木村花夭折事件について(1)
先々月下旬のある日、木村花【きむら・はな】というわかい女子プロレスラーが急死し、それが自殺であることもつたえられて、そのあとネットではとくにそうだったようだが、この話題が何日か世におおきくとりざたされた。 「先々月下旬のある日」とはキリスト暦2020年5月23日土曜日だ。 インターネットのSNSでひどい誹謗中傷を故人がうけつづけていたのがその自死の原因だとの示唆もが当初からつたえられ、それで「とくにネットではそうだった」と前記した結果にむすびつきもしたのであろう。 ひと月をこえてすぎたこのごろでは当初のようなさわぎはもはやメディアにもみられなくなったが、事件の影響はまだ色こくあり、世のご意見番どもがこの件についてのお説をメディアにたれながすのがいまも散見されるし、ネットでの誹謗中傷をおさえるためとの名目での政府による法的対策もちゃくちゃくとすすめられていることがつたえられている。
このできごとについて当初おもったことをツイッターでたてつづけにさえずった。 以下にそれらを引用しつつ、補足をまじえながらここにもかきしるす。
のっけは、笑犬楼の大尊師(小説家の筒井康隆氏)がネットにあらわしている例のたて書きブログ『偽文士日碌』が、5月27日水曜日づけの記事でこのできごとにふれたのにことよせてさえずったつぎのものだ。
この日碌ページが保存サイトに保存されているそのページのURLはつぎ。
===> http://web.archive.org/web/20200531232657/http://shokenro.jp/00001692
===> https://megalodon.jp/2020-0601-0824-39/shokenro.jp/00001692
うえに引用したツイートに「ひねった書きかた」うんぬんの部分があるが、これは以下のようなわけだ。
大尊師は日碌でつぎのことをのべる。
表現の自由か人権かと問われれば一も二もなく人権であり、さらには命である。これを守るためには誹謗中傷を書き込んだ人間の特定が必要であり、署名以外のすべての書き込みを拒否する新たな制度が必要である。
このすこしあとに大尊師はさらにつぎをかく。
署名さえすれば表現の自由のもと、逆に何を書き込んでもよいのである。おれがそうしているようにだ。なぜそれができないのか。その書き込みが悪いことと知っているからであり糾弾されるのが怖いからだ。以前のわが会議室はすべて記名式であったがそれでもおれの意見に堂堂と反論する者もいた。それどころか会議室の主宰者であるおれを罵倒する者さえ何人かいたのである。
人権と命とをまもるために
「誹謗中傷を書き込んだ人間の特定が必要」
「署名以外のすべての書き込みを拒否する新たな制度が必要」
などというのがまずおかしい。 そんな特定やそんな制度やができても、「人権と命とをまもる」ことは根本的にはむりだろうからだ。 それとこれとははなしがべつだ。 ただ、その特定やその制度やができたら、誹謗中傷をやる者の数をへらすことぐらいはたしかにできよう。 そのかぎりで、その特定やその制度も結果的には効果がゼロではなかろうとはおもう。 しかしそうだとしても、それら自体が〝人権と命とをまもる〟なんてことはありえぬので、より正確には〝人権や命が犠牲にされる事件の絶対数をあるていどはへらせる〟ぐらいのことにすぎまい。
「署名さえすれば表現の自由のもと、逆に何を書き込んでもよいのである。」とおっしゃりはじめて、しまいに「会議室の主宰者であるおれを罵倒する者さえ何人かいた」ってところまでいっちゃうのがネタっぽい。 これではまるで、ウソなく名のりさえすれば、どのひとを「罵倒」してもかまわず、さらには人権や命をないがしろにする誹謗中傷をかいてもよいのだと、むしろそそのかしてすらいるはなしになっちゃってる。 しかしこの文章はそもそも人権・生命をまもるにはどうすればよいのかについてかいているので、本末転倒であり、論旨が正反対ぽくねじれてる。 こういうところをさして「世に波紋をおこすため、ひねった書きかたをあえてしてる」うんぬんと前記したのだ。
「大尊師の本心なのだろぅ」とのべた「日碌ページのしまいの3行」とはつぎのくだりだ。
