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1997年ピアノとコンプレックス

2番目のピアノ教室

最初に習い始めたピアノ教室は、祖母の「ここはお姉さんたちがあまり上手じゃないから辞めた方が良い」という助言から、早々に辞めることとなった。姉が傍目に明らかにピアノの才能を開花させていたので、今後のことを考えての決断だろう。

新しい先生は、黒い真っ直ぐな髪を綺麗に伸ばした素敵な先生だった。
大きなグランドピアノでレッスンを受け、レースのかかったフカフカのソファーでソルフェージュをした。
いつも明るくハツラツとした先生が好きで、レッスンが楽しみになった。

姉と比べると特別な才能はなかったものの、普通のこどもとして、ピアノをそれなりに練習し、それなりの上達を見せた。

この年の春、発表会でモーツァルトのピアノソナタ第16番ハ長調を弾くことになった。ドーミソシードレドー♪という、耳馴染みのある曲だ。
私にしては背伸びしたチャレンジ曲であり、これまでで1番嬉しい選曲だった。本番までになんとか形にして弾き切り、私の数少ないレパートリーとなった。

3番目のピアノ教室

引越しにより、大好きだった先生ともお別れとなった。

母に「お姉ちゃんは音大を目指すかもしれないから少し遠くの先生に習うけど、えまはどうする?」と聞かれた。
私は遠くのピアノ教室に行く気はないと宣言し、マンションから徒歩1分のピアノ教室に通うこととなった。

レッスン室は狭く、アップライトピアノで、先生は良く言えばおおらかな、正直なところかなりいい加減な人だった。
レッスン帰りに採れたての野菜をくれたり、古い漫画を貸してくれたりと、ピアノに関係ないところでとても良くしてもらったが、ほとんど音楽的な指導を受けることはなかった。

ピアノについて

ずっと、ピアノを弾くことに夢中になれなかった。そして、並々ならぬ努力で素晴らしい演奏をする姉にコンプレックスを抱いていた。
「お姉ちゃんほど頑張れない」「そこまでピアノを弾くことが好きではない」にもかかわらず「でも私も認められたい」という気持ちだった。

そんな私は、小学校から中学校にかけ、合唱曲のピアノ伴奏をすることに固執した。純粋に、合唱曲の伴奏が楽しかっただけでなく、伴奏者として選ばれることが誇らしかったのだ。
家庭内で私のピアノの実力について言及されることはないが、学校では賞賛された。私はピアノの練習曲はほったらかし、伴奏曲ばかり練習した。

なんとなく続けていたピアノも、高校生になったころあっさりと辞めた。
10年以上ピアノを習い続けて得たものは、音楽の基礎教養と、学校生活における自信くらいだと思っていた。

娘とピアノ

私がピアノに対して絶妙に微妙な思いを抱いていたので、娘にはピアノを習わせようと積極的に働きかけなかった。
しかし、5歳になってすぐの頃、娘に「ピアノを習いたい」と言われた。私は驚いて戸惑ってしまったが、夫は喜んでいた。

娘にピアノを習わせてみて改めてわかるのだが、練習しないと上達しないものだ。無理に練習させてもしょうがないと放っておいたら、一向にテキストが進まない。
見かねた夫が練習するように促し、私もそれにあわせて練習につきあうようになった。

一歩ずつ練習を進める姿を見ているうちに、楽譜を読み十本の指を使ってピアノが弾けるというのは、当たり前のことではないよなと思うようになった。少なからず地道な練習を積み重ねた過去の私にも、もう少し優しい眼差しを向けてあげようか。


娘には、ピアノを好きになるもならないも、続けるも辞めるも、自由にしたらいいと思いつつ、折角習うなら上手くなって欲しいと、ついつい欲が出てしまう。親心は厄介だ。