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侵食もしくは青い炎 ①/⑥

1    サマルカンドブルー

あの人にとってわたしがどういう存在か知らない。でも何かがじわりと忍び込んで来るようだ。それは愛なのかそれとも憎しみなのか、わたしには判断できない。

ポツンと砂漠の真ん中にでも取り残された様な気分の午後、もう4月だと言うのに気温が低くて携帯電話を操る指先が妙に冷たい。
東京の桜がとか黄砂がどうとか天気予報はもういい、報道バラエティは落ち着いた幸福感に満たされた人達が見る番組だ。明日や来週の世界情勢など最早今のわたしにはどうだって構わない。

そんなことよりも今わたしの心を捉えて離さないのはこの携帯に表示されたLINEの着信履歴だ。ほぼ3ヶ月ぶりくらいか……。
あの人からのLINEが来る度、わたしはドキドキしてしまう。いつも何らかの胸騒ぎが引き起こされる。
あまり早くに既読を付けたくない。待っていた様に思われるのは嫌だ。気になるけれど、暫く放置する。

あの人ーー名前を『こう』と言う。
出逢ってすぐ燃えるような恋に堕ちた。
もう10年近く前の話。
一生をかけてもいいと思える恋だった。
けれど、彼は気まぐれだった。
仕事のせいもあるけれど、突然長い間連絡が途切れることがある。
会えば優しくしてくれるものの、長続きしないのが悪いクセなのか、今回も海外赴任と言ってはそれきりの3か月だ。

これまでにもあの人とわたしの間にはいろいろあった。離れたりくっついたりの繰り返し。離れる原因はこうの仕事のせいばかりではない。わたしだって相当な気まぐれを起こすので、こちらから扉を閉めて離れたことも数度ある。
けれど、いつも頃合いを見計らって、こうの方からわたしを呼び寄せる。その間、お互いにそれぞれ別の恋をしていることもあるのだが、それらが長続きする事は、ほぼ無い。

今回も別の人との一件が終わった途端に連絡が来た。まるでどこかで見計らっていたかの様に、いつもここぞというタイミングを外さない。
もしかして仕込みだったのではないかと、そんな疑惑さえ浮かべてしまう。
それならそれでも構わない。要は会う気になるかならないか、それだけの事だ。
もちろん答えは『会いたい』に決まっている。

しかし、こうがすでに海外赴任を終えて、日本に帰っていたとは知らなかった。
ウズベキスタンなど、名前を聞いても地図上のどこにあるのやらさっぱりわからない国。
それでもサマルカンドという都市名にはなんとなく聞き覚えがあった。サマルカンドブルーなんていう言葉もあるらしい。
こうがこの3か月間をその国でどのように過ごしていたのかは知らないが、腐れ縁の絆だけは切れてなかったことにホッとしている。

前回、離れたのは何が原因だったのだろうと記憶を巡らせてみるが、とんと思い当たる節がない。道玄坂を上った先のホテルで、ほんの少しのすれ違いを感じた事があった。それだったのだろうか?
思えば腐れ縁ほど厄介なものはない。手にしたかと思えば消えてしまい、消えたと思えばいつのまにか戻る。その度に心は翻弄される。いつまでたっても慣れない。煙草の煙を目で追ってみても手で掴めない、そんな様なものだ。
今回は3か月の月日が経っていた。本当は心もカラダも彼を欲している。

そろそろいいかと煙草を揉み消し、LINEを開いてみる。何故だろう、LINEの文字など誰でも同じはずなのに、あの人からの文字には独特の匂いがある。画面の中からその顔が浮かんで来るように表情が迫り来る。その上、声まで聴こえて来そうになり、わたしは胸の鼓動を抑えるのが大変だ。

ーー美希、元気にしてるか? 俺は先週こちらに帰って来た。今度の赴任は短期間だったけど少し疲れたよ。千葉の実家に顔を出してから今朝、横浜に戻って来た。そちらの都合の良い時で構わないが、出来たら週末あたりにどこかで食事でもしないか。麻布のレストラン辺りがいいな。話したい事もいろいろある。そうそう、美希が欲しがっていた青いタイルも買って来たから、ついでに持って行くよ。きっと気に入ると思う。じゃ、ひと息ついたら返事してくれ。            
こう

相変わらずの文面。そちらの都合の良い時と言いながらも週末にと予定を決めている。場所さえすでに指定されている。まあいいのだけれど。
タイル? そんなもの欲しいなんて言ったのかな?
今となってはもうそんな事覚えていない。
でも少しはこちらのことを気にはしてくれていたのだなと安心する。

疲れたなんて言葉もこちらの気持ちを揺さぶるための常套手段だろうけれど、それに乗っかったフリをしてみるのも悪くないかも知れない。
それにしても、そんなに簡単に元に戻れる女と思われるのもどうかなという気がする。

わたしはこれまでにも何度も、こうからの連絡を待ち、会えば必ず、優しい言葉にほだされて、食事やお酒にも酔わされて、いつのまにか、気が付いたらベッドの中で裸で抱き合い、声をあげてしまっている。だから今回も会えばそういう関係になるだろうし、わたし自身もそれを望んでいる。

だから毎回、それなりにちゃんと下着や香水を選んで出掛けている。
そうならなけりゃ、がっかりするのはわたしの方だ。それは分かっている。
なのに、素直になれないのは3か月の月日のせいだ。
その間、こちらがどんな思いをしてたか……。
少しは思い知らせてやらなければ。
だから迂闊にすぐ返事は出さない。
食事のOKはわたしを食べてもOKと同意である。

わたしはふいにため息を吐きながらケトルでお湯を沸かす。ガスコンロにボッと音がして青い炎が噴き出すのを見ながら、知らずの内に唇の端が緩んでいる事を知る。
さてさて返事はどうしてやろうか、答えは決まっているが、いずれにしても、一晩待たせてやる事にした。

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