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黒髪を切る迄 21


 「誰?」
 と確かに彼はそう言った。
 こちらに尋ねるというより、まるでひとりごとみたいな声で。多少掠れていたような。短く切り揃えた白髪混じりの頭髪。それから彼は黒目をぐるぐる動かし、脳内にある記憶の糸を片端から全部手繰り寄せようとしていた。そしてやがてふと何かに思い当たったようにパチパチと瞬きを数回したあと、再びこちらに視線を向けて私の顔に焦点を合わせた。
 私は瞬間、高校生時代にタイムワープしたみたいに胸の前で手を握り締めて小さく頷いてしまった。まさか忘れられてしまうわけがない。そう思う一方で何か手掛かりを与えてあげるべきかと思い付き、「わたしです」と声を出してみた。あくまで自分からは名乗らずにね。
 あ、あ、あ……、と声を繋ぐので、私はそうそうと頷きながら、「あ」じゃなくて「さ」よ、と唇でさを発音する動きを見せたりして、顔を思い出しても名前が出て来ないなんてこともあるからね。ほら、もうひと息、頑張って、なんて心の中で励ましながら。
 そして、とうとうと言うか、ついに、
「あ、あ、…….、ああ、さ、さ、サユ、キ ……さん?」
 と言ったアワノの声に私は思わず安堵の息を吐いて微笑んだの。少し照れ臭くもあったけどね。
「さんはいらないわよ」そう言うと、
「あ、ああ、えっ、えーっ、ホントに! サユキか?」と目を大きく見開いたの。
「淡野さん、元気なのは良いけど、あまり大きな声は出さないでね。ここは病院ですよ」と福の神看護師さんはそう言った上で、私に「ごゆっくり」と会釈して、にこやかに病室を出て行ったのよ。さしづめ私にとっては水先案内人とでも言うべき御方だったかしら。
 だから私もちゃんと会釈を返してから、もう一度アワノの方に向き直ったの。そして、「久しぶりね、具合はどう?」と尋ねてみたのよ。
「ホントに、サユキか?」とまだ状況が把握出来ていない彼は、「なんで、ここが?」と当然の疑問を口にしたわ。
 ま、それもそうよね。突然三十年ぶりに昔の同級生が何の前触れもなく入院中の病室に現れたのだから、そりゃ驚くわよね。そこで私はバッグから携帯を取り出して、星ナオヤのSNSのページを表示させて、それをアワノに見せてやったのよ。
「これ、あなたでしょ」
 アワノはバカみたいに口をポカンと開けてその画面を覗き込んだの。
「あ、それ、なんで知ってる?」
「知ってるわよ」
「マジで?」
 アワノは真剣な表情でしばらく考え込んだわ。
「いや、だけど、その名前を知ってるのは、あの頃あっちにいた奴らだけのはずなんだけどな」
 これもほとんどひとりごとみたいな呟きだったけれど、教えてあげたわ。その奴らって高校の同級生たちでしょって。それならすぐにこっちにも伝わって来るものなのよ。遠い昔のことだけどクラス会で聞いたアナタの冗談みたいなその芸名、覚えていたわってね。
 アワノは驚いていたわ。すぐには言葉も出ない感じ。
 とりあえず私はベッドの横に据えてあった丸椅子に腰掛けさせてもらって、手に持った紙袋を差し出したの。彼は不思議そうな顔でそれを受け取って、えっ何これ? って顔をしたわ。
 お見舞いに何か持って来なくちゃとは思ったのだけど、突然花なんか持って来られても迷惑かなと思って、軽いお菓子にしたの。食べられるかどうか分からないけど、お家の人も来るんでしょ、って私は言ったの。でも何だか妙に照れ臭くてね、けれど、もしも何も持って来なかったら手持ち無沙汰だし、余計に間を持て余す気がしたから、それはそれで気まずい空気にならないために一役買ってくれたと思うわ。
 そうか、ありがと、彼はそう言って中身をチラッと確認したあと、サイドテーブルにそれを置いたわ。そしてまた何か考える素振りをして、
「だけどさ、よくここが分かったな。あれには個人や場所を特定出来ることは何も書いてないはずだけど」と言ったわ。
 そうね、SNSのサイトは偶然にも例の"知り合いかも”で目にしたとしても、この病院のこの病室までたどり着くのはそう簡単なことじゃないはず。私もそう思ったわ。でもあからさまに他の病院を訪ねて捜し回ったりしたなんて口が裂けても当人には言いたくなかったのよ。
 そこで私は半分嘘を吐くことにしたの。星ナオヤのSNSを偶然に見たことはそのまま告げて、それがアワノだと直感したこと、そこまでは本当のことよ。けれど、このK病院へはたまたま仕事の関係で来た時に前を通りかかってネームプレートに名前を発見したのよと、そう言い繕ったの。さくらクリーンサービスの信江さんにお世話して貰って各病室を見て回ったことなんかは伏せてね。
「そうか、そうだったんだ」
 アワノは私の説明に納得したようだったわ。やっぱり男って単純な生き物よね。でもそれで突然私が訪れたことにも合点が行ったように、ようやく彼は安心して落ち着きを取り戻したわ。自然に柔らかい笑顔を浮かべて改めて私を見たの。懐かしい目で。
 嫌だわ、そんなに見つめないでよ。もうすっかりおばさんでしょ。私が恥ずかしくてそんな言い訳をすると、彼は「いや、こちらこそすっかり中年おやじだよ」と目尻に皺を寄せて楽しそうに笑ったわ。その笑い方は高校時代とちっとも変わってなかったわ。

