記憶の行方#デッサン-常夜燈を聴いて
読んだ本の感想を書こうとすると、概ね恥ずかしさだけが、大っぴらになる、というオチにいたる。
ずっと聴き続けている作曲家の声を年始に聴く機会があったのだけれど、今年もお礼を述べられる猶予があるようで、ここは、書いておこうと、音楽初恋日記を記して、この時代はメールという手段があったな、と、メールを送ることにした。
直接、言いなさいよ!と、言われそうですが、いやぁ、目の前にいたら、なんもいえません。もしも、zoomでつながっても、しどろもどろでまったく話せないだろうと思う。静かに聴くという事態。何を話すか台本を作るという気恥ずかしさにもほどがある。
メールは、はた迷惑なことでは、と、躊躇しては、下書き保存。
なかなか送れず、今にいたる。
しかし、勢い余って、メールを送信。
誤送信、何通か書いていたけれど、送るはずないものを送ってしまった。
取り返しがつきません。
って、ならないように、しないと。
しかし、送ってしまったな。
個人的なこと。とても大事な人が傷ついて、それに何か私が出来ることがあるのか、わからないのだけれど、ひとまず、音楽を聴いてみたり、踊ってみたり、くだらないコントを考えたり、三文芝居を続けていた。
自然の音のレンジは、幅が広いので、外に出て、公園を散歩すると、空間認知する時に、ひゃあー外の世界は広いんだよな、と、当たり前のことを感じる。
音楽がその幅広いレンジであったとしたら、もしかしたら、大混乱するのかもしれません。
自然の中で、人間が発する音は、人へ向けられたもの、もしくは、動物に向けたもの。自然に向けたもの。だったりします。
音楽と音は明確に違うのは、聴いている人がいるのは、音楽。聴いている人がいないのは、音。だと思っていましたが、
待てよ、と、奏でている人が聴いている人でもあり、音楽は、音楽であり続けるんではないかな。
トレッキングすると、山には、こわさがある。自然にのまれず、登るとき、自分のステップと鼓動でリズムが生まれる。
こだまするのは、体内だけのことではない。
リズムというのは、体内リズムであったり、自分の呼吸であったり、音韻感覚を捉えるまでに必要なことで、音を捉えることが、文字や言葉を捉えることとつながっているのではないかと、最近よく思っていること。
鳥の声と森のざわめき、こどもの頃、森だと思っていた場所は、小さなお山のある庭だった。
時間も経てば変化もしている。
外を歩く醍醐味はそんなことで、変化を楽しめることが、同じ時を生きていることのおかしみで、音楽もそんな楽しみ方ができたらよいな、と、思う。
「その色は何色?その赤は朱色と誰が決めるのか?」
まあ、面倒そうなおじさんだなぁと振り返ったら、やっぱり面倒な人(井川先生すみません。お世話になっております。)で、そんな問いを投げかけてきた人がいた。とあるキャンパス入り口にミニ庭園を作っているときのことでした。
山へ(自分の庭)出向いて、腐葉土を集めて、72年式のワーゲンで運び、車で入っちゃいかんと事務局のお兄さんに笑われる。
「あー、すみませーん。」と、お互いに知らないふりをして突っ切る。小芝居は、時には、笑いに変わる。
ススキは、なびき、水瓶には雨水が溢れる。
「あのー、僕の名前はジョンです」
背後から話しかけてくる人は、ジョン・レノンの丸メガネをかけており、しかし、黒髪のお兄さんで、話しを聞けば韓国からの留学生。
牛乳パックから、再生紙を作って、ペーパークラフトを作っていると、工房におじゃましたら、ジャズを歌っていると酔いどれのお姉さんがおり、「いらっしゃい」と、all of meを歌い始めた。天井から部屋の壁一面に紙がつなぎ合わさっていた。韓国の紙と、見せられたものは、日本でも使用されている障子紙と質感は似ており、紙が何から出来るか探れば、共通するのは、当たり前で、つながるとは、そういう瞬間なんだな、と、思う。
ススキが枯れる頃、オブジェを何事もなかったかのように、片付けていたら、どうやらフランス語で話しかける人がいる。
「メルシー、メルドー……」知りうるフランス語を並べて話す。翻訳機使えばいいものを。
ヤンさんは、フランス語ばかり話す。熱い長文の手紙、解読するのに時間がかかった。うれしいんだが、ヤンさんの作ったオブジェは石像で、タイトルが長くて、難解だ。
そうやって、それぞれの熱を形にした。私は、ある激しさを祈りに変えられたらよいな、などとは、後付けで思うだけで、そんなことは、実は何も考えていない、作りたいだけだ。
そんな中で偶発的に会う人々は面白い。
書くことで、乗り越えゆく道が描けることもある。