加害者が特定できる制度ができてから「表現の自由」を叫んでももう遅いのだということを、歴史がそれを証明しているということを、臆病な愚か者たちは知るべきであろう。
すなわち匿名で何でも発信できるいまこそが貴重な自由の状態なのだってのが「大尊師の本心なのだろぅ」というわけ。 ただし匿名といってもいまどきのインターネットはもはやほとんどすべて〝みせかけだけ〟の匿名まがい・うわっつら匿名でしかないのだが………
しかるにこの木村花夭折事件をめぐってネットの記事でひじょうによくみかける意見は「匿名での誹謗中傷」に対する批判だ。 この批判が批判としてのマトをはずしているのは
「それなら名のった上での誹謗中傷はいいんだな」
ときりかえされてしまうところだ。
そもそもはなしがあべこべじゃないかとおもうのだ。 堂々とおもてに正体をあらわしての、完全にひらきなおったあたまのおかしい憎悪人間による誹謗中傷のほうが、匿名でのそれよりも、くらべものにならぬほどおそろしいんじゃないのか。 もしもインターネットが名のり強制・顕名強制になったら、そのての真にこわいおかしいやつが、いたるところ続出するのではないかとの想像があたまにうかんでうちけせぬのはおれだけだろうか。 そんなことがもし現実になったらまさに目もあてられまい。 しかもネットで名のるやつなどはまだかわいいほうもいいところなので、ほんとうにおそるべきやつはネットでの名のりどころか、現実世界での気配すら意図的にいっさい消去しつつ憎悪のまとに攻撃をしかけるようになりさえしよう。 そのほうがよいぐらいのことはだれだっておもいつくからだ。 ネットが名のり強制になったら憎悪人間の攻撃は基本「そんなのばっかり」状態におちいることすら空想次元ではないとおもう。 匿名での誹謗中傷によっておおきくガスぬきされてる現状のほうがはるかにちょろいとおもうのだが。
ことは「名なしありか名のるべきか」「匿名か顕名か」の問題ではあるまい。 「憎悪にこりかたまって〝批判〟の限度をなくしちゃってる狂病人どもをどうするのか」の問題であろう。 法をいじくって厳罰にしたところで、「こりかたまった憎悪」こそが問題の根なのだから、すぐにべつの部面・局面にその憎悪がふきだして、そこにいるだれかがまた犠牲になろう。
ちなみに「顕名」は「けんめい」とよみます、「匿名」の対義語です。
笑犬楼の大尊師もここ数年にわたり、匿名ではない人物すなわち顕名の人物から激烈な誹謗中傷をご家族ともどもツイッターでうけつづけている。 だから、ご自身にかかわるその事実もふまえつつ、まとをはずした前記のような批判に対し、うえに引用した部分でひねりのはいった反論にもなっているあの日碌文をあらわされたのではなかろうかとおれはうけとめているのだが。
「大衆がいっせぃに顕名をきらうのでゎとの予想がある」ってのには、1つにはつぎのような背景も想定している。 これもまえからときどきさえずってるのは、わが朝ではさまざまな面で〝情報の民主々義〟のことがきわめてひどくできそこなっており、まるで前近代の野蛮な非民主国そのものだ。 そのためマスコミなど情報をあやつることができる〝めぐまれたやつら〟に対する根ぶかい憎悪が世にひろくふかく黝々とわだかまっているので、そのように情報を理不尽に独占・寡占されてるうらみとひきかえに、自分らにもひらかれていて自由なネットでは匿名にさせろやコラの気持が大衆のあいだにひろくおおきく成りたっちまってるってわけ。
うえのほうの引用に名をかいたジャングル叫女というプロレスラーのことがでている記事のみだしとURLはつぎ。
===> https://www.daily.co.jp/ring/2020/05/24/0013367650.shtml
2020.05.24
木村花さん盟友レスラー「最期も声掛け続けた…無念」 長期の苦悩、傍で支える
この記事が保存された保存サイトの当該ページのURLはつぎ。
===> http://web.archive.org/web/20200528034203/https://www.daily.co.jp/ring/2020/05/24/0013367650.shtml
===> https://megalodon.jp/2020-0602-0148-40/https://www.daily.co.jp:443/ring/2020/05/24/0013367650.shtml
