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【短編小説】塩化ビニールに包まれてダンス

以前、文学系投稿サイトで発表していた創作物を加筆修正して再掲しています。 以前投稿していたサイトからは削除してあり、現状この作品はnoteのみで発表しています。


チリチリ

 チリチリした音、と言ったってそんな感覚的抽象的な言葉は理解しにくい。

 塩化ビニール製の円盤に溝を掘り、マイクと連結してある極小の針でその中をこする事で刻まれた音を再生する、この円盤の事をレコード盤、または単にレコードと言う。

 そのレコードが再生される時の音と言うのがチリチリしている。

 音楽のジャンル自体は何でもいいのだ。クラッシック音楽でもヘヴィメタルでもヒップホップでも民謡でも落語でもパンクでもチリチリ感と言うのはレコード独特のものであってどんな音を再生しても同じなのだ抽象的感覚的に。

脱線

 ちょっとパンクについて脱線してみると、一言で簡単にパンクパンクと片付けてしまうのはたやすいが、実は現代においてこれほど細分化されてわかりにくくなっている音楽ジャンルも他にないのではないか。
 まぁ、もともと英米で勃興した異常な性急さを体現するロックがその源流とされるわけなのだけれど、このオリジナルのパンクがやや勢いを失ったり、世間に日和ったり、クスリでおかしくなったりして行くと、性急の上を行く性急もはや、性急さだけを純粋培養したようなハードコア・パンクと言うものが現れる。
 外見的にはモヒカン刈り(スカしてトロージャンなんて呼ぶ奴もいる)、あるいはオリジナルパンクでさえもツンツンと尖らせていた髪を更に長く伸ばして槍の様に固めて尖らせるという危険な髪型、スキン、七三、まぁいろいろでとにかく性急というキーワードさえあればあとは何でもアリみたいな文化なのであって、こういうものは非常に発展しやすい。
 こうして性急の上に性急を純粋培養したハードコアの性急さを更に進化させてもう性急しかなくなってしまうところまで突き詰めたのがグラインドコアという事で、1曲0.5秒なんてすでに曲の体裁さえとられていない、1枚のアルバムに100曲も収録されていて全部聴き終わるころにはちょっと気がおかしくなりかけていて、果たして自分は何を聴いているのか?これは音楽か?全部同じじゃねぇのか?こいつらこれ全部再現できるのか?仕舞には考えること自体が億劫になって「星がきれいに輝いている」なんて逃避思考からの「もう、俺はだめだ」という絶望に至り、悟りの境地で首を括るという者が世界中で大量に発生した。か、どうかは存じない全くの無責任な放言では有るけれども、少なくとも俺は首は括らなかった。けれど「もう、俺はダメだ」とは思ったことが有るし、首を振りすぎておそらく脳を損傷したのだろうけれど、気がおかしくなってしまった女を知っている。
 ああ、あの女、元はすごく無口で大人しかったのにひょんなことからハード・コアの連中とツルみ始めてから変貌し、やがて顔面が蒼白になり、更に唇から色がなくなり、ある日路上で首を振りながら奇声を上げ走り去る後ろ姿を見かけたのを最後にこの界隈では見かけなくなった。その後は知らん。

ループするチリチリ

 唐突だが、ここで問題にしたいのはグラインドコアによる絶望ではなくてチリチリの音である。

 通常はレコードに針を落とすと録音された音が再生される。
 わけだが、そこそこ深い傷がレコードの端っこの無録音エリアに近いあたりに絶妙な角度でついていたりすると、針はちょっとの間チリチリした音を鳴らし、傷に沿って逆戻りしてまたチリチリをリピート、いつまでたっても録音した音は再生されずにチリチリがエンドレスで再生されていく。こんな素人の私でさえこういう状況を体験しているので、塩化ビニール盤においては割と頻発する事態だと言える。

 素人の私だから「あ、針飛びだ」で終わりだけども、音楽を演奏し、それをレコード化して飯を喰うプロフェッショナルの中でも更にマニアックな人と言うのはこれを逆手に取る。
 レコード片面の再生が終了し、最後の無録音状態になったところでその無録音状態の部分の溝を一つの輪に繋げてしまうという工業的な細工をするのである。この細工によって録音物としての本来の仕事を終了した後もレコードはチリチリをループしていく。
 自動昇降機能が付いたレコードプレイヤーであっても針は持ち上がらないのでいつまでたっても終わらないレコードに、聴き手は「おんや?」と首を傾げることになる。
 製作者はそこでニヤリ。

ニヤリ

 製作者は製作者でニヤリとしたかもしれないが、私は私でニヤリとしたのだ。


「これはいい」

 とある音楽家のレコードを聴いていてそんな細工を見つけた私は、肝心の音楽よりもそのエンドレスで流れるチリチリのループに憑かれてしまった。

 目を覚ませば音楽は聴かずにチリチリを聴きながら洗顔朝食歯磨き自慰行為をして家を出る。

 昼はそれまで社食を利用していたのだけれど、それ以降はチャリを飛ばして10分で帰宅し、炊飯器からしゃもじで白米を掬い、直接口に放り込んでから食塩を舐めて昼飯とし、その間もずっとチリチリを聴いている。

 仕事が終われば即座に帰宅、足裏の脂にまみれた薄汚い廊下を這いずるように進み、自室に籠ってチリチリを聴く。

 オーディオセットを浴室に持ち込むとうっかり感電死する可能性があるので、自室に置いたまま浴室に届くような大音量でチリチリを流しながら風呂場で自慰行為をする。

 自慰行為は風呂場なら事後処理が楽だ。

 ただ、あまりの大音量に時折近所から苦情が来たり、短気者が村中に響き渡るような、しかし内容は全く聴き取ることができない怒号を浴びせてきたりするのだけど、私は無視した。

