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スライド式復活劇
よくがんばってるね。
と、言ってくれる人がひとりだけいた。
他人からの心ない言葉にまみれ、認めて欲しいという他人の赤ちゃんみたいな欲求を投げつけられ、他人の怒りにビクビクしながら過ごしていた自分は、少しだけ優しい世界で小休憩できた気がした。
もう少しがんばろう。
これは全て修行なのだ。
耐え抜く度に楽になれたじゃないか。
そう思えた。
人間関係において一番楽になれる方法は、「他人に期待をしないこと」だと広く知れ渡ってきている。
心ない言葉を投げかけてくる人にこちらが心なく言葉を投げ返しても受け止められる余裕はない。
赤ちゃんみたいに「ボクすごいでしょ」って認めて欲しがる人に、「私のことも認めて」って訴えてもポカンとされる。
怒りをぶつける人に怒りをぶつけ返したら、最悪の場合殺し合いになりそうだ。
こんなやりとりにエネルギーを費やすほど無駄なことはない。
一方的にそれらを受け止めておき、少し耐えたら優しい世界が別で用意されている。
最近、ようやくそれが実感出来てきたので、少しだけ生きるのが楽になった。
少しだけ、だが。
時々、想像もつかないところで優しさに触れる機会に恵まれる。
いや、優しくない世界に身を置き続けているからこそ、そう感じられるのかもしれない。
「もう少し自分に優しくしてあげたら」と度々言われる。
「何の修行やねん」とも突っ込まれる。
自分に優しくするとは?
優しくない世界から逃げ出すことも、自分に優しくするということになるのだろうか。
思いを正直に伝えるのも、自分に優しくするということなのだろうか。
わからなくなってきた。
優しくない世界に身を置くことが当たり前になっていて。
この厳しい修行に耐えることが人生の試練ではないのか。
絶望の直前で、いつも誰かが救いの手を差し伸べてくれる。その誰かは救っているつもりなどないのかもしれないが、私にとっては修行に耐えたご褒美だ。
もう少しで抜け出せそうな気がする。
だってもう11月が終わる。
こんな、根拠のない期待を明日の自分に託す。
今日の自分と明日の自分は別の人間なのだから。
きっと、きっと、だいじょうぶだ。