妄想タクシー5 真夜中の花屋さん 前編
その女性を何かに例えるとするならば、ピーターパンに出て来るティンカーベルの様だというのが一番しっくり来る。
それはある日の夜遅く、真夜中に家のインターホンが鳴った。こんな夜遅くに誰だと訝ってみたのだが、後からその話を妻や子に訊いてみても、誰も知らない、また妙な夢でも見てたのじゃない? なんて揶揄われる始末だった。今では本当に夢だったのかも知れないなんて思い始めてる今日この頃だ。
とにかくその日の話をしよう。
「はい、誰?」
僕は欠伸を噛み殺しながら多少不機嫌な声を出したかも知れない。けれど、こんな真夜中だ。相手が不審人物である可能性も確かにあったので充分な警戒をして、緊張感を持ちながらその呼び出しに返事をした。
するとそんな警戒心を吹き飛ばすほどの、明るい鈴を鳴らしたような声音で「こんにちは、真夜中の花屋さんをやっている紗妃と申します」とそんな声がした。
そのツッコミどころも満載なフレーズは何故かしら耳に心地良い響きを与えてくれた。
一体何を言ってるんだろうと目を擦りながらもう一度ちゃんとインターホンのモニターに目をやってみると、なんだかそこだけほんわりとした光に包まれて白いふわふわした洋服姿の女性がニコニコ笑って手を振っている。そして、
「関谷修さんですね」
と僕の名前をフルネームで口にした。
「え、そうだけど、あなたは誰?」
「ええ、ですから、真夜中の……」
「あ、それは分かったから、何かご用ですか? 花屋さんて言ってるけど、花なんか要りませんよ」
「はい、それは大丈夫です。ただ、関谷修さんにお伝えしたい事がありまして、風見光一さんの件で」
「えっ!」
僕は絶句した。
今確かに彼女の口から風見光一という名が聞こえた。
その名前は……、その名前は、僕にとって非常に大切な、一生忘れられない名前だ。
「今、なんて言った?」
「はい、ええ、ですから、真夜中の……」
「いや、違う! その後!」
「はい、それは大丈夫です。ただ、関谷修さんにお伝えしたい事がありまして、風見光一さんの件で」
「それっ!」
モニターの中で紗妃という女性が嬉しそうに小さく飛び跳ねて幸せそうな顔をしている。
「何で、その名前を知ってる?」
僕が問い掛けると、今度はその白い妖精みたいな姿の後ろから、きちっとした身なりのスリムな男性が現れた。
「関谷様、突然に驚かせてしまってすみません。でもどうしても貴方様にお聞きして頂きたい事柄が御座いまして、もしよろしければ私どものタクシーにお乗りくださいませんか? お時間は取らせません。申し遅れました。私は『思い出タクシー』の運転手、中村と申します」
は? 思い出タクシー? 次から次へと謎な言葉ばかりが聞こえて来る。しかし、その声は妙に人の気持ちを安らかに落ち着かせてくれる響きがある。
まったく狐につままれたような気持ち。夢でも見てるのかしらん、とそんなことを思いながらも、僕は何かに導かれるようにふらふらと玄関に向かって歩を進めドアを開けて外を覗いてしまった。
すると、そこは、どうだろう? 真夜中だというのにひとつひとつの物陰からそこはかとなく淡い光が射して、イルミネーションに彩られた別世界のように思えた。
そして、モニターで見た通りの男性と妖精(いや、よく見ると単にふわふわしたレースの飾りがついた白いワンピース姿である)の二人が並んで僕を出迎えてくれている。その向こうに一見何の変哲も無い水色のタクシーが一台停車していた。
「さあ、こちらにどうぞ」
それは運転手中村の声であったか、あるいは紗妃の声だったか、もはや僕には判別出来なかった。
「あっ、でもこんな格好じゃ」と、僕は慌てて自分の衣服に目をやる。そして驚く。いつのまにか、まるでゴルフにでも出掛けるような真新しいセーターとスラックス姿に着替ていた。
訳も分からぬまま促され、僕はタクシーの後部座席に乗り込んだ。柔らかく温かなシートが心地良かった。
僕の隣に真夜中の花屋さんと言っていた紗妃が座り、運転席に中村が乗り込みエンジンをかけた。とても静かだ。辺りは誰もいない。いつも見慣れている外の風景がこんなにも綺麗な佇まいの町並みだったなんて、驚きだ。
タクシーは静かに町の通りを走り出した。この滑らかな走りは車に乗っているというより、波の無い夜のみずうみに滑り出したゴンドラのようだと感じた。
しかし、一体これから何があるのか、どこへ行くのか、さっぱり分からない。だけど一向に不安な気持ちにならないのは何故だろう? 不思議だ。夢の世界へでも迷い込んでしまった気分だが、どこかこのサプライズを楽しんでいる自分がいることに僕は気付いていた。
「あ、それでお話というのは?」
