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「平和」と私

 私がブログを書き始めた経緯や自己紹介を書き終え、これからどのように話を展開しようかと悩んでいた。関先生にも手伝ってもらいながら、今回は私と「平和活動」についての導入を書くことにした。自己紹介ではこの事についてあまり触れなかったが、私の興味関心に「国際協力」ともう一つ「平和活動」がある。

 私が生まれ育った長崎は自然豊かで、食べ物も新鮮で、人も優しく、そして長崎市郊外にある稲佐山は日本三大夜景の一つとして知られており美しい所だ。私が上京したての頃は方言が通じず標準語に慣れるのに少し苦労したが、私は長崎が大好きで今後も長崎弁のアイデンティティを忘れずに生きようと思う(笑)とりあえずまとめると長崎は本当に素晴らしい所だ。しかし今では街並みが美しく人々の活気で賑う長崎だが、75年前の8月9日午前11時2分の出来事を決して忘れてはならない。

 太平洋戦争末期の1945年8月9日午前11時2分、広島に次いで人類史上2発目となる原子爆弾(プルトニウム爆弾)「ファットマン」が長崎の上空に投下された。その瞬間「ピカッ」と光り、そして「ドン」と大きな音が鳴り響き、たちまちあたり一面が焼け野原へと変わってしまった。現在でも原爆の俗称として「ピカドン」と言われることがある。(「ピカ」=閃光、「ドン」=爆音)青空が広がっていた長崎の空にあの日、1つの大きなキノコ雲が現れ一瞬で多くの人々の尊い命が奪われた。死者数と重軽傷者数はともに7万人を超え、現在でも多くの方が原爆の後遺症やあの日の恐ろしい記憶に苦しんでいる。

 長崎の小学校から高校までは、毎年8月9日が登校日で「平和集会」が行われている。小学校低学年の頃は私にとっては特に深い意味を持たない登校日で、「何でわざわざこの暑い中、学校に行かんばと?家で黙祷すればいいやん。」と思っていた。(今考えると当時の考えは恥かしくてならない。)しかしその考えが変わった出来事が2つある。

 1つ目は私の祖父の言葉だ。私の祖父は爆心地から離れた所に住んでおり原爆の犠牲者ではないが、戦争を体験している。幼い頃に両親を亡くし、小学生の頃から働いていたそうだ。そのため学校に行けず十分な教育を受けられなかった。そんな彼が小学5年生の私に「戦争はね、絶対許したらいけん。だって何の罪もない人の命ば奪うとやけん。おじいちゃんはね、戦争のせいで学校に行けんやった。小さい時から働いた。長崎にも原爆が落とされておじいちゃんと同じ思いばした人のいっぱいおる。やけんね、戦争は二度と起こしたらいかん。さきちゃんはおじいちゃんの分まで勉強して、人の役に立つ仕事に就いてね。おじいちゃんは応援しとるけん。」と呟いた。その事を話してくれた時は、当時の苦労を感じさせず大きな背中で語ってくれた。それから10年が経ちコロナウイルス感染拡大のために実家に戻っている今、先日祖父の家に遊びに行き、その時も全く同じ事を話していた。それから今祖父は10の歳を重ね大きな背中とは言えないが、彼の信念、彼の思いは決して変わっていなかった。

 2つ目は中学3年生の時の話だ。祖父の言葉を聞きいてからは長崎県民として恥じないよう「平和」について自分なりに真剣に考えた。平和集会の実行委員などにも入り勉強会にも参加した。そんな中、中学3年生の時にアメリカからの留学生と一緒に長崎原爆資料館に行く機会があった。そこで留学生から多くの質問を受けたが、私はその質問に十分に答えることができなかった。もちろん言葉の壁もあったのだが、祖父の言葉をきっかけに真剣に学んできたはずだったのに何もできなかった事に、悔しさというよりも強い無力さを感じた。今まで学んできた事は何だったのか、何をしていたのか、この気持ちは今でもうまく表現できない。

 以上の2つの経験がきっかけで、私は「平和」というものとの向き合い方を改めた。そして中学3年生の冬に「高校生平和大使」というものに出会い、その時私は「私は高校時代にこれになって平和を訴えていく。自分の口から日本へそして世界に平和の尊さ、平和の素晴らしさを訴えていく。」と思い、高校生平和大使になるために高校進学後ある団体に入る。次回からのブログはその団体やそこでの自分の活動を書く。

 今年で戦後75年を迎える広島・長崎。2016年に元アメリカ大統領のバラク・オバマ氏が広島を訪問した。そして2019年11月にはローマ教皇が長崎を訪れ「核兵器は脅威から私たちを守らない。」を演説し大きな注目を集めたことは記憶に新しい。また今年は「75年」という節目の年だからか、例年に比べ少なくとも今年は私の周りの人々のSNSで原爆について発信している人が多く、人々の原爆に対する関心の高まりを感じた。しかしその一方で被爆者の方の平均年齢が上がり、私たちが被爆者の方から直接話を聞ける最後の世代だと言われており、そのことに対し懸念の声が上がっている。またコロナウイルスのためにNPT会議が延期されたり、8月9日の登校日がなくなってしまったりと広島長崎はもちろん、全世界の人々にとって非常に重要な活動ができない状況だ。被爆者の方が当事者として語ることが難しくなっており、核兵器廃絶を求める多くの団体が彼らの思いを語り継がなくてはならないという使命感や責任感、そして被爆者の方の期待を背負っている。そして多くの被爆者の方が望んでいる核兵器禁止条約の発効を目指している。現在世界では新型コロナウイルスの感染拡大、BLACK LIVES MATTER運動、北朝鮮の核開発運動と様々な問題が錯綜している。そのような状況下において「平和」とは何か、「平和」に暮らすために今できることは何か、これを読んでくださっているあなたはどう考えるだろうか。(2020/08/28)

〈参考資料〉
・長崎市平和・原爆「原爆の記憶」
https://nagasakipeace.jp/japanese/atomic/record/scene/1102.html

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