見出し画像

黒髪を切る迄 9


 『MARS』の演劇稽古はみんなますます身が入り出してね。順調というよりは円熟の域に達していたように思えたわ。夏休みの頃とは雲泥の差よ。稽古場の雰囲気もすっかり良くなってね。和気藹々とした中でも稽古になると全員が集中力を持って、一生懸命に取り組んでいたわ。
 本番一ヶ月前くらいになると誰が作ったのか、『MARS旗揚げ公演まであと◯日』なんていう文言がホワイトボードに書かれて◯の中の数字が日毎に減って行くのよ。最初は30だったのが、29.28.27……、とカウントダウンして行くのを見ると妙に緊張感が増してね。見るたびに胸が震えてしまったものよ。千紗子を始めとする部員たちは皆あの頃ひとつのゾーンに入っていたわね。それを青春というのかどうかは知らないけれど、何かの目標を目指して全てを打ち込んでいたことは事実よ。私でさえ、そんな空気の中、同じ気持ちを持ったものなの。何しろ自分が脚本を手直ししてまとめ上げたのだから、それがダメだったなんて言われたら嫌だったし、とにかく公演を成功させること。それしか頭に無かったわ。
 その頃からアワノや小野さんも音響と照明などに加わって鳥山の指示のもといろいろ走り回っていたわ。
 小野さんは何かと手先が器用なので、サウンドを重ねて特殊効果のある音をミキサーで作り出しては、街の騒めきなどのSEも取り込んで、それらを上手く劇に溶け込ませていたわ。照明の色合いについても独創的な発想を加えて、より舞台を引き立たせるためのアイデアを提案し、鳥山を感心させたりしてたの。さすがはマジシャンね。
 アワノはと言えば、やはりここでもみんなのムードメーカーだったわね。演劇に関しては全くの素人なので、何の口出しもしないのだけれど、舞台で芸を披露することは彼にとっても本文だし、そのためのモチベーションを維持することがとても重要だと思ってたみたいで、場の空気を盛り上げるのはいつも彼の仕事だった。ストイックに完璧さを演劇に求める鳥山の厳しさに対して、アワノの存在感がここでは遺憾無く発揮されたわ。
 考えてみればそんなアワノの存在って、私が彼を初めて見た時の、あの軟式野球部での試合の時もそうだった。どんな劣勢になっても彼は味方を鼓舞し、励まし、力を与えていたのよ。彼自身の野球の実力はてんで無かったのだけれどね。
 『MARS』の中でも彼は何も変わっていなかった。どん底だった夏休み後半からここまでみんなが持ち直して来たことは、アワノの存在が大きかったと私は思う。そりゃ確かに部員たちの努力もあったのだけど、全体の流れを変えるのはいつも誰か一人の存在だったりするのよ。それが彼のパワーつまりは持ち味なのよね。
 小野さんは小野さんで個々に話し掛け、悩みを聞いてあげたりしながらいろんなアドバイスをしていたみたい。まるで、こぼれ落ちてしまいそうになる小さな綻びを縫うようなそんな役回りを担当していたようね。
 鳥山の熱意ある厳しさ、ムードメーカーとしてアワノの前向きな明るさ、小野さんのきめ細やかな配慮、言葉掛け、それらが支える側としてがっちり組み合わさった歯車のように上手く回転し始めて『MARS』を支えたのよ。まさに最強のトリオね。
 そして、演劇を成功させようと夢を持つ部員たち一人一人の努力、どれが欠けてもいけなかった。本番を想定した通し稽古も済ませ、もう後は、ひたすら一心に準備を重ね、当日を迎えるだけだった。誰もがそう思っていたわ。
 ところが、本番まであと10日とカウントダウンが迫った時に、突然、思いもよらないある知らせが飛び込んで来たのよ。