この記事で、おれがツイートにさえずったことのかいてある部分はつぎ。
女子プロレス団体「スターダム」のジャングル叫女(きょうな)が24日、ツイッターを更新。23日に22歳で死去した盟友の木村花さんが長期にわたり、苦悩していたことを明かした。
叫女は「数ヶ月できる限り花のそばにいました。辛かったね、苦しかったね、私も一緒に闘った。少しでも命繋(つな)げられたかな」と木村さんが長期にわたって苦悩していたことを打ち明け、「最期も声を掛け続けました…無念でなりません」と最期までそばにいたことを示唆した。
番組制作責任者・テレビ局がそれをやるのは人間としてあたりまえであろうとおもえる出演者に対するめんどう見が、ほぼまったくゼロだったらしいことの無責任をツイートでやりだまにあげたのは、うえにその引用をしめすとおりだが、あのツイートをかきこんだあとでつぎにあげる記事をさらにみて、番組制作責任者・テレビ局のそのひどい無責任をあらためてつよくかんじた。
===> https://tablo.jp/archives/24161/2
リストカット画像とともに「楽しく長生きしてね。ごめんね」 木村花さん(22)が『テラスハウス』に出演して激変した人生
2020年5月24日
この記事が保存された保存サイトの当該ページのURLはつぎ。
===> https://megalodon.jp/2020-0612-0511-47/https://tablo.jp:443/archives/24161/2
===> http://web.archive.org/web/20200611201228/https://tablo.jp/archives/24161/2
この記事につぎのくだりがある。
同時間帯には親交のあるプロレスラー朱崇花が自身のツイッターに、「数日前に連絡した時もかなり追い込まれて、今は連絡も通じない状態です どうにかしてあげたい 彼女、精神は強くないよ」と書き込んでいた
故人の身ぢかにいる者たちはかなりハッキリと危険を正確にかんじとっていたことがこれらの記事の内容からよくわかる。 しかもこのふたりだけでなく、ほかにも心配していた仲間がいることも報じられている、ただしこれ以上いちいち記事の紹介はしないけど。 番組制作責任者・テレビ局が、出演者に対する責任あるこまやかなめんどう見をつねに欠かさぬよう責任をもってきちんととりくんでいたら、この事件はけっしておきなかったろうとおもえる。 「めんどう見」というのは、危険がありそうなばあいには、予定を変更して特定の出演者に対して強権的にでも出演停止の措置をとるぐらいのこともふくめてだとおれはおもっている。 このての番組の属性にてらせば、出演停止措置をつねに念頭においての制作進行になることなど、もうまったくあたりまえすぎるとおれにはおもえる。
◆ ◆ ◆
いきなりだがここで1つ余談。 うえの朱崇花がでてくるTABLOの記事をかいたのがどんなやつかはしらぬが、ヘボ記者なのかどうなのか、作文がヘタクソで、げんみつによむと問題がある。 というのは、プロレスラーの朱崇花がツイッターの自分のアカウントでとある内容をさえずったことが、木村花の自殺した「要因のひとつとされてい」るなどとあたかもよめる文章を、記事にかいちまってるからだ。 朱崇花のツイートが木村花自殺の要因の1つ!? デマもたいがいにしろとはこのことだ。 こんなヘボ文章をかくやつに記者などやらせてはいかんだろ。 ひとごとながらヒヤヒヤさせられる。 あぶなっかしい。 えらそーでナンだがこのさいTABLOに猛省をうながす。
◆ ◆ ◆
うえに引用したツイートのなかで
「このことでまたぶっとんだのが、同様のテレビ番組ですでに数十人が世界じゅぅで自殺してるって情報だ。」
とかいた。 この「情報」にあたる記事にはつぎがある。
===> https://www.cyzo.com/2020/05/post_242224_entry.html
世界でも38人が犠牲に!? 『テラスハウス』木村花さん死去で恋愛リアリティは完全消滅か
2020/05/27 12:00
文=日刊サイゾー
この記事が保存された各保存サイトでの当該ページのURLはつぎ。
