い。あなたが目指すことと同じ方向を向いている仲間だ。
しかしベストなのは、最も高みにいる存在に触れることである。最高の存在と交流することは可能だ。誰か他の人々といる時ではなく、あなたが独りでいる時に、それが可能となる。だから、独りでいることが出来るようになればなるほど、より良いのだ。