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黒髪を切る迄 20


 信江さんの勤める会社はさくらクリーンサービスと言ってね、十年程前から事業を開始した中堅どころの清掃会社なの。桜をイメージしたその会社のロゴマークを私も以前から時々街で見掛けたりしてたものよ。
 挨拶もそこそこ、とにかく信江さんの後についてK病院の中に足を踏み入れたわ。裏口の狭い通路を通ってロビーに出たのよ。正面入り口から見て反対側の奥の方ね。先ず第一に人の多さに驚いたわ。
 元々が整形外科病院だったからね、松葉杖の人とか腕を吊った人とか怪我を治しに来ている人が多くて、それを支える家族たちでロビーには人が大勢いたわ。ここは外来の受付とか薬局なんかが並んでいるから待合室みたいなものね、野戦病院みたいだなんて言ったら大袈裟だけど、あまり病院とは縁のない私にとってその雰囲気はちょっとした異世界のようなものを感じさせてくれたわ。市民病院や赤十字病院はなんだか厳粛なムードに覆われてホテルみたいな印象を受けたものだけど、ここは町中の駆け込み病院みたいな雑多な空気に包まれていたわ。同じ総合病院でもそれぞれ違うカラーを持っているのね。そういえばどことなく建物の内観も古めかしくて、昭和の匂いがしてるみたいだった。
 人がたくさんいるエントランスやロビーそれに診察室などは、夕方人がいなくなってから清掃作業をするらしくて、信江さんともう一人のおばさん、名前は木村さんというらしいの。彼女たちは車から降ろした清掃道具などを積み込んだワゴンを押していたわ。その後をついて私もエレベーターに乗り込んで、五階のフロアまで上がったの。
 ナースステーションに会釈をして、信江さんたちは廊下の奥へと進んで行ったわ。ここまで来るとさすがに人影は少なく、病院らしいしっとりとした消毒液のような匂いが薄く漂っていて、リノリウムの床には午後の淡い光がほんのりと反射していたわ。
 このフロアにある病室は個室が多いみたいで、ドアの横にあるネームプレートは一人分の名前が書かれているだけだったの。ドアをコンコンと2回ノックして「失礼します。お掃除させていただきます」と信江さんたちは声を掛けて入室して行ったわ。私は病室の中には入らずドアの外で待機するだけなの。掃除道具や洗剤などを積んだワゴンは廊下に置いて必要なものだけを持って彼女たちは部屋の掃除に取り掛かっていたわ。
 信江さんが言ってたところによると、作業内容は主に消耗品の補填や床面の拭き掃除、それからドアや手摺りの消毒、そしてゴミ袋の取替などを行うらしいの。これは毎日行う通常清掃とのことで、主に使うのはモップとタオル、あと、自由箒て言うのかしら、ほら学校でもよく見た、ホッケーなんかして遊んだ柄の長いT字型のほうきとか、そんなのを使っていたわね。
 とにかく驚いたのは彼女たちの手際の良さよ。無駄な動きは一切無くて二人のコンビネーションがとても良くてね、テキパキと作業をこなして行くの。それでいて顔つきはにこやかで時折り患者さんから話しかけられると笑顔で受け答えしてるの。
 廊下の隅から室内の様子をチラ見してると時々出入りする看護師さんたちにすれ違ったりしたわ。市民病院の一件がトラウマになっている私はその度にカラダを固くしたけど、運良くワゴンに取り付けられていたチェックシートみたいなものを手に取って確認しているふりをしてたから、特に問題なく通り過ぎて行ったみたい。胸に研修中の名札も付けているしね。
 だいたい一室の清掃を五分もかからずに終わらせて、また隣の病室へと移動するのよ。信江さんたちはワゴンの中にある洗剤やモップを新しいのに取り替えたりしながらさくさくと各部屋を回るの。私は各病室のネームプレートを確認した後は手持ち無沙汰になるので、移動の際に信江さんと相談して廊下の手摺りを専用のタオルで拭いて回ることにしたわ。消毒スプレーみたいなのをひと吹きして乾いたタオルで拭き取るだけなので、簡単な作業なの。それでもゆっくりと丁寧に拭いて回ったのよ。
 そんな風にして、五階が終わると四階に降りて、また廊下の端の病室から清掃に取り掛かるの。今度は四人部屋が多くてね、私もそれぞれ作業しながら移動して回ったわ。ワゴンを押すのも交代でお手伝いさせていただいたわ。知らない人にはちゃんと清掃見習いに来てる新人さんに見えたのかしらね。このフロアでは患者さんもわりとよく廊下を歩いていたから少し気になるわ。
 廊下を行き来するのは患者さんや看護師さんだけでなく付き添いに来ている一般の人もたくさんいたのよ。年配の方から若い人まで、さまざまだった。たまにこちらをじっと見てくる人もいたりしてドギマギしたけど、特に何も話しかけられずにトラブルも起きなかったから良かったわ。
 そして同じようにして三階のフロアを回り、一旦外へ出て休憩しますと言われて、ようやく緊張の糸が解けたわ。二時間? いえ、三時間近くはかかっていたかな。病室がいくつあったかなんてもう数えてなんていられなかった。でも全て一通り見て回ったから、もう私の用件はそれでおしまいだった。
 建物裏の駐車場に戻ると、信江さんから「お疲れさん、とりあえず病室はこれで終わり、どう? 何か役に立った?」と訊かれて、私も「お疲れさまでした、変なお願いしてしまって申し訳ありません、本当にありがとうございました、とても助かりました」と言って深々と頭を下げたの。
 信江さんは仕事の疲れも見せない明るい顔で「そう、それは良かった」と笑顔を見せてくれたの。
 用件が済んだ私は、胸の「研修中」の名札を外しながら、まだこの後も作業は続くのでしょ、いいのかしら私、大して何もお手伝い出来なくて、申し訳ないわ、と言うと、彼女は「気にしない、気にしない、こっちは仕事だから、慣れてる」って、なんか彼女は薫のママ友だけども、ほんとにいい人!
 おまけにもうひとりのおばさん、木村さんから、ほい、おつかれって、缶コーヒーを手渡されて、はあ、嬉しいやら申し訳ないやら、感謝いっぱいの気持ちで、K病院を後にして、その日は帰って来たのよ。