===> http://web.archive.org/web/20200614051352/https://www.cyzo.com/2020/05/post_242224_entry.html
===> https://megalodon.jp/2020-0614-1411-01/https://www.cyzo.com:443/2020/05/post_242224_entry.html
もう1コつぎの記事もある。
1/2 ページめ ===> https://joshi-spa.jp/1010311
2/2 ページめ ===> https://joshi-spa.jp/1010311/2
2020.06.02
世界で約40人のリアリティショー出演者が自殺。ネットの誹謗中傷がひどかった
橘エコ
この記事を保存した保存サイトでの当該ページのURLはつぎ。
1/2 ページめ
===> https://megalodon.jp/2020-0616-1417-31/https://joshi-spa.jp:443/1010311
===> http://web.archive.org/web/20200616051757/https://joshi-spa.jp/1010311
2/2 ページめ
===> https://megalodon.jp/2020-0616-1419-39/https://joshi-spa.jp:443/1010311/2
===> http://web.archive.org/web/20200616052208/https://joshi-spa.jp/1010311/2
ところでうえに引用したさえずりに「悩み疲れ」のことを推察としてかいたが、あとでかんがえるに、これは「疲れ」よりも「気」の問題としてとらえるほうがふさわしかったっぽいとおもいなおしたので、そのむね以下にしるす。
ここでいう「気」とは東洋医学上の基礎概念でもあるあれのこと。 ひとには「気のめぐり」ということがある。 西洋医学にすっかり毒され汚染されてしまったあたまのひとにこの「気」のことを説明してもわかってもらえぬかもしれぬのだが、めげずにいちおう説明しよう。
「正気」「狂気」「元気」「病気」の4語は、ほんらいはひとにおける「気」の状態をそれぞれあらわす医学上の語であり、だからこそ「気」の字がはいっているのだが、いまふつうにはそれとはかなりちがう意味でそれぞれがつかわれちゃってる。 だがここではそうした一般用語・通俗用語をさけて、ほんらいの意味のものとしてこの4語をつかう。 この4語がそれぞれほんらいあらわす意味としては「正気」と「狂気」の2語がこの2語で1対をなし、また「元気」と「病気」の2語がこの2語でさらにべつの1対をなす。 そして「正気↔狂気」の対と、「元気↔病気」の対との2つがこの2つでより大いなるさらにさらにべつの1対をなす。 そういう関係にこの4語はある。 そしてひとはだれであれ、いきているかぎり、この4つのうちのどれかの気のめぐり方をかならずしているものであり、さらにはこの4つのどれにもあてはまらぬ気のめぐり方はないというのが基本だ。 「気」とはそういうものだ。
これら4語のうち、ひとが健康をうしなっている状態すなわち不健康な状態をあらわすのは「病気」1語だけであり、ほかの3語すなわち「正気」「狂気」「元気」は、いずれもひとの健康な状態での気のめぐり方をあらわす語だ。 「狂気」も健康のうちにはいるので注意がひつようだ。
飲酒して酔っぱらった状態は、「元気」のひとがアルコール酔いで「正気」をなくして「狂気」の状態にあることだ。 アルコールがはいればひとが酔って「狂気」におちるのはあたりまえであり、それは健康で「元気」だからこそそうなる。 そしてその身からアルコールがやがてぬければ酔いもさめて「正気」にもどるのも、やはり健康で「元気」だから、ふつうにそうなるのだ。 これとちがって日ごろアルコール摂取の度がすぎて「元気」をうしない「病気」にいたっている状態がアル中だ。 アル中は、その身からアルコールがぬけると妄想や幻覚におそわれたり、体のふるえがとまらなかったりして、あたかも「元気」のひとが「狂気」におちたとよくにた、あるいはおなじの状態になり、はたまたあべこべに、アルコールがはいるときゅうにシャンとして、あたかも「元気」のひとが「正気」の状態にあるのとおなじになる。 