見出し画像

アルバム

長年育った千葉の実家から徒歩10分ほどのところに、幼いころ祖父母が住んでいた。
祖父は小学4年生の時に他界し、祖母も高校生の時には亡くなってしまったので今はもうその家は存在せず、跡地には伯父と伯母が居を構えている。

私は実家からそう遠くない場所で一人暮らしをしているので、時折その家の前を通りかかるのだけれど、そのたびにふとあの古くて薄暗い昭和の住まいを思い出す。もう、記憶の中にしかない、思い出の城だ。

私にとっては優しかった祖父は、昔はずいぶん怖い昭和の頑固おやじだったらしい。
朝起きたら、味噌汁の豆腐が天井に張り付いていたなんて笑い話を父から聞くたびに、それは本当に私の知っている祖父なのか?と思うのだけれど、親戚に聞いても同じような答えが返ってくるのだから、おそらく本当なのだろう。鉄道が好きで、カメラが好きで、本には必ず自作のカバーをつけるようなマメな祖父であったと思う。
父が多忙だったから、私の幼い時の運動会や発表会の写真やビデオは、ほとんど祖父が撮ったものだ。
祖父が残したニコンは、ずいぶん前に父が同僚にあげてしまったそうなのだけれど、もう少し早くカメラという趣味に出会えていたら、もしかしたら古いフィルムのカメラが一台、私の手元に残っていたかもしれない。

祖母は、祖父とはちがってとんでもなくマイペースな女性だった。
どうしてこの二人が夫婦なのか?というのは大人になった今でもよくわからず、でもきっとそこにも私のあずかり知れぬドラマがあったのだと思う。とくに祖母は、その父親が大変な道楽者であったので。

幼い私が祖父母の家の裏口のドアを開けると、いつもソファーにはぷかぷかと煙草をふかしている祖母がいた。たしかセブンスターだっただろうか。
ゴミ箱替わりに置かれていたラークの赤いスチール缶を覚えているから、もしかしたらラークだったのかもしれない。

私自身は大人になった今も煙草は吸っていないけれど、喫煙者にあまり嫌悪感がないのは、祖母がぷかぷか煙草を吹かすのを、なんとなく素敵だなという思いで見ていたからだと思う。
見た目も含めて、魔女みたいな祖母だった。
大切なことを聞こうとすると、いつもはぐらかされてしまうような。
短歌をやっているということ以外、ほとんどなにも知らない。大変秘密主義だったと思う。

几帳面な祖父と、つかみどころのない祖母。
時折喧嘩もする賑やかなこの夫婦の家には、なぜだか来客が絶えなかった。

幼かった私たち兄弟はもちろん、都内に住む親せきなども良く居間へやってきては、他愛のない話をして過ごしていた。
まさか大人になってから仕事で書くことになるとは思わなかった新撰組は、居間で大人たちが話しているところから覚えた。
嘘だか本当だかわからない、勝さんの子孫の話とか自分の先祖のお話とか。
大叔父の吸うパイプの匂い、時折持ち込まれる謎のお土産。
あらゆるものが特別で、知らないことだらけの世界はあまりに輝いて見えた。
平成が来て、祖父が亡くなって、祖母が施設に入ると自然と親戚とは疎遠になって、そのうち家も取り壊されて。
あの頃は感じなかったけれど、ただひたすらに、時の流れとは寂しいものだ。


自分がまもなく40歳になるという歳になって、
私たちの親の世代は、子供をかすがいにしながらたくさんの親戚との関係を、努力しながら築いていたんだな、と強く思う。
私が懐かしく思う祖母の煙草の香りや、時折頼んでいた真向かいにある中華屋さんのラーメン。岡持ちの中にあるラップのかけられたどんぶりも、薄暗い二階に敷き詰められたNゲージも、私が怖くて泣いていた写楽の歌舞伎役者のパズルも、全部全部、父や母が親類との関係を絶やさなかったからこそ得たものだ。

私は未婚で、家庭を作る予定もいまのところはないので、私の記憶の中にあるこの風景は、誰にも語り継ぐことなく、私が土に戻ると同時になくなっていくのだけれど、
最近はなんだかそれが少しもったいないような気がして、ふと深夜にこのアルバムを書くことを決めた。

たったひとりの頭の中にある、他愛のない思い出の一ページ。
でも、私にとってはかけがえのない、誰かと生きた思い出の一ページだ。

どれだけつらい毎日を過ごしても、たぶん、記憶の中には、必ず美しい何かが眠っている。
私の中のお城には、祖父と祖母と、懐かしい煙草の匂いがある。

愛されていた。だから、きっと明日もこの記憶の城を根城にして、私は幸せに生きられるのだ。

いいなと思ったら応援しよう!