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禅僧の言葉④~夢窓国師

二、再び魔について

序説 これを対治するの方法

 われわれの大道修行において魔はつきものであるということが、わかればこれを如何にして対治するかという問題は学人の知らなければならないことであろう。
 われわれはこの問題について国師の言うところを訊こう。国師は如何にしてこの魔を対治するかをわれらに教えるか。「魔障もしおこらん時は、いかが対治すべきや」という問題に対して国師は次のように答えている。

 禅宗の学者、もしよく教外の玄旨は各々円成して、知愚の勝劣もなく、今古の移易もなきことは信ぜば、たとえ日来にかわり余人にまされる道徳智用ありとも、皆是れ幻妄なりと知って、これを執着すべからず。古人の曰く、たとえ一法の涅槃にすぎたるありとも、斬って三段とすべしと云々。自性天真の如来を信ずる人は、三身四智をも貴しとせず、蠢動含霊をも賤しとせず。たとえ身上に相好を具し、脳後に円光を生ずとも、奇特の想を為すべからず。もしよくかようならば、内外の諸魔何ぞその便りを得ることあらんや。

 この一条はどういう考えからをもっていたならば外魔が来らぬかということを説いているのであるが、すなわち教外別伝たる禅宗の本旨を体認して、この世界にあらわれている一切のものは、それぞれその本来の面目を発揮しているのであって、そこに本質的な価値の等差というものは存在しないということ、そしてそれは古今に変わりないということを真に信じているならば、たとえ日来に変わった、且つ普通人にまさった道徳智用があらわれても、それらは皆これ幻妄であることを直ちに知ってこれに執着してはならないというのである。

 これについて古人が言っている。
 「たとえ一法の涅槃にすぎたるありとも斬って三段とすべし云々」と。

 如何にその法がたとえ涅槃にすぎるほどの素破らしい法であっても、そのようなことに騙されてはならない。よろしく三段に斬って棄つべしである。真に坐禅によって自己の中に天真の如来を見出している人は、どのように貴くかつ尊く仏のごとくあらわれているものをも別に貴しとしないし、また虫けらのようにあらわれているものも賤しいとはしないのである。即ちそのあらわれによって価値の区別をしないのである。それはたとえ、その身体の上にすぐれた相をあらわし、またはその頭背に円光を生じても、それによって奇特であるというような思いをしてはならないというのである。 
 そしてもしこのようにしたならば内外の諸魔は決してどこにもそのたよりを持ち得ないというのである。

 この実例として国師は次の逸話を述べている。
 昔唐の道樹禅師が三峰山に住していた時のことである、奇(あや)しい着物を着た不思議な人間がやってきて、何時も禅師のいる庵のあたりを徘徊するのであった。
 しかもその異人は、ある時には仏菩薩の形をあらわす時もあるかと思うとまたある時は天仙、最上の仙人の姿をあらわす時もあり、またある時は不思議な光明を身から放つときもあり、或いはまた不思議な言葉を出すこともあるというようなわけで、凡そ十年もそういうことが続いたのであるが、そのうちにとうとう見えなくなってしまったというのである。

 これに対して道樹禅師が、その弟子に対して言われるのに、「この十年の間、天魔がやって来て儂を迷わすためにいろいろに変化して見せたけれども、儂はただ不見不問をもってこれに対した。どんなに彼が変化に自由だといっても彼の変化には極まることがあるけれども、儂のほうの不見不問には極まるということがない。そこでとうとう彼のほうが敗けてしまって退散してしまったよ」と。

 この話をあげてから国師は更に言うのである。
 是れ則ち魔を降ずる秘術なり。ただ魔境のみにあらす、一切の逆順の境に対する時も道樹禅師のごとくならば、道行自然に成ずべし。達磨大師の、外に諸縁を遂わず、内心喘ぐことなく、心璃壁のごとくならば道に入るべし、と仰せられたるも此の意なり。ただ平生の歴縁対境(※1)のみならず。臨終到来の時もまたかくのごとくならば、業縁に転ぜらるることあるべからず。黄檗禅師の伝心法要にいわく凡夫臨終の時、但観ずべし、五蘊皆空にして四大無我なり、真心無相にして不去不来(※2)生の時性また不来、死の時性また不去、湛然円寂にして心境一如なり、但能くがくのごとくならば、則ち是れ出世の人なり、もし諸仏来迎し種々の善相ありとも、随い去る心を現ずべからず、もし諸々の悪相の現ずることありとも怖畏を生ぜず、心を忘じて法界に同じからむべし。即ちこれ臨終の要節なりと。