「正気」の状態と「狂気」の状態とが、「元気」のひとと「病気」のひととでは、まるで逆になっちゃってるかのようだ。 これがつまり「元気」をなくして「病気」にいたっている状態としてのアル中だ。 すなわち「元気」がたもたれていて、「病気」にさえなっていなければ、たとえ「狂気」の状態にあっても、そのひとは健康で「元気」であり、したがって治療はいらない。 「狂気」ならばやがておのずと「正気」にもどる。 その意味ではだから「狂気」とはひとが健康・正常でいる諸相のうちの1つにすぎぬのだ。 「元気」でいるひとはかならず「正気」か「狂気」かのどちらか一方の気のめぐり方をしているものなのだという云いかたもなりたつ。
アルコール摂取でのほかによくありがちの実例をもう1コあげれば恋愛での気のことだ。 むかしから〝恋の狂気〟という。 すきなひとができたばかりとかでノボセてる状態にあるときなどは、大なり小なりだれもが「正気」をなくして「狂気」をまとい、ふだんならばけっしてやらぬようなズレたヘンテコな言動やものの考えかたをついついしてしまう。 うれしはずかしの段階ともいえようか。 これはまさに〝恋の狂気〟のしわざであり、健康で「元気」だからこそそのように「正気」をなくすので、この段階でそうならぬとすれば、それのほうがむしろおかしかろう。 やがてノボセをすぎて恋愛がつぎの段階にすすめば、その恋愛が成就するにせよ終了するにせよ、恋愛行動における何らかのイニシエーションにあたる急な1段をへたのちには、だれしもおのずと「狂気」がひっこんで「正気」にもどる。 さきにあげた例の、アルコールがぬけて酔いがさめて「正気」にもどるとおなじだ。 健康で「元気」だからこそふつうにそうなる。 これが気をおかしくして「元気」をなくし「病気」にいたったばあいの代表例の1つこそストーカーであろう。 ストーカーは「狂気」ではないので、やることなすこと、あたかも「元気」のひとが「正気」の状態でやるのとおなじく正確で論理的で〝ズレがない〟。 だからこそシャレにならぬ犯罪になってしまうともいえる。 まるでプロが業務でやるようにストーカーも断固として淡々と日常的にその犯罪行為に〝つとめる〟〝いそしむ〟であろう。 あいてだけでなく自分さえも破壊・破滅する結果になることがわかりきっているであろうに、ストーカーはその行為をやめない、やめれない。 〝恋の狂気〟ならぬ〝恋の病気〟だ。 「元気」をなくした「病気」であり、治療せねばならず、「狂気」とはちがう。 「狂気」ならばいずれおのずと「正気」にもどる、だから治療はいらない。
「正気」「狂気」「元気」「病気」の4語のほんらいの意味とはこのようなものだ。 ちなみにいうと、「気」のことにはかかわらない「やまい」をいいあらわすのが「病気」でなければどの語で表現するかといえば、まさに「やまい」とか「やむ」、あるいは「わずらい」「わずらう」とか、それとも単に「こわす」「わるくする」などと表現したのがほんらいだったのだろうとおもう。 漢字語にしても「疾病」とか「疾患」「病患」「症状」ほか、「気」の字をつかわずにあらわす語はいまもふつうにいくつもあり、よくもちいられてもいる。
この「気」のことに関連して余談的に1コつけくわえると、あの「気ちがい」ということばは、おそらくほんらいは「正気か元気かのどちらかをうしなった状態のいずれも」をあらわす語だったのではないかとおもえる。 すなわち「狂気か病気かのいずれかの状態のいずれも」をあらわす語こそがほんらいの「気ちがい」だったんじゃないのか、と。 つまり「気」のめぐり方が狂気であれ病気であれマトモなのとは「ちがう」状態にあることを、そのまんまことばどおりに「(まともとは)気がちがう」などとあらわしたのが「きちがい」のもとだったんじゃないかとおもうのだが、どうなんだろう。