 ひたすら無視した。
 すると警察官がやってきてきてこの奇妙な音の源泉を確認させろと言う。ターンテーブル上でくるくる回り続ける塩化ビニールの円盤を指さす私。エンドレスで鳴り続けるチリチリ。

「なるべく音は小さくね」

警察官は小さく笑い、そう言い残して帰って行った。

 チリチリが聴きたくて正直晩飯はどうでもいいのだけど、食事はきっちり摂らないと栄養失調になり遂には聴覚に異常をきたして音が聴けなくなってしまったら一大事である。
 安い豚バラ肉をブロックで買い込み解体した上で冷凍保存し、それを毎日少しずつ解凍、塩コショウを振って焼き、チューブわさびを塗ってウィスキーと共に流し込む日々がずっと続いた。

 それは今でも、チリチリに憑かれてからずっと。ずっと。続いているのだ。

 私の聴覚はチリチリをひたすら追い続け、チリチリをひたすら聴き続けた。そうしなければ耐えられない。正直食事なんぞどうでもいい。チリチリを聴き自慰行為があってこその生命である。
 自慰を繰り返しチリチリを聞き続けることこそが人生である。

 そして私は職を辞した。20年務めて表彰された12日後の深夜に残業を終え、一人残ったオフィスで退職届を苛々と殴り書いた。
 それをデスクの上にきっちり直角並行を保つように整えて置いたのだが、少し目を離すとなぜか直角並行が崩れている。何かを重しにしなければならない。私はまず、ベルトを緩め、ズボンとパンツを引き下ろして足を抜き、机上に片足をかけて一気に体を持ち上げた。
 その際、股間にぶら下がっていた陰嚢が机の角を掠めた。
 危なかった。
 しかし自らの強運により事なきを得た私はいよいよ勢いづき、書いたばかりの退職届の上に跨って脱糞した。その重量により書類の直角並行は守られているようだった。
 概ね良し。
 次に隣のデスクの女性社員が椅子に掛けたまま忘れて帰ったピンク色のカーディガンで尻を丁寧に拭いた後で自慰行為をし、そのカーディガンに精液を吐き出して私は帰路についた。

 退職による収入減を補うため、飲食は最小限にとどめるようになった。それに伴って排泄の量もそれに関わる時間も短縮されていく。
 その短縮された時間を最大限に使って私は存分に自慰をした。極限までシンプルになった私の一日は常にチリチリと共にあった。そして自慰とともにあった。
 素晴らしい。
 うつくしい。
 どこまでもシンプルにどこまでも繰り返される塩化ビニールと金属の摩擦音。

 そして自慰。

 最小限の睡眠を摂っていたある晩、熟睡していたのだが、なんとなくチリチリのヴォリュームが小さくなっているのを感じた。いや、確かに音はしているのだが、それは頭蓋骨の中でやや反響している感じの遠い響きでいつものザラりとしたリアリティが不足している。

 私は枕元に置いた携帯電話のかすかな光を頼りにターンテーブルに近づき、のぞき込んで腰を抜かした。
 何という事だ。
 もうだめだ。
 圧倒的な人生最大の危機失望絶望と一気に押し寄せてくる腐臭。
 内臓が発火すると同時に皮膚が凍って私という亡骸の中で全てが灰になる。

絶望

 ターンテーブルが停止している。

 買い替えている猶予はない。
 金銭的にではない。
 金なんか強盗でも空き巣でもしてなんなら見知らぬ通行人を嬲り殺して奪えばいい。
 金なんてものは世間に溢れている。
 ただ失職した私の手元に無いだけの事である。
 有るところから奪ってくれば良いのだ。

 不足しているのは時間だ。

 こうして逡巡している間にも自らの精神崩壊を感じるというのに、ターンテーブルを買い替えるなんて悠長な永遠ともいえる長期間、チリチリから離れることは無理。
 それはイコール自慰の封印も意味する。
 死よりも辛い。いや、死は別に辛くない、辛いのはチリチリと自慰の喪失でそれは唯一絶対的辛苦である。

どうすればいい。


どうすればいい。


全くわからない。

ダンス

 ただ、少しだけ救いがあるとすれば私の頭蓋骨の中でまだ微かに、弱々しくチリチリが鳴っていることだ。

 私はターンテーブルに乗っていた塩化ビニールの円盤に向けて自らの頭部を打ち付けた。通常ならそれはあっけなく割れてバラバラになったであろう。しかし、私の燃え上がる肉や内臓の高温でそれは割れずにぐにゃりと変形し、中央を起点としてまるで丼のような形で私の頭部を包み込んだ。

 ターンテーブル中央のレコード盤のセンターホールを差し込む突起が私の額にめり込み、その衝撃のおかげでターンテーブルが再び回転を始めた。私は安堵した。
 私は脱力し、頭を持ち上げる気力もない。
 ターンテーブルが凄まじい力で回転していく。
 私の首はその回転に連れて曲がり、捻じれる。

 全身の痙攣を感じる。
 体が飛び跳ねる。

 懐かしのポゴダンスが脳裏に蘇る。

 一旦跳ね上がっていたターンテーブルのアームが私の後頭部に落ちてきて、その針が。
 小さなその針が突き刺さった。

 そしてチリチリは戻った。
 ターンテーブル上でパンクのダンスを踊りながら私は最後の自慰行為に耽った。

 射精と同時に私の体内から炎が皮膚を溶かして噴出し、頭を包み込んだ塩化ビニールと共に私の肉を熔かした。

 私の下半身は最後にもう一度大きくジャンプした。

(了)

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