 さて、その『MARS』に持ち上がった突然の知らせのお話しをする前に、私個人が関わっていた美化委員会での顛末をお話ししておくわね。
 それは十月も後半に差し掛かったある月曜日のこと。その日の前の土日は小雨が降ったり止んだりでどんよりした曇り模様の天気だったので、特に水やりのため学校に行く必要は無かったのよ。花も結構咲き切っていたし、国体の視察に人が来るのもその週の内だと聞いていたので、まず今の状態なら問題はないと思ってたのよ。
 ところが週明けの月曜日。普段私たちは車が出入りする正門ではなくて、駅からの近道になる裏道の石段を上がって登校していたのよ。正門からは数十メートル離れているけど、そちらの方が生徒たちが利用する下駄箱に近かったしね。
 そして石段を上り切って下駄箱に向かおうとして、何気なく正門前の方に目をやったの。
 思わず二度見したわ。最初、それが何なのか、よく分からなかった。とにかく目に鮮やかな赤、黄、緑などの色彩豊かな絨毯か何かがそこに置かれているのかと思ったわ。私は思わずそちらに駆け寄って辺りを見回したの。
 正門前にはぐるっと車が回転出来るロータリーがあって、その中央に丸い大きな花壇があるのね。そして正門横にも二つ長方形の花壇があって、私たち美化委員が重点的に花を育ててたのもその場所だったのよ。
 それが、どうして? たった二日ほど見ないうちに、こんなテーマパークにあるような手入れの行き届いた花々で花壇が埋め尽くされているのよ。
 それはそれは綺麗な花壇だったわ。とても素人には出来ないほどの。まるで別世界のお花畑に来たみたいに。でも、自分たちで育てた花がどこにも無いじゃない。どこへ行ったの? 私たちのマリーゴールドは? パンジーは? 撫子は?
 途方に暮れるってそんな時のことを言うのね。夢でも見てるのじゃないかと我が目を疑ったわ。
 その日、私は暫く呆然としていて、授業も上の空、ポカンとして過ごしていたわ。それでも放課後になって校舎中を見て回り、ようやく西校舎の裏にある小さな花壇に私たちが育てた花がまとめて植えられているのを見つけたのよ。
 こんな変なことってある? 土日の間に私たちが育てた花は目立たない校舎の裏に植え替えられ、代わりに目にも鮮やかな花壇がいきなり正門前に登場するなんて、誰かが魔法でも使ったのじゃないかと真剣に思い詰めたわ。
 そうしていたら校内放送でピシ川の声が美化委員長の私を名指しで職員室まで来るようにと呼び出しアナウンスが流れたの。
 訳もわからずいつも通りノックして「失礼します」と声を掛け、職員室を訪れたら、ピシ川は珍しく超ご機嫌な様子で満面の笑みを湛えて私を迎えたわ。
 ピシ川はその時、何人かの先生たち(たぶん教頭もいたように思う)とソファに陣取りお茶を飲みながら談笑中だったみたい。
 私が近付いて行くとピシ川は立ち上がって、「お陰さんでな、国体の視察も無事に済んだよ」と告げて、そこにいる先生方に、今回の校内美化計画を率先して取り組んでくれた美化委員長だと私を紹介するのよ。私の肩をポンポンと叩いてね。
 えっ? いえ、あの……。と、私は何が何だかで。
 先生方の一通りよく分からない労いの言葉やお褒めの言葉が頭上を飛び交うのを他人事のように不思議な顔で聴いたものよ。
 それで、ようやく、正門の花壇のことを問い掛けてみると、ピシ川は笑顔のままで、××造園さんにお願いして整えてもらったよ。どうや、見事なもんやろ流石プロや、と誇らし気に関西弁で語ったわ。
 でも私たちの花が……、と告げると、いやいや、ちょっと場所は移したが、あれも大したもんや。ようやった。と、とり付く島もなし。
 結局、唖然としたまま、職員室を後にしたのだけど、だんだんと後から後から胸の中に怒りが込み上げて来てね。
 プロの業者に任せるのだったら、最初からそうしてたら良いじゃないのよ。あんなに何度も呼び出しては組織図を作らせたり、計画書を出させたり、種子や苗を分担して買いに行って、花壇の土を掘り起こしてそれを埋めて、綺麗な花が咲きますようにとお祈りして、暑い最中に水やりに回ったりした私たちの苦労は何だったのかってね。
 考えれば考えるほど、頭に来たのよ。そこへ持って来てあの満面の笑み。何なのあれは。ピシッとせいと言いたいのはこちらの方よ。それに後から聞いた話によると国体の視察の人は正門前のロータリーを一周しただけで、後は校長室で三十分程話をして直ぐ帰ったらしいの。校舎裏の花なんて見ることなんてなくてよ。
 まったくこの数ヶ月間、無駄な努力をしいられ、バカみたいなことに振り回されていたみたいで、腹が立つやら、悔しいやらで、それから暫くは造園業者が作った綺麗な花壇なんて見たくもなかったのよ。心も身体も脱力してしまったわ。
 それがひと通り済むと今度は悲しくなった。山川さんや、他の何人か力を貸してくれた美化委員の人たち。彼女や彼らはあの綺麗な花壇を見てどう思うだろう? 自分たちで育てたマリーゴールドやパンジー、撫子の花々が西校舎の裏に追いやられたのを見て、痛々しい気持ちにならないか、てね。私は美化委員長として彼女、彼ら達に顔向けが出来なかったわ。何か申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまって。胸が苦しくなったの。
 その時ばかりは大人の世界に嫌気がさしたものよ。あんな教師は最低だと心の中で罵ったわ。
 それからの日々はもう美化委員としての集まりなんて何も無かったのだけど、あったとしてもボイコットするだけだったと思う。私はもうすっかりやる気を無くしていたから。
 でも山川さん、彼女のことだけは気掛かりだったわ。彼女とは学年が違うからそんなに接点がなくて、学内ですれ違うことさえあまり無くて、それはある意味、ホッとするような、それでいて寂しい気持ちが大きかったわ。山川さんとはもっともっとたくさんお話をしてみたかった、というのが私の本音なの。どうか彼女が美化委員のことで腐らずに良き高校生活を送られることを心から祈っていたものよ。