それはさておき、木村花の件にもどれば、さきに引用したツイートどものなかで「精神的にヘトヘト」などといい、「バランスのとれた判断ができてねぇことに自分できづかねぇ」とか「自分をふくむすべてがイヤになってた」などとかいたのが、「病気」の段階までいっちゃってたことを意味するものとみればよい。 ひどい誹謗中傷に対して木村花は律儀にも「まともに」応じていた。 もしもそうではなくて、それらに対してカリカリと腹をたて、ヒステリックにおこってまわりの何かにあたりちらしてでもいたのなら、これはむしろあたりまえの反応であり、ふつうなので、いかりにわれをわすれて「正気」をうしない「狂気」におちてはいても、「元気」をなくしてはいない状態だろう。 しかし木村花は上記のように「律儀」で「まとも」だったし、自死するための道具も着々と「正確に」「淡々と」用意して、そして手順どおりを「ただしく」やらかしてしんだ。 しぬ直前にもSNSに「ただしく」アクセスして最期のかきこみを「律儀に」しちゃってる。 ズレてないし、トンチンカンでもない。 ただ1つ、名もしらぬ未知の者どもが、面とむかってでもなしにいくら何かをほざこうが、そのためにこっちが死なねばならぬわけなど、この世のどこにも何もないという、こどもでもわかる初歩の常識が、木村花からはきえていた。 「狂気」でなくて「病気」になっちゃってたのだとおもえてならぬ。
たぶん、ながいあいだくるしむうちに、気をおかしくして、しまいに気を病むまでいっちゃったんだろう。 そこまでいくのにどれほどくるしかったかとおもうと、まことに胸がいたむ。 おれは故人より世代のちがう年長の者だが、自死するほどまでくるしかった経験はこれまで1どもない。 だからことばどおり想像もできぬつらさだったのだ。 へんなはなし、そのくるしみから解放されてよかったなぁなどという妙な自死肯定の気持さえおもいうかんでくるのを否定できぬ。 しかしそれにしたって「冥福をいのる」ということばは、このわかさでのこの死にようはあまりに惜しく、すなおにいいたい気持になれぬ。 なんの縁もゆかりもないあかの他人の身ながらも、まことにざんねんな死というほかない。
ツイートの引用ならべをつづける。
この事件について最初にたてつづけにさえずったのは以上だ。
プロレスにもテレビ番組にも芸能界にも関心のない者がこんな事件についてあれこれいうこと自体がそもそもつねのことならぬし、ガラでもない、自分でつよくそうおもう。 にもかかわらずこれについて上記をさえずったのは、この事件をしらせる記事をネットでいくつもよんでしまったことによる。 しかし関心がないのにどうしてそんなに記事をたくさん? そのわけは、じつは、マスコミが誤報してるんじゃないかと うたがったのだ。 というのは前記のとおり、ネットのSNSでの誹謗中傷が自死の原因だと示唆する内容が最初の段階の記事どもにもかいてあるのが誤報じゃないのかと うたがわしくてマユツバだったのだ、はじめのうちおれには。 だってそうでしょう。 いまどきSNSでの罵詈雑言がどんなにひどかろうと激烈だろうと、それで怒ったり悲しんだりするぐらいはだれしもおぼえがあるにしろ、いくらなんでも自死までするものかと、そうおもったのだ。 そしてさらには、例によって例のごとく「あの」下劣・有害のくされたマスゴミどもが、ネット民への偏見まじりにむやみにネットのほうへ罪をなすりつけたがるがゆえに生じた誤報なのでは………などともおもっていた。 そしてこのうたがいがもしもただしければ、それら誤報マスゴミどもをツイッターとかででもクソミソに誹謗中傷してやるべしなどとおもいながら関連記事をつぎつぎよんでいったのだった。 そのよんでいくうちに、だんだん真相を理解していった。 すなわち最初は対マスゴミ批判のくらいくらい情熱をもやしつつ(笑)という〝不純な動機〟あるのみだったので、プロレスもテレビ番組も芸能界も正直いってどうでもよかった、というか、いまでもそれらには関心がないし、関心がもてぬ。
だがそんな〝不純な動機〟にもとづくいきさつからではあっても、真相がだんだんわかってくるにつれて、このできごとに対する見かたはかわっていった。 このできごとは、ずっとまえからおれのあたまにあってある種の気がかりの1つになっている「あることがら」「ある重大なハズである1つの問題」に、ドンピシャでかかわっているとおもうように見かたがかわったのだった。