 それからあっという間に三日が経って、あれこれ考えを巡らせたのだけれど、ようやく私は決心を固めたの。ここまで来たら行動しない訳にはいかない。覚悟を決めたのよ。
 抱えてた仕事をなんとか午前中に片付け、クローゼットの中を引っ掻き回して、淡いクリーム色に花柄模様のワンピースを手に取った。それにオールシーズン用の軽いコートを腕に引っ掛け、車に乗り込んだの。
 まずはショッピングモールへ。あれこれ迷ったけど、地下の名店街で地元で人気のある洋菓子屋でマドレーヌの袋入りをひとつ買った。箱入りでも良かったのだけど、あまり大袈裟なのもね、気が引けるし、何気なく手に取れる方が良いかなと思って。状況も行ってみないと分からないから。
 そして再び三日ぶりにK病院の駐車場へ降り立ったわ。
 でも今回は裏口からではなく、正面玄関から自動ドアを通って中に入ったの。エントランスロビーはやはりそこそこの人で溢れていた。良いのか悪いのか判らないけど、よく賑わう総合病院だと思ったわ。昔からある和やかな雰囲気でいい感じにザワザワしてたわね。冷たい感じはしなくて、何か温かみを感じさせる笑顔の花みたいなものがあちらこちらにちらほら舞っている、そんな印象を受けたわ。
 受付に寄って所定の手続きを済ませて、エレベーターに乗り込んで三階へと向かったわ。
 ナースステーションに一声かけて、廊下を右折し最奥まで歩く。一番南側にある病室の前で足を止めて、もう一度確認する。三日前に見たのと同じネームプレートがそこにあった。