 「仕事って、何してるの?」
 さりげない彼の質問に私は瞬間身を固くした。随分勝手なことだけど、相手のプライベートなことは気になるのに、自分のプライベートに踏み込まれるのは抵抗があった。
 さりとてこちらのことを何も語らずに相手と話を続けるのは何かしら不自然な気もした。多少はこちらの現状についても触れなければならなくなりそうだ。だから、ある程度のところで線引きはするとしても、高校を卒業してから今までのことはかいつまんで話をするべきかと思われた。でも今はその前に訊いておきたいことがある。
「その前に、あの星ナオヤのページに書いてあることって本当なの?」
 癌で医者から余命宣告を受けたという部分のことだ。
 私の質問返しに彼は一瞬怯んだ様子を見せた。それからほんの少し間を置いた後、諦めたような素振りを浮かべて「ホントだよ」とあっけらかんと口にした。
 まず私は絶句した。文章ではその文字を何度も目にはしていたけれど、本人から直接それを認める言葉を聞くと、改めて思いもよらぬ感情が胸の奥から込み上げて来る。彼は彼で私と同じくどこかに線引きをしているのであろうと思われる。身体のどの部分が癌に侵されているのか、その状態が現在どのような状態にあるのか、また宣言された余命というのがどれほどの期間なのか、それら肝心な事柄については直ぐに話そうとはしなかった。私は実のところその辺りのことがとても気がかりだったのだけれど、それ以上のことをその時は訊けずにいた。
 自分の病気に関することを詳しく説明しようとしないのは、もしかしたら細かい部分については本人にさえ知らされていないのだろうかと勘繰ってみた。でもまさか、それはないと思う。
 だけども、三十年ぶりに唐突に訪ねて来た古い友人にいきなり込み入った話を聞かせられるかと考えてみれば、そう簡単なことではないと思う。それはそうだよね、仕方ないと私は自分自身に言い聞かせた。
 それに知ったところで私に出来ることは何もない。時には知らなくて良いことも世の中にはたくさんある。だから、この話題は向こうから口にするまで、こちらから問いかけることはしない、私はその時そう決めた。
 そんな思いとはうらはらにアワノはほがらかにまた私に別の質問を問い掛けて来る。
「サユキ、今は結婚してるの? あー、してない訳ないか、オレじゃないんだし」とまた自嘲気味に笑う。その件もこちらにとっては少し話しづらい一件なのだ。
「えっ、そっちはどうなのよ。奥さん、いるんでしょ」と切り返す。
すると彼は笑った顔のまま、
「いないよ。ずっといないんだ」と言った。
 まさか、アワノのような口八丁手八丁の人間が東京のような、それも芸能界みたいなところにいて結婚相手に巡り会わなかったなんてはずがない。
「どうしてずっといないのよ」
「う〜ん、まあそれなりに付き合ったオンナは何人かいたよ。七年も一緒に暮らした相手もいたんだ」
 相変わらずあっけらかんとした物言いだ。そう言えば具合はどうかと尋ねた質問に答えを返してくれてはいなかったが、やり取りする表情や声音で大体のことは把握できる。顔色も良く、滑舌もしっかりしていて気分も悪くなさそうに見えた。
「七年? なんで別れちゃったの?」
「さあ、すべてオレが悪いんだけど、平たく言えば、愛想尽かされたわけさ」そう言ってまた笑う。当初の硬さはもう完全に払拭されていた。まるで高校時代に戻ったような気分だった。
「タレントになる夢は叶ったの?」
 少々意地悪かなと思いながら、それを訊いてみた。
「いや、見ての通りさ。でもそれなりに頑張ったんだよ。あ、そうだ星ナオヤって名前は師匠に弟子入りして二年目くらいの時に歌手デビューの話があってね、その時、師匠と二人で相談して決めたんだよ」