この「あることがら」「ある重大なハズである1つの問題」というのを説明するのはやっかいで、うまく説明できればよいのにとおもいつづけているのだが、なかなかむつかしく、うまくことばにできずに、むねがくるしくなる。 このことを真正面から、しかもその重大さにみあう等身大のものとして問題提起しているひとを寡聞にしてまだしらぬ。 しかしこのことは1コ1コの部分ずつにわけてみれば、ふつうのひとでもみんなしっているぐらいのことばかりからなるので、まだだれもおもいついていないともあまりおもえぬ。 まだ世にひろくはしられていないどこかには、このことをうったえている賢者が何人かぐらいはいるんじゃないかともおもうのだが。
この「あることがら」「ある重大なハズである1つの問題」というのは、前記の「気」のことにもふかくかかわる。 けっきょくはひとをやまいにおいこみやすい世のおおきなしくみ・からくりの1つであり、みずからのぞむとのぞまぬにかかわらず、いずれにせよこのしくみ・からくりに関与するひとたちは、大なり小なり「気」のめぐりもそれから影響をうけぬわけにゆかぬので、わるくすると今回のようなとりかえしのつかぬ事態がおきる。 それは1つのおおきな社会的病理であり、私的・個人的のそれではない。 そしてじつにさまざまの因子が複合して1つのおおきな1まとまりをなすような、あるいはまとまりなどはなさずにひたすらだだっぴろくにひろがっているばかりであるかのようにおもえもする、そんな1大病理なのだが、これをさして的確・簡潔にあらわす語もまだないし、おれもそれはおもいついていない。 しかもこの1大病理はきわめて現代的でありながら、この世でもっともふるくてあたらしい問題の1つだともいえるようにもおもえる。 梅棹忠夫の提唱した文明史観・情報産業論にてらしても、この問題がいまあるようなふうに生じてくるのは史的必然だともいえるとおもう。
この1大病理についてのくわしい論をいまこの記事のなかでおおきく展開するつもりはないが、1つだけ云っておくと、「読み書き」というおこない・いとなみは人間にとってそもそも何なのかの問題とひじょうにふかくむすびついてるらしいっぽいことだ。 「読み書き」は、全生物のなかでただ1種すなわちいうまでもなくわれわれヒトすなわちホモ₌サピエンスだけしかやらぬ。 これについては、ヒトとそのほかの生きものとのあいだにきわだって画然とした極度の大差があり、いわばおおきく断絶しているほどにハッキリした、ひじょうにいちじるしくちがっていることであろう。 しかし「読み書き」は、「読む」にしろ「書く」にしろ、「文章」によってつくりあげられるところの「虚構」をめぐってのおこない・いとなみだが、そうした虚構という意味ではおなじであるハズの「お芝居」というおこない・いとなみとくらべてみると、これをその根っこでなりたたせているところの「ふりをする」こと「演技する」こと「ものまねをする」ことは、ヒトだけではなくてある種の動物たちもしばしばやることでわかるとおり、あるていど高等に進化した生きものにはさほどめずらしくはないことだ。 ということは、「演技」「おしばい」は自然・天然・野性と本質的には切れていないおこない・いとなみであることになる。 しかし「よみかき」はそれとはちがう。 そして「おしばい」にであれ「よみかき」にであれ、それにとりくんでいるひとたちの「気のめぐり」は、それぞれのおこない・いとなみからふつうに影響をうける。 「演技」「おしばい」にかかわることは虚構のいとなみ・おこないであるにしても自然・天然の気のめぐりを本質的には乱すことがないか少なさそうであるのに対して、ヨミカキによる虚構のいとなみ・おこないにおける気のめぐりは、むしろあべこべに自然・天然の気のめぐり方を本質的に乱すように乱すようにとはたらくんじゃないかとの説がなりたちはしないか? インターネットでの表現はパソコンや昨今ではおおくのばあいスマホで閲覧【えつらん】されるのであろうが、この「閲覧」というのは「よみかき」の「よむ」ことだ。 つまり「ネットをえつらんする」というのは本質的に「読み書き」というおこない・いとなみに属し、したがってこれをやるときのひとの「気のめぐり」は自然・天然の気のめぐり方を本質的に乱そうとする方向にどうしてもはたらきがちになるのではなかろうか? そしてこれがネット₌サイトを「よむ」のではなくてネット₌サイトに「かく」「つづる」となれば、それにとりくむひとの気のめぐりは、ただ「よむ」ばあいよりも自然・天然のそれからいっそうへだたるであろうことはいうまでもなかろう。 気のめぐりの乱れとはもちろん前記の「狂気」「病気」「きちがい」であり、また「正気」「元気」をうしなうことだ。