ひと息ついてこの環境に身を落ち着かせた頃、僕は質問した。
「そうですね。今は外も暗いことですし、温かいお昼間の公園に場所を移動しましょう」
紗妃は名案を思い付いたかのようにパチリと顔の前で手を打って、中村に何か小声で囁いた。
中村は「分かりました」と素直に頷いて、背中越しに僕へと声を掛けた。
「関谷様、少しワープ致しますが、気になさらぬようお楽しみください。危険はありませんので」
「え? どういうこと? ワープ?」と、僕が戸惑っていると、ふわりと車は空中に飛び立った。
「うわっ、うわっ、空を飛んでる!」
僕は驚嘆の声をあげ窓の外の景色を眺めた。夜の町並みがどんどん小さくなってキラキラと輝く宝石箱のように映し出される。怖くはなかったが知らずのうちにシートベルトを握り締めていた。何せ空飛ぶ自動車に乗るのは初めての経験なのだ。
と、突然たくさんの光が束となって前方から現れ、車はあっという間にその光の中に包まれて行った。
何の衝撃も音も無く、車は地上に降り立った。
気が付けば窓外は陽が燦々と射し込み、昼間の光景に変化していた。青空が澄み渡り、気持ちの良い穏やかな春の日みたいに見えた。
ここはどこだろう? 初めて来る場所だ。芝生が広がり所々に樹木が立ち並び、少し高台に位置してるのだろう。駐車場の向こうは街並みが眼下に広がり、遠く海岸へと続いている。
「随分遠くまで来てしまったのかな?」
僕は誰にともなく訊いてみた。
「そんなことありませんよ。すぐ近くです」
隣で紗妃が和かに笑って答える。
中村がドアをオートで開けて、それぞれ外に降り立った。
ああ、なんて気持ちの良い場所なんだ。空の青さと芝生の緑がとても綺麗で、空気がおいしい。なんだか生き返った気分になる。
芝生の間には小さな砂利を敷き詰めた小径があり、そこをサクサクと足音を立てて歩いた。少し行くと木陰に白いベンチが見えた。
「このベンチに腰掛けましょう」
先を歩いていた紗妃が振り向いてそう声を掛けた。
ベンチ前の広場にはブランコや滑り台などの遊具があり、家族連れが一組遊んでいた。若い夫婦と幼い子供が二人。ボール遊びに夢中になってる。楽し気な笑い声が風に乗って聞こえて来た。
「さて、お話ですが」
一段楽して落ち着くと、紗妃が畏まって口を開いた。
「ああ、そうだ。風見光一の件」
忘れていた訳ではないが、ここへ来るまでの目まぐるしい不思議の連続に心奪われて、うっかりしていた。家を出て来た本来の目的はそれだ。
「五年前、関谷さんは風見さんのご実家を訪ね、光一さんの遺影に手を合わされましたね」
「そうだった。あれからもう五年も経つのか……」
「その時、光一さんのお母様から事故についてのお話は伺いましたか?」
「いや、バイクの事故だったらしいけど、詳しくは訊けなかった。ただ、事故は光一のせいではないと、それだけは聞いたよ。でも……」
「でも、何ですか?」
「いや、こんな事、今更言ってみても仕方のないことだけど、その後、同窓会で会った昔の友人達と付き合うようになって、集まる度、昔話に花を咲かせるんだけど……、たまに風見光一の噂話を耳にする事があって……」
僕は胸の中に広がり始めた嫌な思いを感じ取り、顔を歪めてしまう。
ここ数年いつもそうだった。風見光一は僕にとっては命の恩人、一緒に過ごした期間は短いものだったけど、決して忘れることは出来ないかけがえのない存在のはず。
けれど、昔の友人達から伝わって来る彼についての噂話はどれもこれもが僕の心を揺るがす不穏な事ばかりだった。
「どんな風に話が伝わっているのか、良ければ聞かせて頂けますか?」
紗妃は透き通った大きな瞳でこちらを見詰めて来る。濁りのないそんな真っ直ぐな眼で見られたら、何だか心のモヤモヤを全て打ち明けずにはいられない。不思議なパワーを感じてしまう。
「僕と光一くんは中学三年生の時のごく短い間だけの付き合いなんだ。だから僕が知ってる光一くんは彼のほんの一部分だったのかも知れない。僕が病気から回復して復学した時、もう彼は転校してしまった後だったからね」
「その後は一度も?」
「そう、一度も会えずじまいさ」
紗妃は黙って頷きながら僕の話に耳を傾ける。僕は更に話を続ける。
「県外の高校に入った彼は、バイクに乗ることを覚え、やがては集団で暴走行為をするようになったらしい。その暴走族は地元では有名な悪の集団だったらしく、彼はそこの総長とも対立して、決闘騒ぎを起こしたらしいよ」
暗い話であったが、こうやって感情的にならず第三者目線でスラスラ話が出来るのも、こんないかにも平和を感じさせてくれる場所に来たからかも知れない。紗妃が話をするのにこういう場所を選んだのもそんな理由からなのだろうか?