 淡野英人

 アワノヒデト、紛れもなく高校時代に知り合ったアイツの名前がフルネームで書かれてあった。あらためて、ああ、そういえば彼の名前はこんな漢字で書くのだったと思い出したわ。名前は英人か。そういえば私はあの日軟式野球を観戦に行って、スコアボードに記されたカタカナの『アワノ』という名前でずっと彼を認識していたと思うの。
 しばらく佇んで、じっとそのネームプレートの四文字を見つめたわ。四人部屋なのに後は空欄。どうやらその病室には彼が一人だけでいるような気配。
 深呼吸をしてみた。
 まだ何かためらいがある。
 果たしてアワノは私を覚えているだろうか? との疑問も湧いた。
 まさか、そんなはずはないと思うけど、病気療養中の人のことだから、確実とは言えない。それに、それに、顔を見るまでは本人であるかどうかさえ分からない。でも、まさかね。
 不意に意識が遠ざかる気がした。軽い目眩を覚えたの。立ちくらみにも似たような瞳の奥がスーッと闇に吸い込まれて行くようで、思わず指先で目の端を押さえたわ。
 踏み出すつもりの脚がなかなか動かないの。脳から指令は出ているはずなのに、どうにも身体が動いてくれない。まるで金縛りに遭ったようだわ。
 手にしたマドレーヌの入った紙袋をギュッと握ってしまった。
 三日もかけて辿り着いた決心なのに、ここへ来て何故こんなにも気持ちがぐらついてしまうのか、何を迷っているのか、我ながら情け無くなる。心臓の音だけが大きく響いて張り裂けそうだったわ。気が遠くなりそうな、そんな刹那。

「淡野さんのお見舞いですか?」

 暖かい春のような透き通るメゾソプラノの声が響いたの。まるで天空の城ラピュタで聴いた『ハトと少年』を連想してしまう音楽のような声。
 ハッとして振り向くと、声のイメージをそのまま具現化したような丸い眼鏡の看護師さん。白衣に身を包んだ彼女は少し年配の福の神みたいな女性。後で訊いたらそのフロアの婦長さんだったの。
「さっ、どうぞ、どうぞ」と彼女はほんの少し開けられていたドアをさらに開け、私を中に招き入れてくれたの。
 つられるように私の脚が一歩二歩、前へと進んで行った。無意識に、身体が動き始めたのよ。
 そして福の神さんはベッドの周りにかかる白いカーテンをサッと開いて、その中にいる人に弾むような口調で声を掛けたわ。
「淡野さん、お客様ですよ」
 それは何か歌をうたってるように響いて、ふわぁと部屋に陽だまりが差し込むみたいだった。
 さあ、さあ、と促されて私は恐る恐るベッドの端にたどり着いて、初めてそこにいる人の顔を見たの。
 病院専用の患者服ではなくて個人で用意したと思われる水色のラインの入ったパジャマのようなものを着て、大きなクッションのような白い枕を背もたれにして、雑誌を手にした中年の男性の姿がそこにあったわ。それは、紛れもなくアイツだった。アワノ、そうアワノよ。淡野英人。間違いなく本人だったわ。
 もちろんそれは高校生の時の面影に比べればあきらかに年齢を感じさせる中年の顔付きに変貌していたけれど、初老というにはまだ早い。それに病人とは思えない程、血色が良く、目の辺りにも活力を感じさせたわ。少し白髪混じりになった頭髪もきちんと整えられて短くカットされていて、顔だけ見ればとても入院患者とは思えないほどに普通の姿だった。
 数秒の間、無言で不思議そうにまじまじとお互いの顔を見つめたわ、二人共ね。
 そして、彼はほんの少し首を傾げて『誰?』って呟いたのよ。


 つづく

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