これは「よみかき」というおこない・いとなみにぴったりした気のめぐり方についてのはなしだが、それをわずかこれしき説明するだけでもこんなに長たらしい文章になってしまう。 ところがくだんの1大病理を説明しつくすにはこのほかにもまだいろんなことどもについてあれこれふれねばならず、それら1コ1コの説明がどれもおなじように長くなる。 そんなものをすっかりかいていたらこの記事の主題がぶれてしまうこともあり、いまここではむりだ。 いずれにしてもいまのこの世はひとびとをやまいにおいこむ悪質きわまるしくみ・からくりが何層にもおよぶ多重のありさまであるとともに作用しつづけてきてもいるのみならず、さらにはそれがひろくあまねくどこにでもひろがってしまっているので、いまさらその全体をすべて1つのこらずすっかり是正・改良しつくしてこの世から問題をゼロにまでなくすることは、もはやだれにもいつまでたってもできぬのではなかろうかと、深刻に絶望的になるばかりなのだが、うえにちょっとだけ説明しかけてみたこの件も、おれの目にみえるそうした悪質きわまるしくみ・からくりのおおきな1つなのである。
ツイートの引用を以下つづける。 ここまで引用したツイートからはややマをおいて以下をさえずった。
このさえずりにある「上部構造」「下部構造」の用語は、マルクス主義の原典とかに忠実なのとはちがう、忠実ではない。 マルクスの原典などではこうした「下部構造」はもっぱら「経済」「経済構造」にむすびつけられるからだ。 そしてそれらにおいては法制度は下部構造ではなくて上部構造のうちにいれられる。 このさえずりにかいたのは、そんな古典的なマルクス主義の、いまではせまい限界をもつようになってしまったかんがえ方をこえた、現代的な見かたによる説明だったと云うことがいちおうできる。 「憎悪といぅ感情のありよぅとしての上部構造」をなりたたせている下部構造は、よりただしく表現すれば「法制度」そのものではない。 では何かといえばむしろ「事実」「現実」そのものだ。 すなわちその法制度に規制されてなりたっているところのわが朝のテレビ放送事業における独占・寡占がうみだしているところの多相で多部面・多局面にわたる事実・現実のすべて一切合財、これそのものが下部構造だ。 この下部構造としての事実・現実がひとびとの意識に反映してなりたっているところの上部構造の1つにくだんの「感情」もがあるってわけだね。 しかしながらさらにほりさげてこれにつけくわえるならば、わが朝のテレビ放送事業における独占・寡占という前近代の野蛮で非民主的な事実・現実が、どうしていつまでたっても真に民主的・現代的には改良されずにつづいているかといえば、この「事実・現実」のもとになりたつところのあまいあまい利権を断固として保守・維持し、らくにゼニを大もうけしつづけてきているところのゴクツブシのダニどもが、政府権力とむすびついてそのチカラをおもいのままにふるっているからである。 と、ここまでを説明の射程にいれるなら、この利権こそはまさしく経済構造そのものであって古典的な意味での下部構造の語がズレなくぴたりとドンピシャにあてはまる部面、あてはめるべき部面なので、草葉の陰のマルクスさんもさぞやニコニコなっとくしてくれるでありましょう。 そしてそこでおもいのままにヤツラにふるわれているところのチカラこそほかならぬ暴力であるからには、総じてみればつまるところこの件もまた、社会的・構造的のきわめて大がかりな「憎悪と暴力」の問題であります。
圧倒的多数の有名芸能人のおはなしにならぬ腰ぬけぶりに対して、いささかヒステリックで誹謗中傷めいた攻撃をしてしまっているであろうか、われながら。 めぐまれたやつらにはそれに応じた社会的責任がそなわらねばならぬハズだが、こんなことをわが朝のいまどきのテレビ芸能人ふぜいにいくら説こうともふつうに100%超むだなのは、まぁ当然すぎてこまるほどに当然のことなのであろうよな、ざんねんなことだけれどもな。
さらにややマをおいて以下をさえずった。
木村花夭折事件にかかわってこれまでさえずったツイートはいまんとこ以上だ。