それに、それはもう昔の話だし、当の本人は既にこの世の人ではないから、今更、罪を問うたりする必要はない。そう、すべて終わった事だから。
「あの事故の件もいろいろ憶測されてる。伝え聞いた話によると、彼は結局、センターラインを踏み越えて反対車線をバイクで逆走して、横断歩道の辺りで自転車に乗った中学生を大きくはね飛ばした。そして、そこに運悪く右折し損なって横転したタンクローリーに巻き込まれて亡くなった。そういう事らしい。無謀なバイクの暴走運転がもたらした結果で、自業自得だよと、みんなは口にしていた。
そんな話ばかり聞かされると……、僕は、苦しくて仕方なくなるんだ。だって僕の中には、彼の血が混ざっているから」
中学生の頃、病気になって手術をした。その時の輸血用の血液が足りなくなって困っていた。すると、そこに現れた光一くんが申し出て、RHマイナスのO型の血液が一致し、僕の身体は彼によって助けられた。それを僕はずっと知らずにいた。
後年、大人になってから母親からその話を聞かされて心底驚いた。その時には、もう光一くんはこの世にいなかった訳だが……。
暫くの間、我々は、口を閉ざして黙していた。時折涼しげな風が耳朶の端を通り過ぎて行く。
「これで僕の聞いたことは全部話した。それでもまだ何か別の話があるのかい?」
紗妃は潤んだ瞳でひとつ頷いた後、
「関谷さん、あなたがご友人から聞かれた噂話は、嘘ではないにしろ、真実がちゃんと伝わっていません」と言った。
「嘘ではないにしろ、真実ではない?」
僕はその言葉の意味を探ろうと噛み砕くように復唱した。
「はい」
僕は改めて首を捻った。明らかに自分より年少のこの女性が、僕ら元クラスメイトも知らない何を知っていると言うのか? そもそも、この人たちは一体? しかし、こうなってしまった今、僕にある選択肢は話を聞いてみること、それ以外にない。それを信じるかどうかは後で考えればいい。
「では、聞かせてくれないか? 本当のことを」
「はい、それをお伝えしたくて、私たちはやって来たのです」
紗妃の瞳がキラッと光った気がした。
「お願いするよ。教えてくれ。光一のことを」
僕はこの胸の中に存在する靄をどんな形でもいいから晴らしたかった。
すると紗妃はベンチの端に座ったきりじっとしていた中村に何かを促した。中村は短く「はい」と返事し、手に持ったバッグの中から何やらタブレットの様なものを取り出して、タッチパネルで操作を始めた。
何を呼び出しているのだろうとそれを一緒になって覗き込んでいると、前の広場で遊んでいた家族連れの男の子が放った白いゴムボールがブランコの鉄の支柱に当たり、ポーンと大きく跳ね上がったのを目の端で捉えた。
その白いゴムボールが更にポーンポーンと大きく跳ね上がって、空の青さと芝生の緑とが混ざり合い、陽の光に照らされて弾みながら、突然巨大なものに姿を変えて迫って来た。
「あっ」と声をあげた時にはもうすでに遅く、僕はその巨大なゴムボールに巻き込まれていた。
身体が宙に投げ出され、ゴムボールの白と空の青、芝生の緑、それに太陽の光が溶け合って、クルクル回転しながら、僕は飛ばされる。
ポーンポーンポーン。
眼がぐるぐる回る。
意識も回転しながら飛んで行く。
ポーンポーンポーン!
ああ、このままどこへ飛んで行くのか?
後編に続く
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