 さて、そんな私の美化委員としての顛末があったものの、『MARS』の方では、あと十日で本番というところまで差し迫って来たわ。
 緊張感は日に日に高まって行ったけど、もうその頃にはみんな気分も体力も充実していて、旗揚げ公演に向けてラストスパートするのみだと意気込んでいたのよね。
 だからあの知らせは衝撃的だったの。
 それは老夫婦の夫役で出演する予定だった瑠美さんが虫垂炎、つまりは盲腸で緊急入院して手術を行ったというものだったの。
 入院は一週間から十日ということが伝わって来たから、もう本番当日まで瑠美さんは稽古場には来れない、ていうか仮に退院してもすぐに舞台に立てるとは到底思えないので、千紗子も鳥山もその他の部員達も、どうしたものかと、頭を抱えていたわ。
 それでも、何とかならないかとみんなで集まって善後策を練ったわ。けれど本番直前になってのこのアクシデント、どうしようも無かったわ。何しろ老夫婦の夫役は主役の次に台詞が多い、大切な役どころだったから。
 今さら役者を変えてとか、脚本を変えてとか、とても無理だし、いきなり目の前に立ちはだかった暗雲に鳥山は台本をテーブルの上に投げ出し、はぁだとかあぁだとか言葉にならない声を挙げて天を見上げていた。アワノでさえ、何か言おうとしてもいい言葉が見つからず、オロオロしていたし、小野さんはいかにも困った顔でじっと一点を見詰めていたわ。すっかり小野スマイルも鳴りを潜めてしまったのよ。
  さて、どうなることやら、直前になってこんな思いもよらないことが起こるなんてね。
 神様ってホントにイジワルだわ。


 つづく 

いいなと思ったら応援しよう!