 まづ道樹禅師にあらわれた天魔についてこれを述べたい。話は面白く外魔の所行となっているが、これを外魔とのみ考える必要はない。そういう変化が、道樹禅師の庵のほとりを徘徊したかどうかを考える必要はない。これを禅師の心理的消息と見るところに天魔の意味がよりはっきりとしてくるのを覚えるのである。

 禅師はこれに不見不聞をもって対したというけれども、もし真に不見不聞であったならば、この話そのものがある筈がない。禅師は見て見ぬふりをし、聞いて聞かぬふりをしていたのである。見たけれども、それによって心を動かすことをせず、聞くは聞いたけれども、それによって心を動かさなかっただけである。

 既に見て、心を動かさず、既に聞いて心を動かさぬとはどういうことかと言えば、見て心が動こうとし、聞いて心が動こうとしたのを動かさなかったということであって、既に心の動こうとした消息を伝えているのである。

 このことは禅師がその修行過程において、神変不可思議な神通力に誘惑されたことをわれらに伝えるものである。そのような神通力が真の道ではないかということを想ったことを語っているのである。それが菩薩の形を現じたというのは、禅師にそれが菩薩の道に見えたことを意味するのであり、それが天仙に現じたということはそれが外道であると見たということであり、それが真実の道か外道かそこに迷いをもつこと十年に及んだのである。

 しかも禅師はかく心のどこかに迷いながらも一方教外別伝直指人心の最上乗道への確たる信仰をもって、それらの外道的怪異に魅了されることなく不見不聞をもって修行し切ったのである。そしてこのような態度が降魔の秘術である。

 これを達磨大師は「外に諸縁を追わず、内、心喘ぐことなく、心、墻壁のごとくならば道に入るべし」と言っておられる。言う意味は外の何ものにも、内のなにものにも、心をとらえられることなくあったならば道に入られるというのである。

 このようなのは平生の態度であるのみならず、臨終の時にも、また是くの如くであったならば、業縁に転ぜられる(われわれの行為の因縁によって成仏出来ずに六道の輪廻から脱しられぬ)ことはないであろう。黄檗禅師の伝心法要という書物に次のようなことが書かれている。

 凡夫が臨終のとき、五蘊(色、受、想、行、識の五つ即ち下界)は皆実態のない空であって四大(自分の身体)もまたほんとうの自分ではないと観ずべきである。そして真心は差別的な相のないものであって、それはわれわれが生まれた時に来たのでもなく、又死ぬときに去るものでもない、悟り見れば生死を超えてしづかなる涅槃として厳然としてある、そしてそれと一如たる心境に到達する、もしこのような心境になり得たならば、これで正しくこの世に生まれ出た甲斐のあった人というべきである。
 
 しかもこの臨終において、もし諸仏が迎えに来られ種々の善い相があっても、それに魅されて随い去ろうとする心を生じてはならない。これはまことに注目すべき語である、諸仏を慕うこころもまた魔境なのである。われらは涅槃だとて希うてはならないのである。また、それと共にもし諸々の悪相を現じても、その為に怖れ畏れる心を生じてはならないのである。それもまた魔境なのである。ただ一切の心を忘じて、この世界と一体になるという境地にあるべきである。これが彼方(おち「将来」の意)、臨終のときの心得で、かくあってはじめて魔障を逃れ得るのである。

~~~~~~~~~~~~~~~「夢窓国師語録」の章はここまで

仏教用語になじみがないので、アレコレ調べながら読みました。勉強になるわ!

※1歴縁とは行・住・坐・臥などの日常の動き、対境とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が色・声・香・味・触・法の 六境 に対すること。 すなわち 歴縁対境 とは、日常の所作の中で感覚器官がその対象に出会うことであり、日常の心身の働きといえる。(「新参浄土宗大辞典」より)

※2不去不来」は仏教用語で、「真如・生ずることはないという存在の本質・存在の断滅・究極的に不生であること」の異名と説かれています。

https://japanese.hix05.com/buddhism4/churon03.undo.html


それにしても、臨終間際に仏(ブツだけでなく、天使や神的存在も当然含まれるでしょうね)に迎えられてもついて行ってはならないとは!
おそらく、その仏や神を信じる信念体系の層に囚われてしまうんでしょうね。

「夢窓国師語録」の章の次は、「道元禅師語録」です。ではまた!

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