「師匠って、もしかしたら……」
 私はかつて有名だったある漫才師の名前を口にした。
「そう、それも知られてるんだな。ったく地元の奴らってみんな口が軽いな」そう言ってカカカと笑う。
 それは、ある女性週刊誌にご家族訪問というコーナーがあり、その漫才師が取り上げられ、そのページの一角に茶の間に集合した家族写真が掲載されていて、その中に内弟子としてアワノも収まっていたから、当時地元でも話題になっていて、私もそれを目にした。
「じゃ、星ナオヤって芸名もまったくの作り話って訳でもないのね」
「そうなんだ曲もちゃんと出来てて、一応レコーディングもしたんだよ『港のロマンス』という曲だった」
「えっ、知らなかった。そんなの出てたの」
「いや、出てない。星ナオヤではね、その曲でレコードを出したのは別の歌手さ」
「ああ、そうなの。なんで?」
「さあ? レコード会社の方針か事務所の圧力なのか、オレは知らないよ。説明もなしさ。その話は無くなったって聞かされただけ。とにかく星ナオヤとして歌手デビューするのは幻に終わったんだ。それがケチの付き始めで、そこから先、良いことなんてひとつも無かったなぁ。回って来るのは前説とか地方の営業回りばかりで、後は運転手やカバン持ちとかね。事務所の電話番なんかもやらされたねぇ」
「それで辞めちゃったの?」
「いや、可愛がってた後輩たちが次々に売れちゃってね、オレは焦ってたんだよ。そんな時あるオンナと出会って、いろいろあって駆け落ちしちゃったんだよ。そのオンナってのは実は別の事務所のちょっと売れてる芸人の愛人だったらしくてね。本人はもう別れてるって言ってて、でも許されないから一緒に逃げて、なんて言われて、その頃オレも若かったし、魔が差したみたいなんだよ。でも結局バレて連れ戻されて、あとは修羅場さ。まだ相手とちゃんと別れてなかったらしいよ。今となりゃ大笑いだけどね、どうかしてたよ。あの頃のオレは」そう言って彼は顔をくしゃくしゃにした。
 私はちょっと同情してしまって、しんみりして言った。
「そう、それで辞めたのね」
「いや、辞めたというより、破門さ。追い出されたってわけ」

 饒舌さを取り戻したアワノの話は、まだまだ延々と続きそうだったわ。けれども見舞い客にはあまり過度に長居してはいけないというのはマナーの基本であり、それは守らなければいけない。なので、それからほんの少し世間話を交わしたあと、随分と名残惜しかったけれど、その日はそれでお暇することにしたわ。
 私が帰ると言うと一瞬寂しそうな表情をしたアワノにまた来ても良いかと尋ねてみたの。何しろ高校の同級生といっても元カノでこちらはフラれた身だからね、三十年振りの邂逅と素直に喜んでくれたのかどうか自信は持てなかったのよ。
 けれどもそんな心配はいらなかったわ。アワノは大きく頷いて「おうおう、また来いよ。てか来てくれよ、良かったら。こっちは退屈してんだから」と言ったのよ。
 それは素直に嬉しかったわ。それで病室を後にしたのだけれど、実のところ、病院の外に出た時、複雑な感情が芽生えて、私は密かに呻いてしまったの。何故なら、これで癌に侵され余命宣告を受けた星ナオヤというSNSで見た人がアワノ本人であったということが確定してしまったのだから。
 いろいろ捜し回っていたものの、それがアワノではないことを、心のどこかで祈っていたのかも知れないわね、私。


 つづく

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